今更家族だなんて言われても

広川朔二

今更家族だなんて言われても

皿の砕ける音を、俺は今でも覚えている。

目の前で父が怒鳴り声とともに母に向かって投げた白い陶器の皿。割れた皿の破片が床を跳ね、俺の足元まで転がってきた。血は出ていなかった。けれど、あの時の母の目の色と、父の口から飛んだ唾の熱は、時間が経っても消えない。


何が原因だったのかは覚えていない。ただ、父は機嫌が悪くなるとすぐに怒鳴ったし、母はそのたびに無表情で黙りこくっていた。俺はその空気を読むことだけに長けた子どもだった。声を出さず、気配を消して生きる。それが、家の中での“正解”だった。


やがて両親は離婚した。


何の前触れもなかった。ある日を境に父はいなくなり、母と俺は母の実家へと移った。古くて寒い家だった。大人たちは母の帰還を歓迎していなかった。祖母は「戻ってくるなんてねぇ……」と呟き、祖父は新聞から目を上げることすらなかった。


母の顔はさらにこわばっていった。最初は俺を守るようにふるまっていた気もするが、それがいつからか変わった。「あんたがいたから私は結婚したのよ」そんな言葉を聞いたのは、小学生のときだったか。


それからの俺は、母と祖父母の間に挟まれ、完全に孤独になった。学校でも口数は少なかったし、家では存在を無視された。


何度か「いっそいなくなれば」と思ったこともあった。でも、俺が消えても誰も泣かないし、誰も探さないことだけは、はっきりと分かっていた。だから、なんとか生きた。気配を殺し、波風を立てず、ただ“そこにいる”というだけの存在として。


そんな生活に変化が訪れたのは、高校を卒業した春だった。進学も就職も、誰も助けてはくれなかった。奨学金も頼らず、アルバイトを掛け持ちして、どうにか最低限の生活費を稼いだ。祖父母の家を出るとき、母は何も言わなかった。むしろ、ほっとしているように見えた。


俺はその日、ようやく“家族”という牢屋の鍵を手に入れた気がした。


それから数年、俺は静かに暮らしていた。


派手な仕事ではないが、生活には困らない程度の収入があり、趣味というほどでもないが本を読んだり、映画を観たりする時間も持てるようになった。誰にも期待されない、誰も頼ってこない、ただ“自分だけの世界”で生きていくのは案外、悪くない。


誰かと暮らしたいとも思わなかったし、家庭を持ちたいとも思わなかった。子どもが好きだとも、嫌いだとも思わない。ただ、俺は「誰かのために生きる」ことに、ひどく懐疑的だった。


そんなある日、スマートフォンが鳴った。表示された名前を見て、思わず固まった。


—祖母だった。


間違いかと思った。あの家をでてから何年も連絡などなかったからだ。むしろ高校の時にアルバイトで貯めたお金で買った携帯電話に祖母から電話がかかってきたことが初めてではないだろうか。


少しの間迷った末、出た。久しぶりに聞いた祖母の声は沈んでいた。


「……お母さんがね、死んだの」


「そうですか」とだけ返した。それ以上、何も浮かばなかった。どこかの芸能人が亡くなった、くらいの感覚。悲しくも、懐かしくもない。ただ、“終わった”という事実が目の前に置かれただけだった。


通夜と葬儀には出ることにした。


いくら何も感じないとはいえ、「出なかったら後で何か言われるかもしれない」と思ったからだ。そんなふうに思う自分が、ひどく冷たい人間に思えたが、実際そうなのだろう。体裁のためだけに母親の葬儀に出る息子。ああ、俺もあの人たちの血を引いているのだな、最期の別れの時に否が応でもそう自覚してしまった。


葬儀場には、祖父母と数人の親戚、それから……思っていたよりも多くの人がいた。母の知人らしい。知らない顔が並んでいた。祖母は涙を流し、嗚咽を漏らしていた。祖父も黙ったまま、目を赤くしていた。


