第13話 さよなら
リオの手が、そっとハルの影に伸ばされる。その指先はまだ震えていたが、それでも彼女は必死にその輪郭に触れようとした。
その瞬間、ハルの影がふわりと揺れ、リオの手に触れるように形を変えた。
その感触は冷たくもあり、どこか懐かしい温もりもあった。
『ありがとう、リオ。私のこと、忘れないでくれて…。』
その声は、かつての彼女の優しい響きを取り戻していた。
その言葉に、リオの涙が止めどなく溢れ出す。
次の瞬間、ハルの姿が淡い光に包まれ、少しずつ薄れていく。
その光は、鏡の欠片に反射し、まるで舞うように空中に溶けていく。
『さよなら、リオ。また…いつか。』
その最後の言葉が空気に溶け、ハルの姿が完全に消えた瞬間、部屋に漂っていた冷たい霊気も静かに消え去った。
⸻
リオはその場に力なく崩れ落ちた。
荒い息をつきながら、彼女はなおも震える自分の手を見つめた。
その手は冷たく、まだ怨念の感触が残っているようだった。だが、その手をそっと包む温かな感触があった。
振り返ると、そこには涙ぐんだゆらが、優しく微笑んでいた。
「リオ、もう…ひとりじゃないから。」
その言葉に、リオの胸がかすかに温まるのを感じた。
「…ありがとう、ゆら。」
リオは涙で濡れた頬を拭い、震える声で感謝を伝えた。
「ううん、リオが頑張ったんだよ。」
ゆらもほっとしたように微笑む。
その手の温もりが、リオの冷え切った心にじんわりと染み込んでいく。
その時、不意にひんやりとした空気が背後に漂い、二人の肩が同時にピクリと動く。
「…リオ?」
ゆらが不安そうに振り向くと、そこには相変わらず制服姿のハルが立っていた。
「…ハル?」
リオが驚いたように目を見開くと、ハルはむすっと頬をふくらませた。
『何よ、その言い方。まだ完全に成仏する気分じゃないの。せっかく《結》っていう面白そうな場所を見つけたんだから、もう少し居座らせてもらおうかなって思って。』
ゆらは思わずポカンと口を開けた。
「えっ…成仏しないの?」
『うん、まだこの世に未練があるっていうか、リオのことももっと見守りたいし?』
ハルはいたずらっぽくウインクをし、ふわりと浮かび上がってみせる。
リオは呆れたようにため息をついた。
「…ったく、しょうがないやつだな。」
だが、その表情はどこかほっとしているようにも見えた。
「そっか、じゃあ歓迎しないとね。大歓迎だよ、《結》は。」
叶夜は愉快そうに肩をすくめ、また奥のキッチンへ戻っていった。
ハルは満足げに腕を組み、リオの隣にふわりと浮かんで腰を下ろすような仕草を見せた。
『じゃあ、リオ。これからもよろしくね。私、ずっとここにいるから。』
リオは少し困ったように眉を寄せたが、どこか安心したように笑みを浮かべた。
「はいはい、面倒だけど付き合ってやるよ。」
ゆらもようやく緊張が解けたように、笑いながら二人を見つめた。
――こうして、《結》に新たな常連が加わったのだった。
⸻
店内はいつも通り、薄明かりに包まれた幽霊たちのささやきがこだまする空間。《結》の時計が18時を告げると同時に、重たい扉が静かに開かれた。
「お還りなさいませ!」
リオの澄んだ声が響き、それに続いてコウが元気よく手を振る。
その夜、店に入ってきたのは、少し古めかしい和服姿の女性霊だった。
長い髪をきちんと結い、優雅な立ち姿だが、その目にはどこか寂しさが漂っている。
「お還りなさいませ、こちらへどうぞ。」
叶夜が微笑みながら彼女を席に案内する。
その仕草は流れるように自然で、店全体が彼女の動きに合わせて穏やかに揺れているかのようだった。
女性霊が席に腰を落ち着けた瞬間、かすかなため息が漏れる。
