猫と宇宙船

木曜天文サークル

猫と宇宙船

 猫と遊んでいた。彼女は泣かないし、怒らないし、笑わないけれど、優しかった。

「ねえ、明日は星が見えるといいね。」

”そうね。”

 ここ最近はもうずっといつ見ても窓の外はワープの壁で、微かな光になろうとする粒の嵐ばかりだった。もしワープを抜けたところで景色はどこも黒くて代わり映えのしない宇宙空間なのだけれど、たまに大きな環のある星の近くを通り過ぎたり、変な形の小惑星を双眼鏡で探したり、それに比べればここは単調で退屈していた。

「『彗星』だって。知ってる?」

 今にも崩れそうに山積みになった本の部屋から言葉の説明ばかりが載っている分厚い重いものを持ってきて、床に置いてページを捲った。知らない言葉の羅列。最近見つけたお気に入りの本だった。

”ほら、ずうっと前に長い尾を引いた星を見たじゃない。”

「ああ、ほうき星のことね。もうずいぶんと昔のことのような気がする。」

 なんてたくさんの言葉が存在しているんだろう。私はいつかこれを全部覚えてしまう日が来るのだろうか。

「本がたくさんある場所を『図書館』って言うんだって。これからあの部屋を図書館と呼ぼうよ。」

”図書館は本を置いてある部屋がいくつもあるわ。あれは一部屋だからきっと『図書室』ね。”

「としょしつ。」

 それは素敵な響きだった。私はあの部屋をこれから図書室と呼ぼう。


 それからしばらく過ぎて、目が覚めると、この船で一番広い窓から見えたのは大きな大きな青い星だった。

「ずいぶん近くだわ!きっとここがワープの目的地だったのね。」

 星の表面は渦がゆっくりと蠢いていた。あの下には『天気』があって、もしかしたら『大気』や『植物』もあって、彼女以外の猫だっているかもしれない。

「今日は音楽を聴こうと思うの。」

 レコードが沢山立ててある部屋で目に留まった、緑と古い家屋の写真の袋。中の艶やかな円盤を取り出して、プレーヤーに置いた。大きな青い星とたくさんの計器に見られながら、静かに針を落とした。強くリバーブのかかった不思議なピアノの音が時間を何倍にも緩やかにする。

「音楽がたくさん置いてあるひとつの部屋だから、あれは『音楽室』?」

”ええ、そう呼んでもいいんじゃないかしら。”


 レコードを音楽室に返しても、私たちはまだ青い星を眺めていた。

「いったいこの船はどこに向かっているのかな。」

 彼女は伸びをして答えた。

”本当はね、この青い星だって私たちは最初から知っているのよ。”

「前にも見たことがあるってこと?」

”ええ、ここは時間がずっと変わらないの。”

「わからないわ。」

 そう言うと彼女は珍しく、きっと私にしかわからないけれど、少しだけ微笑んだ。

”あなたはあなたの時間を抜け出して、これから何処へだって行けるってことよ。”

 私はなんだか上の空で、けれど彼女の言葉は全部胸の中に入ってきて、頭の奥の方で彼女の言葉を反芻した。彼女の流れるような毛並みに触りたかった。

「そっか。」

 柔らかくてしなやかな体が温かかった。私が撫でると彼女は心地よさそうに喉を鳴らした。


 あんなに大きかった青い星は、段々と視界から外れて、もう窓の右の端に僅かに見えるだけになってしまった。あと少しもすればあの星は見えなくなって、この船はまた別の場所に向かうのだろう。私たちは右端の操作盤を乗り越えて、曇りひとつない大きな窓にもたれかかっていた。少しでも長くこの星を見ていたかった。ひんやりとした窓ガラスに手を触れた。

「さようなら、大きな大きな青い星。」


 そうして青い星に別れを告げ、またワープを飛んで、今度は光を出さない真っ黒な星が視界に入った頃、景色は突然無くなった。窓が壊れてしまった。船の中のすべての窓が繰り返し同じノイズの嵐を流し続けている。白と黒だけの映像の前にぼんやりと座り込んだ。

 この船のすべての窓は、本当の窓ではなかったのだ。景色を電気信号に変換してそれぞれの窓に映し出していただけだった。

 でも、それでも構わない。本当に素敵なものをたくさん、私たちは見てきた。ブラックホールの歪みやほうき星や美しいガスの雲、あの大きな青い星だって、見てきたものは私の中でずっと変わらない。

 今はただ、ノイズを映す画面がどこまでも平面的に見えて、それだけが少し苦しかった。


 それからどれだけ眠ったのかわからない。あの後船は少しずつ、ゆるゆると色んな場所が壊れていって、私は光らなくなった操作盤と真っ黒の画面の前で横になっていた。

「もしかして、この船はどこかの星にぶつかっちゃうかな。」

”景色が見えないからどこへ向かっているかわからないわね。もし操作系統が壊れていたら、星の重力に引っ張られて、いつかこの船がどこかに墜落してしまう日も来るかもしれない。”

「私、墜落しちゃうのは嫌だな。」

 燃えて流れ星になってしまうくらいなら、この暗くてどこまでも果てのない宇宙をいつまでも漂っていたい。

「ねえ、私たちはここを出ましょう。」


 ハッチを閉めて呼吸を整え、優しく彼女を抱いた。金属の部屋はひんやりしていて、だから彼女の温かさが余計に際立って、私はもうすっかり落ち着いていた。

「ねえ、明日は星が見えるといいね。」

”そうね。”

 彼女を抱きしめたまま深く息を吸った。

「さようなら、宇宙船。さようなら、私たち。」

 外へのハッチを回した。




 眩しくて目が眩んだ。わからないまま一歩踏み出すと、なんだかふかふかしていて、ゆっくりと視線を上げると、鮮やかな緑の草原がきらきら光っていた。遠くには大気で滲んだ山。彼女を強く抱きしめた。振り返ると、そこにあったのは錆びてボロボロになった、今にも崩れそうな宇宙船だった。きっとさっき雨が降ったのだろう。船の後ろの長いわだちには水たまりができていて、黄色くて小さな花には水滴が光っていた。

 草原に一本だけ木があった。木の下には古いピアノがあって、私は彼女をピアノの上に置いた。蓋を開けて、鍵盤を押す。鍵盤は重くて、ポーンと一音だけ草原に響いた。

 私はピアノが弾けるようだった。あの時、大きくて青い星を眺めながら聴いたあの曲を、ゆっくりと思い出しながら一音ずつ音を鳴らしていく。

 やがて曲は終いになって、でも私はこれからどうしたらいいのかわからない。ピアノの上の小さくてふわふわなぬいぐるみを繰り返し撫でた。向こうに見える錆びてボロボロの宇宙船が、私はひどく懐かしい。


「さようなら、猫と宇宙船。」

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