存在しない読者(The Nonexistent Reader)

Algo Lighter アルゴライター

🌑【プロローグ】読まれることの始まり

第1話:存在の気配

時計の針が、静かに秒を刻んでいた。

チク、タク、チク、タク。──それ以外の音は何もなかった。


窓の外には、朝の光が滲んでいる。春先の曇り空は鈍く、部屋の中もどこか灰色に染まっていた。


“僕”はダイニングテーブルの椅子に座っていた。

母が流し台で朝食の皿を洗っている。父は新聞を広げ、眉間にしわを寄せたまま電子ページを指でめくる。妹はスマートレンズを装着し、目を細めて講義か何かを聞いていた。


「……おはよう」


“僕”は声をかけた。

誰も、何の反応も示さなかった。


声が届いていないのかと思い、もう一度、少し大きめに呼んだ。

「おはよう。……母さん?」


母は、手元の皿を静かに拭っている。湯気がふわりと立ち昇るが、こちらを一瞥することもなかった。

父も、妹も、それぞれの“朝”を続けていた。まるで、そこに“僕”がいないかのように。


「ねえってば……!」


思わず語気を強めてしまった。椅子を立ち、テーブルを軽く叩く。だが、やはり誰も反応しない。


スマートスピーカーが母の声に応じて音楽を流す。

新聞の自動更新通知に父が顔を上げる。

妹は頷きながら、何かノートにメモを取っている。


“僕”の声だけが、世界から切り離されていた。


おかしい。絶対におかしい。

これは夢だ。夢であってくれ。


しかし……いや、“僕”は確かにここにいる。

椅子の冷たい座面の感触。

足元の床のざらつき。

朝の空気の湿り気と、炊き立てのご飯の匂い。

五感は、すべて“ここにいる”ことを証明している。


けれど、“僕”がどんなに叫んでも、世界は一向に気づかない。


何が欠けている?

何が、失われた?

あるいは、最初から……?


目の端に、妙な気配があった。


誰もいないはずの廊下の奥。

開けっぱなしの書斎の扉の向こうに、誰かの“視線”のようなものを感じた。

見られている──そんな気がした。


振り返った。誰もいない。


だが、その“気配”は消えなかった。むしろ、“ここにいる”ことを一番強く訴えかけてくるのは、その見えない“視線”だった。


母も、父も、妹も、見ない。認識しない。

けれど──あれだけは、僕を見ている。


この世界で、“僕”を見ているのは──誰だ?


世界が少しだけ、軋んだ気がした。


そして、僕は初めてこう思った。


──僕は本当に、ここに存在しているのか?


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