『ねえ、ここで…誕生日パーティーを開くことはできないかしら?』
その一言に、店内が一瞬静まりかえった。
「誕生日パーティー?」
カウンター越しに聞いていたシュウが、珍しく顔をあげる。
『ええ、生前はそんな贅沢なこと、一度も経験したことがなくてね…でも、ずっと憧れていたのよ。せめて、幽霊になってでも祝ってみたいの。』
彼女は少し照れたように笑った。
その笑顔には、長い歳月の寂しさがにじんでいた。
「それは…素敵な願いですね!」
ゆらが思わず声をあげると、コウもすぐさま乗っかった。
「いいですね!絶対に楽しいパーティーにしましょう!」
リオは少し驚いたように目を瞬かせたが、やがて小さくうなずく。
「それなら、私たちにお任せください。」
叶夜も優しく微笑みながら、指を鳴らしてみせる。
「決まりだな。じゃあ、みんなで準備しようか。」
その日から、スタッフたちはパーティーの準備に奔走することになった。
⸻
店内は一段落ついた静かな時間帯。
ゆらは注文を終えてカウンターに立つリオに声をかけた。
「リオ、お疲れさま! さっきのテーブル、フォローしてくれて助かったよ。」
「気にしないで。私も接客の勉強になるしね。」
「そう? それならよかった!」
ゆらが嬉しそうに笑うと、リオも微かに微笑む。そのやり取りを見つめる視線が、店の片隅から鋭く向けられていた。
『……また、その女と仲良くしてる。』
冷気とともに現れたのは、頬を少し膨らませたハルだった。
彼女はいつもの儚さとは打って変わって、不満を全面に押し出した表情で二人を見下ろしている。
「えっ、ハル?」
『ねぇ、リオ。どうしてそんなにその子に優しくするの?』
「いや、別に普通に仲間だから──。」
『仲間?』
ハルはリオの言葉に反応して、ふわりとリオの顔のすぐ近くに浮かび上がった。
顔と顔の距離はほんの数センチ。
リオが思わず一歩引くほどだ。
『私がいない間に、そんなに距離縮めちゃってたわけ?』
「え、いや、そういうんじゃ──。」
『この前だって、私が話しかけたときは”ちょっと待ってね。”って流したくせに、この子にはすぐに笑いかけるんだね。そうだね、どうせ私は幽霊だし、見えないときもあるし、空気みたいな存在だし。』
「いや、ハル、そんなことないよ!」
『じゃあ、なんで今、後ずさったの?』
「それは、その、ちょっとびっくりしただけで……。」
リオが慌てて手を振るが、ハルはさらにぐっと顔を近づけてくる。
『ねぇ、リオ。私、まだ成仏しないよ? まだここにいるよ? ちゃんと私のことも見てよね?』
「わ、わかってるってば! でも近い、近いから!」
そんなやり取りに、ゆらが思わずくすくすと笑い始めた。
「ハル、リオ困ってるから、ちょっと離れてあげなよ。」
『……あんたは黙ってて。』
ハルは鋭い視線をゆらに向けると、ふわっと距離を取った。
その動きはどこか拗ねたようで、カウンターの向こうにすねた猫のように漂い始める。
『ふん、どうせ私のことなんか忘れて、この子と仲良くするつもりなんでしょ。もういいよ、知らない!』
そして、ふっと姿を消してしまった。
リオはその場で呆然と立ち尽くし、ゆらと目が合うと、困ったように小さく肩を落とす。
「……なんか、怒らせちゃったみたいだね。」
「うん、でも大丈夫だよ。そのうち機嫌直るって。」
「本当に?」
「うん。ハルって、意外と素直だから。」
そう言って微笑むゆらに、リオはさらに困惑した表情を浮かべながら、そっと頭をかくのだった。
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