ハートビート!ツインターボ!!

志乃原七海

第1話:二つの鼓動、一つの運命

ハートビート!!ツインターボ!!


第一話:二つの鼓動、一つの運命


【プロローグ:交差する運命】


(駆の視点)

ザアザアと降りしきる雨が、フロントガラスを叩きつける。ワイパーが懸命に視界を確保しようとするが、その向こうから、対向車のヘッドライトが容赦なく目に飛び込んできた。眩い光の奔流。

―――危ない!

そう思った瞬間、鼓膜を찢くようなブレーキの軋む音。そして、全身を強打するような衝撃。体がシートから投げ出され、まるでスローモーションのように宙を舞う。薄れゆく意識の底で、ただ一つの強烈な願いが、声にならない叫びとなってこだました。


『まだ…死ねない…僕には…』

やらなければならないことが、確かに、あったはずなのに。


(ひかりの視点)

雨に濡れたアスファルトが、街灯の光を鈍く反射している。横断歩道の白い線。ふと顔を上げた先に、黒い鉄の塊が、雨粒を弾きながら猛スピードで迫ってくる。車の影。

―――避けられない。

全身を貫く、鋭い痛み。一瞬の浮遊感。最後に見たのは、雨粒に滲んでゆらめく、遠い街の灯りだった。

(…もっと、生きたい…風を、感じていたい…!)

切ないほどの「生」への渇望が、急速に広がる暗闇の中に、確かに響いた。


【覚醒と違和感】


ピ、ピ、ピ…規則的な電子音が、意識の淵で鳴り響いている。ツンと鼻をつく消毒薬の匂い。

ゆっくりと瞼を押し上げると、ぼやけた視界に真っ白な天井が映った。瞬きを繰り返すうちに、焦点が合ってくる。

「…ここは…?」

掠れた、自分のものではないような声で呟くと、ベッドの傍らにいたらしい白い影が動き、慌てたように部屋を出て行った。看護師だろうか。


やがて、足音と共に現れたのは、穏やかな表情を浮かべた白衣の男性だった。医師なのだろう。

「風見くん、目を覚ましたか。気分はどうかな?」

「あの…僕は…一体…」

記憶が曖昧だ。まるで分厚い靄がかかったように、何も思い出せない。頭を強く打ったのかもしれない。

「君は3週間前、交通事故に遭ってね。心臓に…深刻なダメージを負っていたんだ」

事故…? その言葉が、靄の向こうから微かに手繰り寄せられる。

「3週間も…僕、眠っていたんですか?」

「そうだ。だが、君は本当に幸運だった。ほぼ同時に、君の心臓に適合するドナーが現れたんだ。緊急の心臓移植手術を行い、君はこうして一命を取り留めた」


心臓移植…。

その言葉に、駆は無意識のうちに自分の胸へと手を伸ばした。薄い病衣の上から、そっと左胸に触れる。

ドクン…ドクン…。

確かに、力強い鼓動が手のひらに伝わってくる。それは紛れもなく、自分の命を繋ぎとめてくれた、新しい心臓の音。この胸の中で、今も確かに脈打っている。

だが、それだけではないような気がした。その力強く、規則正しい鼓動の、ほんの少し奥。寄り添うように、もう一つ、微かで、けれどどこか温かい**「響き」**が存在するような…不思議な感覚があった。まるで、自分とは別の、しかし決して敵対する意思を持たない、もう一つの命の律動が、同じ場所で、同じ時を刻んでいるかのようだ。


その感覚と同時に、ふわりと、頭の中に鮮やかな映像が浮かび上がった。

―――どこまでも続く満開の桜並木。柔らかな風に、薄紅色の花びらが舞い踊っている。岬の先端に立つ、白い灯台。頬を優しく撫でていく、少しだけ塩の匂いが混じる潮風―――

