獣姫の手記

柴又又

第1話 上

 彼女に出会いましたのは六歳の頃にございます。

 選帝六公――その一人として生を受けました私(わたくし)は六歳になりますと他の五人の選定公女と共に、一つの場所、庭園(ガーデン)へと集められました。

 次代の皇帝の、新たな妃となるために。

「初めまして。エンフェトリーテ、ブラッド、ファールーナですわ。よろしくお願い致します」

 彼女は私の前でそう述べました。

 私の瞳がまん丸に開き、あなたを捉えておりましたのを良く覚えてございます。

 エンフェトリーテ様。

 エンフェトリーテ、ブラッド、ファールーナ様。

 この国におきまして、もっとも古き公爵家の姫君にして、もっとも古き血を受け継ぐお方。

 朝は決して訪れず、夜すらも訪れない夕闇の地を治め。陽炎漂う宵闇のその地にて、力を振るう気高き公家(こうけ)の姫君様にございます。

 宵闇の土地。呪われた家。ファールーナ家。今やこの国には欠かせない鉱石、パンデモニュウムの産地を治める公爵家の姫君様にもございます。

 夜と同化するほどの淡い黒髪と、燃え盛るような炎に薬剤を垂れ流し固めたかのような紅い瞳が印象的にございました。

 彼女と視線を絡めれば私は……時を飲もうかと感じるほどに喉が渇き、唾を飲み込み喉が鳴るのを悟られぬよう、目を逸らさずにはおられませんでした。

「よろしくお願い致しますわ。ミランダ、メアリー、カラーナ様」

 あなたの視線が私を捕らえ、ぎゅっと強く拳を握ります。

「ふんっ。何勝手に話を進めているの? 勝手に仕切って何様? もう新たな女王にでもなったつもり?」

「嫌ですわ。アリシア、キャスバル、アガンテ様。女王等と……そのような役職はこの国にはございません。ですが、この場にて一番古きお家(うち)は私のお家(いえ)、ファールーナ公爵家ではありませんか?」

 アリシア、キャスバル、アガンテ様。

 竜を始祖に持つ、純然たる力を振るうアガンテ公爵家の姫君様にございます。金色の髪。金色の瞳。

 峻険(シュウケン)、巌峭(ガンショウ)の集まり、マグマ煮えたぎり灼熱と吹雪の吹き荒れる過酷な土地を治める公家にございます。その純然たる暴力は公爵家随一と名高く歯向かう者には容赦がございません。

「ほらっ。もう自分に決まったつもりじゃない? やだやだ。これだから古い家の人って嫌なのよ。どうしてこんなに埃っぽいのかしら。本当に嫌だわ」

「そんなに盛(さか)らなくてもよろしいのではなくて? アリシア様。まるで犬のようですわ。わんわんっわんわんっ。竜の血族でありますのにそのように吠えてはいけませんわ。うふふっ」

「はぁ⁉ これだから田舎者は‼」

「誰が、一番に、なるかは、私達が決める問題ではございません。お二人共、そうですよね? アリシア様。それに……エンフェトリーテ様」

「そうですわね。ふふふっ。ミランダ様。獣濃き血のミランダカーラー様」

「カラーナです。お間違いなきように……」

「あらあら、うふふっ。……失礼致しましたわ。うふふっ」

 彼女は私の瞳の中で、悪戯を叱られた子猫のように笑みを浮かべておられました。


 選帝とは言葉を選びましても、実際選ばれるのは私達の方にございます。

 六人の公爵令嬢の中から一人を選び妃とする。

 これはそのようなルールとなりましてございます。

 古より続く皇帝と六人の公爵による約定。

 その約定により、私達は王家の所有する土地、庭園(ガーデン)へと集められ、六人で共同生活を行わなければなりません。

 六年間を庭園にて共同に学び過ごし、国母になるための教養や資質を磨きます。

 個体の差は明確に現れ、それはまるで小さな選民思想のようにございました。高潔な血が平等であるのなら、性能により決めるのが筋にございますから。

 そのような庭園にて、彼女は何時も不敵な笑みを浮かべて私達を眺めておられました。本日は日陰にてベンチへと腰を降ろし人差し指を振っておられます。

「ちーちーちー」

「……何のおつもりですか?」

「あら……こうすればペットの猫はお膝へと来てくれるのだけれど」

「私はペットの猫ではございません。なぜ何時も……私を眺めておられるのですか?」

「ミランダ様が……とても魅力的だからですわ」

「……何の話ですか?」

「淡いブロンドの髪、海のように深い青を讃えたその瞳、きめ細かな砂のように栄える褐色の肌。頭の大きさ、スラリとした上半身、あどけない下半身。バランスがとても良いですの。変な意味ではございませんのよ? うふふっ」

