心配ありません、樹さま

遠山悠里

第1話


 「心配ありません」というのが、時国さんの口ぐせだった。いや、こういうのは口ぐせというのとは、違うか……僕は、時国さんが「心配ありません」というのを、僕以外の人に話すのを聞いたことがない。

 「心配ねえ」も「心配すんな」もない。いや、冗談じゃなく、普段は時国さんは結構言葉が荒い。

 「ふざけんじゃねえぞ」も「てめえ、ぶち殺すぞ」も、挨拶のように人に話す……いや、叫ぶかな、これは……こちらの方が、口ぐせだろう。


 だから、「心配ありません」というのは、僕に対して話す時限定の口ぐせだ。


 僕は、時々、夢想する。


 時国さんが、僕に向かって「心配ねえ」とか「心配すんな」と叫びながら、僕の身体を手荒く引き寄せ、ぎゅっと抱きしめる。僕の細い身体はそれだけで折れそうになるけれど、僕をそれだけ乱暴に扱うのは余程の非常事態なのだ。そして、僕の身体を自分の身を盾にし隠すように背後に置きながら、時国さんは僕の顔を真剣な顔で見つめ、そして、もう一度、静かに言う。「心配すんな、樹……俺がお前を守ってやる」

―そして、時国さんの唇が僕の唇にゆっくりと近づき……


 そう、これは夢想だ。


 実際の時国さんは、僕に「心配すんな」なんて決して言わないし、「俺」じゃなくて「私」だ。……もちろん、「お前」なんて言わない。「御曹司」か「樹さま」だ。ましてや、『唇が』……というのは、夢想というよりも、妄想、願望……いやいやいや……


 とにかく、時国さんは、僕にだけは「心配ありません」を連発する。お父さんにも頻繁に使っていたのだろうか……


   ***


 時国さんと初めて会ったのは、僕が8歳の時だった。


 その日、僕は、初めてネクタイを締めた。

 黒いスーツに黒いネクタイ。

 僕のネクタイを締めながら、お手伝いの佐良さんは泣いていた。


 お葬式の斎場で、僕は、全く同じような黒の礼服に身を包んだ人たちの真ん中に座らされた。

怖そうな顔つきの人たちが僕に挨拶をし、次々にお焼香をあげていく。

 誰もが、僕の知らない大人たちだった。

 ただ、中には、テレビで観たことがあるので知っている顔の人はいた。一際大きな声を上げ、お父さんの写真の前で泣き崩れている人は、確か市会議員の人だ。


 以前、佐良さんと夕食を食べている時、テレビに出ているのを観たことがあった。選挙速報の特番で、この人が当選していた時に、皆がバンザイをしている中にお父さんの姿があった。

 僕が「ねえねえ、佐良さん。これ、お父さんだよ」と言って、指差すと、佐良さんも、テレビに顔を寄せた。

「どれ?」

「ほら、このマスクして、メガネかけている人」

 佐良さんは、テレビにうんと顔を近づけて、「おや、まあ」と言った。

「せっかくテレビに映ったのに、これじゃ、わかんないね」と僕が言ったら、佐良さんは眉根を寄せながら、「わからないようにしているんですよ」と言った。

 その時は、佐良さんの言っている意味がわからなかったが、今は、その意味はわかる。


 お葬式の後、宴会となり、僕は一人になった。


 佐良さんは宴会のお手伝いに行っているので、僕は本当に一人だった。

「イケダセレモニーホール」という葬祭場に隣接した宿泊施設で、僕が一人、本を読んでいると、ドアをノックする音がした。


 ドアを開けると、一人の男の人がそこにいた。

 年齢は20代ぐらい。他の会葬者の人と同じように黒いスーツに白いシャツ、黒いネクタイだったが、細身で長身のその人にはスーツの寸法が合ってなかったようで、不自然に長くシャツの袖がはみ出していた。


「心配ありません。怪しいものではないです。私は……」

「トキクニさんですね」

 トキクニさんは、僕の顔をじっと見て、そして言った。

「ご存知だったのですか?」

「はい……家に何度か来られたことありますよね。僕は直接、お会いしたことはなかったけど……それに、庭先で見かけたことがありました。何人かの人と一緒に来られて、一晩中家の周りを見張っていたことあったでしょう。僕は、お父さんから一歩も部屋を出るなって言われていたから、その後のことは知らないけれど、トキクニさんが、大声で他の人を叱っている声が聞こえていました」