知らないはずの風景。知らないはずの感覚。まるで、誰かの大切な、宝物のような記憶のかけらが、そっと自分の心の中に流れ込んできたかのようだった。


「あの…ドナーの方は…どなただったんでしょうか…?」

感謝の気持ちと共に、自然と疑問が口をついて出た。医師は、先ほどまでの穏やかな表情を少しだけ曇らせ、静かに、そして慎重に言葉を選びながら告げた。

「…星野ひかりさん。君と同い年の、とても明るく、優しい少女だったそうだ。彼女も…不運なことに、君と同じ日に、交通事故で…」


星野ひかり―――。


その名前を聞いた瞬間、胸の奥で感じていた微かな「響き」が、キュッと、まるで何かを愛おしむかのように、ほんの少しだけ強く、温かくなった。そして、先ほどよりもずっと鮮明な感覚が、再び流れ込んできた。


(…風が…気持ちいい…)


それは、はっきりと聞こえる、どこまでも澄んだ少女の声だった。

耳から聞こえたのではない。直接、自分の心の中に、温かく、優しく響いたのだ。

「…え?」

駆は思わず声を漏らしたが、医師には聞こえなかったらしい。ただ心配そうに駆の顔を覗き込んでいる。

気のせいだろうか…? まだ意識がはっきりしないのかもしれない。疲れているのだろう。


だが、その日から、駆の世界は静かに、しかし確実に変わり始めていた。

自分の中に存在する「二つの鼓動」は、気のせいなどではなかったのだ。


【退院後の日常と「彼女」の存在】


数週間の入院生活を経て、駆は退院し、久しぶりに自宅の門をくぐった。見慣れた自分の部屋のはずなのに、どこか落ち着かない。まるで、自分のテリトリーに誰か他の人がいるような、不思議な感覚。

そして、病院で感じたあの「声」と「響き」は、やはり気のせいではなかった。心の中の「二つの鼓動」の一つが、確かに星野ひかりという少女の存在を示しているように、駆には感じられた。


(わぁ、この曲、懐かしい! 私、これ、大好きだったんだよねー)

ある日の午後、自室の本棚に並んだCDを整理していると、不意に楽しげな声が頭の中に響いた。それと同時に、胸の奥の「響き」が、まるで嬉しそうにポンポンと弾むのを感じた。駆が手に取っていたのは、確かに自分も好きではあるが、ここ最近は全く聴いていなかった女性アーティストのアルバムだった。


(駆くん、そっちの道じゃなくて、一本隣の道がいいよ。ほら、あっち! 桜がすっごく綺麗なんだ)

学校からの帰り道、いつもの通学路を選ぼうとした時、心の中で囁くような声がした。促されるままに、普段は通らない一本隣の細い道へ入ってみる。すると、そこには見事な桜並木が続いていた。春の柔らかな風が吹き抜け、薄紅色の花びらがハラハラと舞い散る。それは、病院のベッドの上で見た、あの記憶の断片と全く同じ光景だった。この時、駆は胸の「二つの鼓動」が、まるで完璧に調和するかのように、穏やかで心地よいリズムを刻んでいるのを感じた。


「…星野ひかりさん…君が、これを教えてくれているの…?」

誰もいない帰り道で、駆が小声で呟くと、明るく嬉しそうな声が心の中に返ってきた。それと同時に、心臓の奥にある温かい「響き」が、トクン、と肯定するように優しく波打った。

(うん! ねえ、駆くん、風、気持ちいいね!)


最初は戸惑った。こんな非現実的なことを、誰かに話すべきだろうか。精神科医にでも相談した方がいいのかもしれない。そう悩んだこともあった。だが、ひかりの声はいつも底抜けに明るく、太陽のように優しく、そして何よりも駆自身を心から気遣ってくれているのが伝わってきた。心の中の「二つの鼓動」は、時にひかりの感情に呼応するかのように、彼女が悲しい気分の時には少しだけ重く沈み、嬉しい時には軽快なリズムを刻む。まるで、すぐ隣に、気心の知れた親しい友人がいつも一緒にいてくれるかのように。

駆は元来、争いを好まず、どちらかと言えば物静かで穏やかな性格だった。その持って生まれた性質が、彼の魂の中に宿ることになったもう一つの存在――星野ひかりを、ごく自然に受け入れる素地となったのかもしれない。そして、「二つの鼓動」という物理的な繋がりが、その不思議な関係性をより強固なものにしているようだった。


『ひかりさん、今日の数学、結構難しかったよね』

授業が終わり、教科書を閉じながら心の中で語りかけると、すぐに楽しそうな返事が来る。

(ほんと! 私、数学は昔っから苦手だったんだよねー。駆くんは得意なんでしょ? すごいなあ、尊敬しちゃう!)