「それは、どうも……」

 容姿等、そんなものは私にはどうでもよい物にございます。どう褒められても何にもなりません。これは私が選んだものではございません。最初から与えられた物を褒められても意味等ございません。私が自力で手に入れたものではないからです。

「あら……お気に召さなかったかしら」

「容姿など、最初から決まっているものではございませんか? 与えられた物を褒められて喜ぶ人間は少ないかと存じます」

「ふふふっ。でもそうね。女の子って、そう言うものではなくて? 与えられた物が高価で、価値のある物ほど嬉しいものでしょう? 女の子って……そう言うものではなくて?」

「ロマンス小説の読み過ぎです」

 やや上から見下ろしてくる様が、彼女には良く似合っておられました。

 こちらを値踏みするように、まるで馬鹿にするかのように、挑発するように、彼女は私を眺めておられます。

「そうかもしれないわ。うふふっ。ねぇ? こちらへいらして? ……ほらっ。この小説なのだけれど」

「転生令嬢物の物語ですか? それはもう読みました」

「そうなの? とっても面白いわよね。だってこの主人公って……物語に関わるのは嫌だと語るのに、どうしてまだ街にいるのかしら。どうして国を出ないのかしら。どうして男と結ばれるのを回避しているのに、別の男と恋に落ちるのかしら」

「そういう話しなのではないですか?」

 言葉には致しませんが、現実的に考えまして、恋愛をし子を為さぬわけには参りません。その性からは逃れられません。例え他の男性から逃れても、新たな伴侶は見つけなければなりません。

「うふふっ。ほらっ。ご覧になりまして? 顔がいい男が傍によるだけで、頬が上気し舞い上がる描写がございますのよ? この子って一体何がしたいのかしら。好きな男性でなくても顔が良ければトキメクのですって」

「顔が良い男子が好みなのではないですか? 素敵な殿方にトキメクのは女性の性に存じます。それはどうしようもございません」

「家族を巻き込みたくない。周りを巻き込みたくない。破滅したくないって……ですが、ヒロインをイジメないのならばすでにそのルートからは外れているのではなくて?」

「そうですね。ですがそれでは物語が終わってしまいます。それにルートは一つではございません。人生は複雑なものではございませんか? それで破滅を回避できるわけではないかと……存じます」

「散々浮名を流した男が、いざ、お前だけだと告げただけで、舞い上がるのはなぜなのかしら? そんな遊び人に好かれて楽しいのかしら?」

「感情は人それぞれままならぬものかと存じます。それに男性も女性も触れ合うほどに人間関係は豊かになれるかと……。それと共に男女の違いをより深く理解できるようになるかと……存じます」

