瞳の奥
鹽夜亮
瞳の奥
人間の瞳は、美しい。一つとして同じ瞳はない。その奥にあるあらゆるもの…それは私を惹きつけて止まない。真っ直ぐ見つめれば、その瞳の奥に私を流し込むように、溶けてゆく。それは快感だった。
「またジッと見てる、目」
貴女はそう、囁く。私から瞳を逸らすこともなく。お互いの瞳孔に、お互いを埋め込むことを、辞めることはない。
貴女も一緒だから。
「だって、美しいから」
「こんな何もない瞳に何を見てるの?」
貴女は、自らの瞳を『何もない』と言う。それは一つの事実だと思った。どこまでも暗い、感情など一つも読み取れない闇。圧倒的な黒、同時に、圧倒的な無色。貴女の瞳は、何も内包していない。だからこそ、全てを内包する。私という虚しい存在さえも。
「何もないから、美しい」
「…相変わらず、変人」
「お互い様でしょう」
「否定はしない」
瞳は逸らされない。揺れることすらない。全てを見透かされる、同時に私の全てが貴女の奥底に流れ込む。貴女は空っぽなんかじゃない。ただ、誰よりも深い、何かを見ているだけだ。暗澹の先にある、確かな貴女。私はその存在を、瞳のうちに探ることをしない。
それは無意味だ。貴女の何かを探ることは、無粋だ。
美は、美のままでただ在る。
「君の瞳も同じでしょう?」
「どうだろう。貴女にはどう見える?」
私の瞳は、貴女のように永遠の暗闇を湛えているのだろうか。そうだったら、どれほど幸福だろう。
「真っ黒、どこまでも深くて、最後に熱がある」
「…熱?」
熱。その言葉に心のどこかが反応した。冷淡な私に、その私の瞳の奥底に、熱があるのだろうか。
「燃えてはいない。溶岩のような、溶け落ちた熱」
「……あぁ、そっか」
貴女の言葉に、ただ理解する。全てを見透かす貴女の瞳が私の奥底に読み取ったのは、『私の深淵』だった。決して表に出ることも、出すこともない。狂ったように煮えたぎる、存在そのものの煉獄。私の冷淡に隠された、誰にも知られない奥底。貴女には、見えている。
「私にはない。だから、美しい」
「貴女にはない。だから美しい」
瞳を逸らさないことは、受け止めることだ。それは勇気でもある。貴女の瞳に耐えられるのは、私しかいないだろう。何もかもを見透かし、全てを黒で塗りつぶし、飲み込んでしまう…そんな貴女の瞳に。
「君は私の瞳に何を見るの?」
「真っ暗な、何もない、この世の全て」
「そっか」
瞳が近づく。視線が外れる。貴女が私を抱きしめる。確かな熱とふわりと香った髪の香りに吸い寄せられるように、私も貴女を抱き返す。そこには肉体がある。それすら不思議に思えるような、貴女の存在の無を想う。
「君はずっと、私を食べたいと思ってる」
右耳の近く、貴女が囁く。甘い音色ではない。いつもと何も変わらない、温度のない声。ただ真実を告げる、真っ直ぐで、真っ黒な声。だから、私は答える。
「貴女の全てが食べられるなら、それは幸せ」
本心だった。肉体も、心も、哲学も、魂も、存在も、貴女と形容される何もかもを、私の中に飲み込めたのなら、どれほど幸せだろう。
だが同時に知っている。私は、貴女を飲み込むことほできやしない。貴女の瞳は、存在は、何者にも支配されない。既に、全てを飲み下しているのだから。
「君の瞳の奥、ドロドロの熱、それがその願い」
「貴女の存在が欲しい」
本心を暴かれるように、深淵をこじ開けられるように、貴女の促しに従って心が零れ落ちる。私自身が否定したいほど、あまりにも自分勝手で、狂気的な、その欲望。それは形容することすらできない、輪郭を失った欲望の源泉。何よりも強い、私という存在そのものの飢え。
貴女は全てを見透かしながら、少しだけ笑う。
「いいよ?でも、飲み込まれるのは君」
「…知ってる」
貴女を飲み込めなどしない。瞳の永遠の、あの暗澹の先にある、無限。熱すらないそれを、飲み込むことはできない。近づけば、私は貴女に飲まれるだろう。そしてその暗闇に消え去るのだろう。この、私の奥底の煮えたぎる欲動の源泉さえ、貴女の瞳の奥で溶かされるのだろう。
それは、なんと美しい、崩壊か。
「君は捕食者の目。でも、捕食されることを知ってる」
「貴女は捕食なんかしない。ただ飲み込んでしまうだけ」
「…そうね」
首元から離れた貴女の顔が、私の正面に戻って、私を見据える。先ほどより近くなったその瞳に、吸い込まれるように少しずつ私は溶けていく。
捕食ではない。貴女のそれは、融解だ。
あらゆる存在を融解し、漆黒の無限に取り込む。そこには何の痕跡も残らない。ただ、永遠に変わらない漆黒だけが残る。確かに、何かを取り込んだとしても。
私の熱望した瞳、決して辿り着けない瞳、何よりも捕食したかった瞳、何よりも、成りたかった瞳。
貴女の瞳が、緩やかな笑みによって揺蕩う。
「いいの?」
それは私という存在に対する、処刑の問いかけ。私は迷うとこなく、貴女の瞳を見据えながら、答える。
「貴女がそれを望むなら」
「そっか」
貴女の瞳が近づく。深い黒が、さらに深くなる。その先には何も見えない。その奥には、何も見えない。私の姿さえ、映らない。あらゆる熱が、存在が、消えていった、混沌の奥。
口付けをするように、貴女と私の距離は零になる。貴女が私の瞳を覗く。私の奥底の、あの熱が消えていくのがわかる。
「君は、悲しい」
貴女は一言、告げた。私は既に、貴女に飲まれつつある。私という存在は、消えずに、『消える』。
返す言葉は必要がなかった。もう、貴女は私の全てを飲み込んでしまうのだから。私の答えは、貴女が知っている。
「君は、狂っている」
声が少しずつ、遠くなる。私の、私が、飲まれる。
「君は、美しい」
そして私は、貴女の瞳に還った。
瞳の奥 鹽夜亮 @yuu1201
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