『いや、僕も別に得意ってわけじゃ…人並みだよ』

(えー、またまた謙遜しちゃって! あっ、見て見て駆くん、あそこの角のクレープ屋さん! あそこのチョコバナナ、絶品なんだよ!)


他愛ない、けれど温かい会話。共有される風景や感覚。そして、いつも胸の中心に感じる、力強い自分の鼓動と、それに寄り添う優しい「二つの鼓動」。駆は、自分の体の中に、確かに星野ひかりという少女が存在していることを、日増しに強く実感していた。それは少し不思議で、時々どうしようもなく戸惑うけれど、決して不快ではない、温かく、そしてどこか心強い共存だった。

ひかりもまた、駆の目を通して、失ったはずの世界を再び感じ、駆の真面目さ、優しさ、そして時折見せる少し不器用なところに、いつしか深い親しみを感じるようになっていた。二人の心の距離は、一つの胸で刻まれる「二つの鼓動」のように、確実に、そして静かに縮まっていた。


【最初のスイッチ】


そんな穏やかで、少し不思議な日常がこれからも続いていくのだろうと、駆が思い始めていた、ある雨の日の放課後だった。

その日、駆は日直の仕事で下校が少し遅くなり、近道をしようと普段はあまり通らない商店街の裏路地へと足を踏み入れた。雨脚は強まり、薄暗い路地には人影もまばらだった。その時、少し開けた場所で、複数の制服姿の男子生徒が、一人の小柄な男子生徒を壁際に追い詰め、取り囲んでいる場面に遭遇した。リーダー格らしい大柄な生徒が、脅すように声を荒らげている。明らかに、いじめの現場だった。

「…やめなよ」

駆は、ほとんど無意識のうちに声をかけていた。自分でも驚くほど、その声には静かな、しかし確かな怒りが含まれていた。

「あ? なんだテメェ、関係ねーだろ、引っ込んでろよ」

リーダー格の少年が、ギロリと駆を睨みつけてくる。取り巻きの数人も、面白くなさそうにこちらを威嚇してきた。

「弱い者いじめなんて、良くないと思う。みっともないよ」

駆は臆することなく言い返すが、その言葉は相手の神経を逆撫でしただけだった。

「生意気言ってんじゃねぇぞ、コラァ!」

完全に逆上したリーダー格が、怒鳴りながら駆に掴みかかろうとする。数人が、ニヤニヤと威圧するように駆を取り囲む。まずい、と思った時にはもう遅かった。一人が、こめかみを狙って拳を振り上げてくる。運動神経が良いとはお世辞にも言えない駆は、咄嗟にギュッと目を瞑り、来るべき衝撃に身を硬くした。


その、瞬間。


(駆くん、危ないっ!!)


ひかりの切羽詰まった叫び声が、心の中で爆発した。彼女の「駆くんを絶対に守りたい!」という強烈な想いと、駆自身の恐怖とが、激しく、そして奔流のように交錯する。

そして、胸の中の「二つの鼓動」が、まるで警鐘を乱打するように、狂おしいほどに速く、強く、互いを打ち鳴らすように響き渡った! ドクン!ドクン!ドクン!ドクン! それは、駆の全身の細胞の一つ一つに、制御不能なほどの灼熱のエネルギーを無理やり注ぎ込むかのようだった。


(駆くん、代わって!! 私がやるっ!!)