「ふーん。あなたもそうなの?」

 その言葉に喉をつかえてしまいました。

 遊びであるのなら……あなたに。そう脳裏を過り、顔に熱が参ります。自らの発言の意図、僅かなわだかまりと否定。

「私……は、誰かと遊べるほど、器用な人間では……ございませんので」

「ふーん」

 心の内を見透かされてしまったような気が致しました。自分がどのような物を好み、どのような物を好まないのかを探られている。

 そして私は上手にそれを隠せませんでした。

 その場の思考に一瞬の隙があったのは確かにございます。


 僅かなリップ音……と私の瞳孔は強く見開きました。この時を私は生涯忘れないでしょう。忘れようもございません。

 添えられた手の感触、頬に寄せられた唇の感触、焦点で見据えたあなたのその陽だまりのような笑み。

 まつ毛の長さ等を気にしたのは初めてにございました。

 まるで物語の中の完璧なお姫様のようにあなたは……。触れるほどに近い吐息はあまりにも……。

「あまり遊んではダメよ」

「……理解して、おります。私達は皆、選帝公女なのですから」

「うふふっ。ほらっ。こちらもご覧になられて? こちらのお話なんて、婚約破棄されたらさらにいい男が現れて幸せになるのですって」

「はぁ……。あなたはロマスンス小説が本当にお好きなのですね」

「そうよ。大好きなの。元の男よりもっといい男が現れて幸せになるのですって……うふふっ。とっても面白いの」

 しなだれかかり、彼女が私に触れます。上等な絹の感触、漂う香り、小さな肩と柔らかく温かな肌の感触。綺麗に整えられたおみ足と動作と形。思考は白と白と白と。

 不思議と、私は、彼女に触れられるのが嫌いではございませんでした。

 触れるのを許してしまう私がいる。

「ちーちーちー……」

「もう一度申し上げますが、私は猫ではございません」

「あなたの顎下を撫でてみたいの」

「お好きになさればよろしいではございませんか」

「では、はい」

 手を広げられモモを差し出され、横になるしかございませんでした。


 残念ながら私達は私達が考えていたよりもずっと子供でした。

 六歳の身で親元を離れるのはあまりにも寂しかった。母のあの優しげな眼差しも、父の大きな手も今はございません。その事実が私達へと襲いかかり、なによりもその温もりがございませんでした。

 教養は元より王を陰ながらお守りするために武術を、また芸術を学び目を養わなければなりません。偽物を身につけるわけには参りませんから。

 数学と魔術にしか興味の無い私には苦労の絶えぬ日々にございました。

 六大公爵の娘である事実、次期王と……その妃になるかもしれない重圧、そのような未来への不安が私達に重く圧し掛かったのでございます。

 誰もが拠り所を欲していた。

 ある者は甘えられる者を欲し、ある者は依存し、ある者は怒りを糧と致しました。

 そのような日々の中でも、彼女は一際飛び抜けて――。

 誰もが彼女を見本とする。手本と致しました。

 私も、数学以外では彼女に敵いませんでした。

「答えを知っているだけ」

 彼女は何時もそう語り、挑発するように笑顔を向けるのです。音楽やリズム、絵画に答え等あるはずもございません。

 器用にヴァイオリンを弾けない私を馬鹿にしているのです。その不適な笑みで。

 器用にピアノを弾けない私の……その手を取り、鍵盤を押す様は……。私の心をひどく掻き乱します。

 アリシア様は常にエンフェトリーテ様に噛みつく事で自身を保っているようにございました。それをエンフェトリーテ様は理解し楽しみとしていらっしゃる。

 なぜにございましょうか。私は……その光景を眺めると胸が掻き毟られるようにお二方を睨んでしまうのです。自分自身でも感じるのです。私のなんと醜い事か。

 その手がアリシア様の頬へ触れるのをひどく嫌がる私がいるのです。なんて愚かなのでしょう。

 同じ年の癖に、エンフェトリーテ様に妹のように甘える他の方々を眺め。それを眺めますと私はひどくエンフェトリーテ様を嫌いだと感じてしまうのです。その癖……そのお膝に誘われると抗えず……。


 他者との共同生活は感情の揺さぶられる日々にございました。

 それは時に苦行であり、時に心晴れやかなるものにございました。

 六年間が束の間のように通り過ぎてゆきます。木葉舞い花となり散り、そしてまた芽吹く。エンフェトリーテ様の隣りにて朝食を頂き、エンフェトリーテ様と机を並べ学び、エンフェトリーテ様……。エンフェトリーテ様。エンフェトリーテ様。そのお膝の上へと横たわる時間だけが私にとってなによりも……。

 あのお膝に頭を横たえて撫でられると何も申せなくなり、大人しく愛でられてしまう。それは他の方も同じにございました。

 この時がずっと続けば良いのに等と……刻の流れは残酷です。


 十二歳となり、王都の学園へと通う年となりました。

 暮らしていた庭園(ガーデン)を離れなければなりません。

 庭園はエンフェトリーテ様により様々な花の咲き乱れる園へと変貌を遂げておりました。何処からか飛んできた雑草の芽でありますのにその花で庭園は色とりどり鮮やかに彩られております。