俺はその様子を、まるで他人事のように眺めていた。


「死んでから泣いても遅いだろう」


誰にも聞こえないように漏れた俺の声。何一つ手を差し伸べてこなかった人たちが、棺の前で“いい人だった”と語る光景には、吐き気すら覚えた。


そして、あの男が現れた。


最初、誰か分からなかった。痩せこけ、髪もまばらで、背中が丸まっていた。近づいてきたとき、ようやく気づいた。


父だった。


目の前に立った父は、かつての迫力など微塵もなく、どこか哀れな雰囲気さえまとっていた。


「……おい、久しぶりだな」


俺は何も答えなかった。


「母さんが死んで、これから大変だろ? 俺も今、困っててさ。少し金、貸してくれないか。なあ……家族だろ?」


一瞬、怒りのようなものが喉元まで込み上げたが、吐き出さなかった。


「無理です」


「は? おい、俺が誰だかわかってんのか?」


「ええ。あなたは“俺の生物学上の父親”です。でも、俺を育てた覚えはないですよね」


父の目が細くなり、口の端が歪んだ。


「クソガキが……人の情けも知らんのか。ろくな大人にならんぞ」


そう言って前に出ようとしたが、俺は動じなかった。背丈も、体格も、もはや俺の方がずっと大きい。

威圧してくるつもりだったのだろうが、こっちはまるで怖くなかった。


「子供を捨てたあんたよりは“ろくな大人”だよ」


そう言って、俺は背を向けた。


背後で何かを叫んでいたが、風の音と同じだった。


あの葬儀から数週間後、区役所から一通の封書が届いた。差出人は「福祉課」。用件は察しがついた。


中には「扶養照会」の文書が入っていた。父親が生活保護を申請したらしい。その審査の一環で、まず親族に扶養の意思があるか確認する、というものだった。


なるほど、今度は制度を使って俺に寄りかかろうってわけか。笑いすら出なかった。


返信用の書類を広げて、項目を淡々と埋めていく。「扶養する意思がありますか?」の欄には、迷わず「いいえ」と記した。その下の備考欄に、あえて一言だけ書いた。


――育てられた記憶がありません。


役所からは数日後、電話が来た。若そうな職員の声で、やや困ったように「本当に扶養は難しいのでしょうか……」と食い下がられた。


「難しいというより、不可能ですね」と俺は言った。「育てられた覚えがないんです。会話すら十年以上なかった人間を、どうして扶養できると思うんですか?」


「いえ、あくまで確認ですので……。ただ、血縁上は――」


「血が繋がっていようと、こちらに養うつもりはありません」


それ以上、相手は何も言えなかった。会話は十数分で終わり、電話を切ったあとも、俺の心は不思議なほど静かだった。


その翌週だった。

今度は父が亡くなった、という連絡が来た。


電話口の声はやけに事務的で、「身元確認が必要で」と言っていた。だが俺は、身元の確認も遺体の引き取りも、すべてを拒否した。


「家族を捨てたのは、そちらの方です。こちらが背負う理由は一切ありません」


「最期まで一人でいるのが故人にはお似合いです。どうぞ、そちらでご処理ください」


一切の怒りも、悲しみもなかった。ただ、これが当然の結末だと思った。


俺の中で、父は“もう死んでいた”のだ。


ずっと前から。母を傷つけ、俺を見捨て、家族という船から真っ先に逃げた男。その行き着いた先が、誰にも看取られず死んでいくという結末であることに、妙な納得感すら覚えた。


冷たいかもしれない。けれど、これが俺の“答え”だった。


もう、誰かの都合で傷つけられることもない。

もう、誰かの血縁に縛られて生きることもない。


俺はようやく、“自分の人生”のドアの鍵を、完全に手に入れたのかもしれない。


父の死を知ったあと、俺は何日か、部屋の時計の音だけを聞きながら過ごしていた。


泣きもせず、怒りもなく、ただ妙な空虚感だけが胸に残っていた。何かを失ったというよりは、「役目を終えた装置が止まった」とでも言えばいいだろうか。もう二度と、あの声を聞くことも、あの目を見ることもない。それは、確かに“終わった”という感覚だった。


そして、不思議なことに、終わったと実感した瞬間から、呼吸が少し楽になった。胸に乗っていた重りが、少しだけ外れたような気がした。


俺は、静かに思った。


「これで本当に、一人になったな」


でもそれは、かつて感じていた“孤独”とは違っていた。あの頃の俺は、居場所がないという感覚に苦しんでいた。でも今は違う。誰にも縛られない。誰にも命令されない。誰かの顔色をうかがって生きる必要もない。


俺は、俺のままでいていい。


ある朝、思い立って古い写真を処分した。アルバムの中の父と母、幼い頃の俺。笑っているような顔の自分が、どこか遠くの他人のように見えた。


何もかも燃えるゴミ袋に入れて、玄関の前に出した。それだけのことだったが、肩の力が抜けた気がした。


そしてふと思った。誰にも期待されず、誰にも頼られず、それでもこの先、自分のためだけに人生を積み上げていくことができるのなら――


それは、案外悪くない生き方なのかもしれない。


コーヒーを淹れて、窓を開けた。春の風が入ってきた。少し冷たいが、心地よい。カーテンが揺れ、遠くから子どもの笑い声が聞こえた。


俺はその声をただ聞いていた。

微笑むでもなく、泣くでもなく、ただ静かに、そこにいた。


この先、何があるかなんてわからない。

でも、もう過去には引きずられない。

俺は俺の人生を、生きていくだけだ。


誰のためでもない、自分のために。

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