ひかりの、悲鳴にも似た決意の叫びと共に、駆の全身が、内側から発光するような、眩い純白の光に包まれた! 心臓から迸るかのようなその圧倒的な光は、薄暗い路地を一瞬にして真昼のように照らし出し、周囲を睥睨する。


「うわっ!? な、なんだ、この光!?」

「目が、目がぁ!」

周囲の少年たちが、突然の不可解な現象に怯え、思わず数歩後ずさる。


やがて、網膜を焼くような光がゆっくりと収まった時、そこに立っていたのは、先ほどまでの風見駆ではなかった。


雨に濡れ、しっとりと肩までかかる艶やかな黒髪。大きく、強い意志を宿した双眸。華奢だが、どこか凛とした佇まいの体躯。そして何より、着ている服も、駆が着ていた男子用の学生服ではなく、見慣れたデザインの、白いラインが入った紺色のセーラー服に変わっている。

紛れもなく、それは星野ひかり自身の姿だった。


「…え?」

ひかり(の姿になった駆、というより、今はひかり自身)は、自分の華奢な手を見下ろし、そして自分の喉から発せられた声を聞いて驚愕した。それは、いつも駆の心の中で聞いていた、快活で、少しだけ高く、そして紛れもなく自分自身の声。

そして、今、自分の胸から聞こえてくる音は―――二つの、力強く、しかし明らかに異なるリズムを刻む心臓の鼓動だった。一つは、慣れ親しんだ自分の心臓が刻む生命の音。そしてもう一つは、いつも駆の胸の中で感じていた、あの温かく、そして力強い「響き」。それが、今、この自分の体の中で、はっきりと物理的な音として、すぐ隣で響いている。


(今、駆くんは…私の体の中にいるの…?)

心の中には、今度は駆の、明らかに狼狽した声が響いていた。


『ひ、ひかりさん!? これ…一体どうなってるの!? 僕の体が…君に…!? うそだろ…!? しかもこの鼓動…僕のだ…? 君の体の中で、僕の心臓の音がする…!?』


ひかりは、目の前の信じられない状況と、心の中に響く駆の声、そして自分の胸で確かに二重奏を奏でる「二つの鼓動」に混乱しながらも、目の前で呆気に取られているチンピラたちを鋭く睨みつけた。自分自身の身に何が起こったのかという恐怖よりも、駆を傷つけようとしたこいつらへの、燃え上がるような怒りが勝っていた。


「あんたたち、最低! 寄ってたかって、一人をいじめるなんて、恥ずかしくないの!?」

凛とした、しかし間違いなくひかり自身のいつもの口調と言葉遣いで、啖呵を切る。その凄まじい気迫と、あまりにも唐突な美少女の出現に、いじめっ子たちは完全に度肝を抜かれていた。

「な、なんだよ、お前…いきなりどこから出てきやがった…!」

リーダー格が、たじろぎながらも虚勢を張る。

「いいから、さっさとその子に謝って消えなさいよ! 次はないからね!」

ひかりが、雨粒を弾く強い眼差しで言い放つと、少年たちは互いに顔を見合わせ、やがてバツが悪そうに悪態をつきながら、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。


後に残されたのは、助けられたものの何が起きたのかわからず呆然としている小柄な男子生徒と、星野ひかりの姿のまま、降りしきる雨の中に立ち尽くす、駆とひかり。

ザーザーという雨音だけが、やけに大きく響いている。


『…ひかりさん…僕たち…本当に入れ替わった…みたいだね…? 体ごと…? それに、この、胸の音…これが…君の言ってた…二つの…鼓動…?』

駆が、心の中でまだ震える声で問いかける。彼には今、ひかりの感覚を通して、その身体の中で力強く響く「二つの鼓動」が、まるで自分のことのようにリアルに感じられていた。


(…わかんない…何がどうなってるのか、全然わかんない…でも、駆くん、怪我はなかった…? よかった…本当に、よかった…)

ひかりは、心の底からの安堵の息をつきながらも、自分の姿(それは本来の、生きていた頃のひかりの姿そのものだ)と、心の中に響く駆の声、そして胸に物理的に存在する「二つの鼓動」に、途方もない現実を突きつけられていた。

(でも、どうしよう、駆くん…この姿…この心臓の音…! どうやったら、元に…戻れるの…!?)


ひかりの不安げな声が、雨音に混じって、駆の心に痛いほど響く。

二人の少年少女の体に起きた、奇跡、あるいは不可解としか言いようのない現象。

一つの体に宿った「二つの鼓動」が、彼らの運命の歯車を、否応なく、そして猛烈な勢いで大きく回し始めた瞬間だった。


(第一話 了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る