「手塩にかけて育てた花々と別れるのは辛いわね」

 エンフェトリーテ様はそうおっしゃっておりましたが、本心ではそう考えていらっしゃらないのを私は存じあげておりました。育ててはあげる。虫も取ってあげる。病気の対策もしてあげた。だから後はあなたが自分でなんとかするのよ。エンフェトリーテ様はそのようなお方にございます。

 そのようなエンフェトリーテ様に手を引かれここまで来たのもまた事実。その事実をねじ曲げようもございません。


 六年も庭園にいた私達です。

 王都はさぞ美しいのでしょうと皆が談笑を致しておりました。

 しかしながら王都を眺めますと案外と普通のように、むしろ庭園の方が綺麗だったと申しますのは、不敬にございましょうか。

 学園にて開かれた社交界にて、私達は王子様方との対面を果たします。

 豪華な宮殿もエンフェトリーテ様の園には遠く及ばないと申しますのは不敬にございましょうか。

 高貴な血筋のお方々です。その全てがプロフェッショナルにより清廉され王子様はとても美しかった。

 決して王子様方を馬鹿にしているわけではございません。

 しかしながら、私達が受けて来た教育と、王子様方が受けて来た教育では、あまりにも異なり過ぎたのです。

 天然と造花は違います。私達は皆造花にございました。

 王子様方の天真爛漫な笑みに比べ、私達の笑みはあまりにも計算されたものでした。

 そのような方々の中におかれましても、エンフェトリーテ様は一際目を引き、皆誰も、エンフェトリーテ様の傍を離れようとは致しませんでした。

 エンフェトリーテ様が殿方でありましたのなら……。

 その呟きを私は噛み潰します。


 学園生活が始まります。慌ただしい日々の始まりです。そう考えておりましたが、蓋を開いてご覧になれば、学園での生活はあまりにも生ぬるいものにございました。

 おそらくどのお方も、そのように感じたのでないかと存じます。

 それを開放感と捉えるのか、つまらないものと捉えるのか。

 それとも……。

 アリシア様は開放感と捉えたご様子にございました。

 我を通すのが得意なお方です。

 派閥は出来上がり、その頂点へと座します。

 それは他の三公の方も変わりはございませんでした。

 学園では身分は関係ない――そうは申しましても、どの公家に取り入るのがもっとも御家のためになるのか、子供達も皆必死です。


 エンフェトリーテ様はアリシア様とは異なり随分と大人しく生活しておいでのようでした。

 出来上がった派閥を即時解散し、ただ黙々と学園生活を送られているように存じます。

 ただやはり……どの教科におきましても抜きん出ておりましたので、誰もが彼女を蔑ろにはできませんでした。

 もっとも古き公爵家のお方です。どの派閥も彼女を蔑ろにはできません。できようはずもございません。

 彼女は足繁く図書館へと通っておられました。ロマンス小説を読み漁っているようにございます。

 私はそのような彼女を眺めつつ、図書館にて十年後の資産を計算しておりました。どのような状況がもっとも資産を残せるのか、意味も考えずに計算式を幾つも構築しておりました。……それは彼女と同じ空間にいるための口実だったのかもしれません。いえ、おそらくそうだったのでしょう。

「ねぇ? 俺と話そうよ?」

 王族、公族、貴族の税収、それぞれの収入と支出を算出しております。

「聞こえてる?」

 この国の現在の財政状況にございますが、計算が合いません。

「無視するなよな。チッ」

 やはり、横領や着服などがございますね。それは仕方のない事なのかもしれません。年単位の規模となりますと、その金額も膨大なものとなります。ではその結果誰が一番苦しむのかと申しますと、それはこの国で暮らす市民となります。

「また計算しているの?」

 何時の間に――。

「……何か御用ですか?」

「いいえ、あなたの顔を眺めておりましたの」

 その言葉だけで思考を掻き乱される。胸の内をかき回される。それを表に出さぬように、あなたを瞳の内へと収めます。


 変わらずの赤い瞳。呼吸すら忘れそうになるほどに透き通り、呑み込まれそうになるほどに穏やかで。

 隠すように瞼を閉じ、顔を背け、悟られぬようにため息として吐き出します。


 どれだけ知能や知性を歌っても、体が獣であることに変わりはない。


 昨夜あれだけあなたを考え熱を冷ますのに時間を要したと申しますのに、この方が傍に寄られただけで体はまた熱を帯び、記憶の中のあなたより現実のあなたはより清廉で……私は……。