「あの時はとんだお騒がせを……」

「ずっとお聞きしたかったんです。トキクニって、名字ですか? 名前ですか? どんな字を書くんですか?」

「トキは時間の時で『時』、クニは日本国の国で『国』です」

「名字ですか? 名前ですか?」

「名字や名前はどちらと取っても構いません。皆、『時国』と私のことを呼びます。お父様も……」

  そう言ってすぐ、時国さんは、あわてて頭を下げる。

「―すみません。大事なことを忘れていました。……この度は心よりお悔やみ申し上げます。お父さまには大変お世話になっておりました。大変……大変、残念で……す」


 そう言って、いきなり、時国さんは、涙をぼろぼろとこぼし始めた。

 僕は、大人がそんな風に泣くところを見たことがなかったので、どうしたらいいのか、わからなかった。


 とりあえず時国さんに中に入ってもらい椅子を勧めると、僕は、部屋を出てお勝手に向かった。

 部屋に戻ると、もう、時国さんは泣いていなかった。涙の跡も見えない。ハンカチできちんと拭ったのだろう。


「まことに、すみませんでした。樹さまが泣きたいところをじっと我慢しておられるところで、大人の私がこんなにガキのように大泣きしてしまうなんて……」

 僕は冷蔵庫から持ってきた、アイスティーを差し出した。

 時国さんは、それを一口で飲み干した。

「時国さん、僕の名前を知っていらっしゃったんですね」

「はい、それはもう……」


 時国さんは、それから、お父さんから聞いたという僕の話を語り始めた。


 最初で最後になってしまった家族旅行で、僕が迷子になってしまい、一晩中探し回った話。

 初めて、ディズニーランドに行った時、外では恐いもの知らずのお父さんが絶叫マシンで気絶してしまった一方、僕がケロリとしていたため、こいつは将来、俺の跡を継いで、凄い男になるぞと何度も言っていたという話。

 

 そんな話を聞いているうちに、僕はいつの間にか、涙を流していた。その涙に気づいて、時国さんはあわてて ハンカチを差し出す。

「すみません。私が、時をわきまえず、お父さまの話などをしてしまって……」

「い……いえ……僕、うれしいんです」


 僕はハンカチを受け取って、涙を拭った。

「僕……お父さんが亡くなったという話を聞いても、なぜか涙が出て来なかったんです。……お父さん、お仕事がお仕事だから、ほとんど、家には帰らなかったし、それに、帰って来る時も、夜遅いことが多かったので、僕、お父さんと遊んだり話をしたりすることがほとんどなかったから……だから、ああ、お父さんが、そんなに僕のことを思ってくれていたんだなぁって思ったら、なんか、いつの間にか涙が出てきて……」

 僕がそう言うと、時国さんは、僕の手を両手でぎゅっと握りしめた。

「泰盛さまは……樹さまのお父さまは、ずっと、あなたのことを大事に思っていらっしゃいました。……今後のことも心配ありませんから」

「今後のこと?」

「はい、泰盛さまからあなたのことをお守りするようにと言い付かっております。なにもご心配ありませんから」

 そう言って、時国さんは僕の手をさらに強く握りしめた。


   ***


 その翌日から、僕と時国さん二人での生活が始まった。

 僕と時国さんの生活は、傍目にはおそらく奇妙なものだったと思う。


 朝、起きると、朝食の香りがもうすでに漂い始めている。


「さあ、起きてください。樹さま。学校に行かれる時間ですよ」

「おはようございます、時国さん。あの……その、樹さまというの、樹くんに直らないかな?」

「私はお父さまをいつも泰盛さまとお呼びしておりました。今更、直すというのもなかなか直るものではありません。それより、早く起きてください。朝食が冷めてしまいますよ」と笑って部屋を出てゆく。

 朝食を冷ましてはいけないと、僕はあわててベッドを降りて、パジャマを脱ぎ始めた。

 佐良さんの時は、そんなことはなかった。佐良さんが何度も起こしに来て、「もう、いい加減起きないと、遅刻ですよ」という声にやっと目を覚まして、服を着替え、歯を磨き、佐良さんが焼いたパンを口に頬張りながら、家を飛び出していくという毎日だった。

 でも、時国さんの朝食の場合、そうはいかない。

 いや、別に、佐良さんには気を使わず時国さんには気を使っているというわけではない。それも、あるって言えばあるのだけれど、何より、その時国さんが準備してくれているという朝食がすごいのだ。


