降りられない

青居緑

第1話

私の住むマンションは一五階建で、私は十二階に住んでいる。眺めがよくて気に入っているが、エレベーターの時間が長いのが玉にきずというところだろうか。


朝、私はいつものように出勤した。もちろん目的は玄関フロアのため、下行きのボタンを押す。上がってきたエレベーターには先客がいた。スーツの男だから、おそらく同じように出勤するのだろう。


十三階より上の人だろうかと思いながら乗り込む。扉が閉まってから、ふと気づいた。このエレベーターは、下から来たのだ。この男は、どうして乗っていたのだろう?なんとなく不気味に感じて、少し距離をとった。気のせいか、やけに疲れているような気配を感じる。こっそりと横目で見ると、濃いグレーのスーツに薄くなった髪。見た感じは、普通のサラリーマンというところか。


こういう時、十二階からのエレベーターは長い。やっと三階を過ぎ、もうすぐ一階だと思ったその時だった。エレベーターの階を表す表示は一階を示したと思うと、扉を開けずに再び昇り始めたのだ。


どういうことだろう。私は、三階、四階と上がっていく数字を見つめた。エレベーターは、するすると昇っていくと、七階で止まった。


七階では若い女が待っていた。こちらも出勤するのだろう、髪はショートできりりとした印象だ。一瞬迷った表情を見せたが、彼女はそのまま乗り込む。エレベーターには三人が乗っている。女は一階のボタンを押し、エレベーターは下に降りていく。


しかし、結果は同じだった。エレベーターは再び一階で扉を開けることなく上昇を始めた。次は四階に止まった。指定のごみ袋をひとつ持った初老の男がいたが、七階から乗った若い女性が降りたので、エレベーターは三人を乗せて上がって行った。


今度は十五階まで昇り、ワンピースを着た髪の長い女を乗せた。これで四人だ。このマンションはエレベーター一機につき、各フロア三戸だ。一度にエレベーターに四人いるなど、めったにないことだった。いや、問題はそれではない。このエレベーターは、一階に降りずに上がった。もう二回もだ。ただ、エレベーターに人を乗せるだけ。


エレベーターは四階で止まった。そこには、最初に七階で乗ったあの女がいる。どこか青ざめているようだ。五人を乗せたエレベーターは満員ではないが、少し息苦しい。


今度は開くだろうか。いや、開いて欲しい。しかしその願いもむなしく、エレベーターはまた一階まで下りて、同じように昇り始めた。私はさっと三階のボタンを押す。階段室から降りようと思ったのだ。


エレベーターから降りたその時に「無駄よ」と聞こえた気がした。誰が言ったのかはわからない。しかし私はすぐにその意味を知ることになった。


階段室の扉を開け、向こう側に足を踏み出す。だが、扉を潜った先は、元居たエレベーターフロアだった。まるで私が階段室から入ってきたように。


呆然として立っていると、エレベーターが上がっていった。私は昇っていく数字を見ながら、さっき「無駄よ」と言ったのは、四階で降りたショートの女だったのではないかと考えていた。彼女も階段室から出ようとしていたのではないだろうか。


下に向かうボタンを押そうとして、考え直して上行きのボタンを押した。いったん部屋に戻ろう。会社には間に合わないかもしれないが、頭を冷やしたい。


エレベーターは一階まで降りて、すぐに昇ってきた。また扉は開かなかったのだろう。


昇ってきたエレベーターは、私が降りた時より一人多く、五人が乗っていた。最初に乗っていた髪の薄いサラリーマン以外は皆不安そうな顔をしている。サラリーマンは、むしろ状況を楽しむように薄笑いしているように見えた。


「故障しているみたいですね。管理会社に連絡しましょう」


ワンピースの女が呼び出しボタンを押したが、特に何も起こらなかった。エレベーターは停止していた。上の階で誰もエレベーター呼んでいないからだろう。


「すみません。電話を使います」


ショートの女がさっとスマホを出し、操作を始めるが、すぐにはっとした顔をして動きが止まった。


「……電波が届いてない」


「もしかして、皆さん降りられないんですか」


それは私が三階にいる間に乗り込んできた、背の高いスーツの男だった。がっしりした体形で、正直六人乗っている今は圧迫感がある。


彼はまだこの異常体験を一度しかしていないので、気持ちに余裕があるようだ。


エレベーターは三階で止まったままだ。さっき押した緊急ボタンからやはり何の応答もないままで、エレベーターには不穏な空気が増幅していた。


ふと、ごみ袋を持った初老の男が言った。


「二階の住人に助けてもらってはどうでしょう。いざとなれば、窓から出られます」


「いいですね。僕が降りましょう」


がっしりした男が頼もしく言った。今度こそ、なんとかなるかもしれない。二階の住人が応じてくれるかがカギだ。


ワンピースの女が二階のボタンを押し、すぐにエレベーターは階下に降りる。

がっしりした男がエレベーターを降りた……。


しかし、次の瞬間、彼はエレベーターの中にいた。

私は確かに見たのだ。彼がエレベーターをまたいでフロアに踏み入れたのを。

しかし、現実はそうではなかった。誰もエレベーターから降りてはいない。


「だから、無駄ですよ」


と、最初に乗っていた、髪の薄い男が言う。


「私たちは、もう降りられないんです。僕は昨日の朝からここにいます」


男は諦めているようであり、楽しんでいるようでもあった。そして歪んだ声で笑い出す。その瞳には涙が滲んでいるようだった。


昨日から、ここに?

でも昨晩帰ってきたときに、エレベーターにこの男はいなかった。

では、なぜ?


皆、何か言いたいが、恐ろしくて言えないようだった。

がたん、と音がしてエレベーターは上昇して行った。


また、誰かを乗せるのだろう。

エレベーターは八階に着いた。

そこには四十代くらいの女がいた。


女は六人を乗せたエレベーターに戸惑いの顔を見せ、乗り込もうとした足を止めた。きっと私たちは皆、憔悴した顔をしている。いけない。不安にさせてはいけない。


閉まりかけたドアに、急いで「開」のボタンを押して、私は言った。




「詰めれば、まだ一人乗れますよ」

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降りられない 青居緑 @sumi3_co

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