好きなモノ

日を追うごとに、沙耶は“自分”が壊れていくのを感じていた。


テレビをつけても、ニュースの内容が頭に入ってこない。料理をしていても、手が勝手に動く。そして、そのレシピは自分のものではなかった。


その日から、“記憶の混濁”は加速した。


朝起きると、顔を洗いながら「夫の弁当を作らなきゃ」と思う。


誰だ、夫って。


昼、台所でレトルトを温めながら、口から自然と歌がこぼれる。


——童謡『あかとんぼ』。


知らないはずなのに、懐かしいと感じた。


夜になると、風呂場から「ママぁ」と子供の声がする。


——その声を聞いても、もう驚かなくなっていた。


翌朝、クローゼットを開けると、服が変わっていた。沙耶が選んだはずの服はなく、代わりに、古めかしい主婦のワンピースがずらりと並んでいた。


その中の一着を手に取り、沙耶は思わず呟いた。


「……これ、私の好きなやつ……」


鏡の中の自分が、ゆっくりと笑った。


それは、自分の笑い方ではなかった。

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