 例えば、昨日の朝食は『梅干しとちりめんじゃこの混ぜご飯、じゃがいもとわかめの生姜味噌汁、鮭の塩焼きレモン風味、ひじきの炒め煮、きゅうりの浅漬け』

 一昨日の朝食は『ふりかけご飯とたくあん、鰯のつみれ味噌汁、焼きサバの大根おろし添え、ほうれん草のごま和え、きゅうりの塩昆布和え』

 三日前は『納豆とねぎのご飯、出汁巻き玉子、根菜たっぷり味噌汁、きゅうりの塩昆布和え、かぼちゃの煮物』という具合だ。


 さて、今日はというと『昆布佃煮のご飯、なめこと長ねぎの味噌汁、鮭の西京焼き、ひじきと枝豆の炒め物、大根の浅漬け』だった。「朝食が冷めてしまいますよ」という時国さんの言葉通り、朝食様に失礼にあたるというような、そんなメニューなのだ。

 佐良さんも最初は時国さんに食事の支度ができるかどうかが心配だったようだが、すぐにそれは杞憂だとわかった。なんでも、組に入るまでは板前を長くやっていたとのことで、特に和食に関しては外食するよりもずっと高級そうな料理が並んだ。


   ***


 そうそう、佐良さんはもうこの家にはいない。

 一週間ほど引き継ぎのために家には残っていたけれど、時国さんへの引き継ぎが全部終わると故郷の仙台へと帰ってしまった。


 荷造りが終わり、明日の朝、新幹線に乗って故郷へと帰るという日、一緒に夕食の後片付けをしながら、佐良さんは僕に語ってくれた。

「本当は、もっと早くに仙台に帰る予定だったんですよ。仙台には両親がいるし、そちらの仕事を手伝わないかと前から言われていましたしね。でも、あなたを産んですぐにお母様が亡くなられたでしょう。それで、とりあえず誰かいい人に引き継ぐまでと、ずるずるしているうちに、8年も経ってしまって……」

「ごめんなさい」

「そこは、謝るところではありませんよ。謝らなければならないのは泰盛さんです。まったく、私の気持ちに気づかないまま、逝ってしまうなんて……」

「えっ?」

「なんでもありませんよ。でも、良かった。時国さんなら、大丈夫。私も安心して、仙台に帰れます」

 佐良さんはそう言って笑って、仙台へと帰っていった。


   ***

  

 朝食が終わると、僕と時国さんは、家を出る。以前と一番変わったところと言えば、そう、これだ。

 僕は、毎日、学校まで車で送り迎えをしてもらうことになったのだ。


 最初は、僕はそれを断った。だが、時国さんは、絶対に送っていくと言ってこれだけは譲らなかった。

 黒塗りのベンツが正門の前に止まり、時国さんがドアを開けておずおずと僕が出てくる。そりゃあ、学校は大騒ぎになる。送り迎えは今の学校では時々見られることであるのだが、さすがに目立つということで、僕は学校の手前の路地までということを時国さんに渋々承諾してもらった。



 夜、これも以前と違うことだが、僕は一人でお風呂に入ることがなくなった。

 時国さんが僕の背中を流してくれるために、一緒に入ることになったのだ。

 もちろんこれも、僕は反対した。

 でも、時国さんはやっぱり譲らなかった。

「あなたのお父さま、泰盛さまの背中も、私がずっと流していました。樹さまの背中をお流しするのは、私の務めです」

 

 お父さんの名前を出されると弱い。

 結局、僕は時国さんと入浴することも規定の一つとなってしまった。


 初めて一緒に入るという時、僕は脱衣所でなかなか服を脱げなかった。


「どうしましたか?」

「うん、人と入るのって初めてだから、なんか、緊張する」

「男同士ですから、何も恥ずかしがることはありませんよ。さあ、脱いだ。脱いだ」

 そう言って、時国さんは僕の服を脱がそうとする。

 僕は思わず、時国さんの手を振り払った。

「……樹さま」

「あっ、ごめん。大丈夫だから。服、一人で脱げるよ」

「そうですね。すみませんでした。私は先に入っていますから、ゆっくり脱いで、入ってきてください」

 時国さんは、少し寂しそうに微笑むと、自分の服を脱いで、浴室へと入っていく。背中には大きな切り傷が斜めに走っていた。



   つづく


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