第15話 あとがき

 人生とは、辛い日々と嬉しい瞬間を、繰り返しながら、紡がれていくものだ。何かを、知るためには、その周囲にある全てを知る必要があると、誰かが言っていた。


 私が物書きを名乗れるようになったのは、父の理解と献身があったからだ。もし、父の支えがなければ、私は今日まで生きていなかったかもしれない。


 若い頃、時間の流れを意識することは少なかった。しかし、年を重ねるにつれ、人生において何かに費やせる時間の限りを痛感するようになった。


 本を読むことは長年の習慣だったが、本の内容を十分に理解していたわけではなかった。今、改めて学び直しながら、最新の情報にも目を光らせる。理解するには、時間がかかる――だからこそ、時間の重みを感じるのだ。


 ふと本棚に目を向ける。百冊を超える背表紙を眺めながら、なぜこの本を選んだのかと過去の自分に問いかける。流行とは無縁の学びだったが、それでも読み続けてきた。分厚い専門書もあれば、薄い文庫本もある。それらはすべて、自分の思考の礎となっている。


 かつて、幻聴が鳴り止まない時期があった。しかし、何かに集中していれば、それを耐え抜くことができた。それが読書だった。ただ、読み終えたときには疲れ果て、運動や労働に向かう気力など残されていなかった。ただ、鉛筆を握りしめ、言葉を紡ぐしかなかった――。


 それでも、今は幻聴が止み、健康な生活を享受している。


 私は本当に文才があったのだろうか? 子どもの頃、読書感想文を書けば佳作を取ることができた。だからこそ、一般の人より多少の才能はあったのかもしれない。だが、それだけでは文章を書き続けることはできない。後天的な努力があったから、こそ、今日まで筆を執り続けることができたのだろう。


 努力とは、一時の熱情ではなく、二十五年もの歳月をかけて書き続けてきたことにほかならない。しかし、私の文章は決して完成されたものではなかった。何度も推敲を重ね、我流で突き進んだ。他人の意見を聞くことなく、孤独な営みだった。


 感想を求めなかったのは、「面白い」と言われることで推敲の意欲が薄れるのではないかと考えたからだ。


 それでも、ある程度の文章力を身につけた今、AIのアシストを受けることで、私の表現力はさらに向上した。


 書き続けること――それは、単なる習慣ではなく、私にとって生きる証そのものだった。二十五年の歳月を費やし、推敲を重ねながら、言葉の精度を高めてきた。

 しかし、文章というものは完成のない世界だ。どれほど書いても、どれほど推敲しても、「これが最良だ」と言い切ることはできない。


 文章を書くことで、自分自身と対話し続けてきた。迷い、葛藤しながら言葉を紡ぎ、それが形となった瞬間に、ようやく自分の考えが整理される。書くことは、私にとって思考の深化であり、自分自身を知るための営みだった。


 決して順風満帆な道ではなかった。文章に自信を持つことはできず、何度も立ち止まった。他人の評価を受けずに書き続けることは、時に孤独を伴った。しかし、その孤独が私を支えてくれたとも言える。


 そして、言葉とは生きたものだ。時代と共に変化し、その意味も刻々と変わっていく。

 だが、変わらないものもある――それは、書くことへの情熱だ。

 私はこれからも書き続ける。

 自分の言葉を通じて、世界と、貴方と、対話し続けるために――。

 

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