 何時も脳裏を過るのはなぜなのか。

 気付けばあなたの事ばかり考えている。

「あなたは計算が好きよね」

 あなたの香りはあなたをより意識させ、共同生活で理解したのは彼女が香水などを一切使用していない事実だけ。

「……あなたはまたロマンス小説ですか」

 唾を飲み込むのを悟られたくなく……。稚拙になる思考に抗えず。

「うふふっ。子供の頃は文句ばかりを語ってしまったけれど、大人になり、立場が変わるともっと深く面白くなるのよ。今はもう何にも言えないわ」

「そうなのですか」

「ほらご覧になられて? この小説の主人公の方は、デブでハゲで頭の切れる殿方がお好きなのですって。変わったご趣味よね」

「……好みは人それぞれです」

「うふふっ。デブでハゲでも愛があれば乗り越えられる。例え中年の脂ぎった殿方だったとしても……」

「……生存競争の範疇です。多様性だと存じます。一般的に皆様が好まない殿方に恋愛対象を絞る事で繁殖をより優位するのではないかと存じます」

 他人が例え忌諱する関係であったとしても……。

 それを肯定したい私がいる。

 でなければ私はあなたと……。

「なるほど。確実性を優先するのね。種の保存のために……」

「……頭が切れると言う所が魅力的なのではないですか?」

「あなたもそうなのかしら?」

「私は……別に……」

「そうなの? あなたはどのような方が好みなのかしら?」

 唇を噛みしめていた。どのような方が……あなたが脳裏を過り私は……。どのような殿方が好みなのだと絞って欲しかった。そうすれば王子様ですと即答できましたのに……。

 ニンマリと笑むあなたに、心の内を見透かされてしまいそうで。

 睨みつける私に、あなたはまた悪魔のような笑みをニンマリとして浮かべます。

「答えては下さらないの? うふふっ」

 またそのような挑発的な笑みを。

 その唇にもし唇を添えられたのなら……。

 刹那に過るその妄執に何を考えているのかと……。

 あなたのその胸の内へと受け入れられたのなら……。

 熱を帯びて呼吸すら苦しく、それを悟られぬように必死となり、計算すらままならず、私は……。

「……あなたはどうなのですか?」

「そうね。きっと良い方なのですわ。だってヒロインの愛する殿方なのですもの」

 そのような意味ではなく、あなたの好きな方はと……。

 もしあなたが殿方と……。

 例え物語であろうともそのような結末を眺めたくない等と……。想像するだけで顔を背けたくなってしまう。

「うふふっ……。私は……静かな癖に、心の中に獣を飼っている方が大好きなの」

 息を飲み――唾が喉を通り。

「……獣が、好みですか」

「そうね……例えば……あなたのような」

 心臓が高鳴りその音を聞かれたくない。

 わかっていて告げていらっしゃるのね。挑発されている。なんて嫌な人なのかしら。心臓より顔へと迫る熱に――。あなたの傍にいる事実、あなたと会話している事実を意識してより……。

「ねぇ? ここって私しか入れない場所があるのだけれど、入ってみない?」

「……ファールーナ家のみに許された秘書庫があるとは存じておりましたが、本当にあるのですね」

「えぇ」

 私は秘書庫には微塵も興味等ない癖に、さも興味があるように振る舞い彼女の手を取りました。

 付爪すらないそのお手々。指の付け根から先端までの形。触れただけでまた芯の臓が競り上がり力を込めぬようにと。

 握り返されましたその柔らかさに、ため息にも似た感嘆の息吹が漏れだします。それを必死にひた隠し足取りすらおぼつかず……。


 彼女に連れ立ち訪れた図書館の一室――彼女の持つ鍵でしか入れないその書庫には、この国の歴史や成り立ち、歴代の王やその時々の情勢等が事細かに書かれた本が保管されているようにございました。

 本を一冊手に取り広げ――しかし本の内容がまったく頭に入らりません。彼女を視界の端へと捉えたくて仕方なく……その文字の一行すら認識できず、ただ文字だと流しているだけで。

「ねぇ……」

 背後から耳元に寄る彼女の声色に、喉が鳴りそうになるのを必死に抑え。

 その手が、指先が、私のお腹から胸元までを滑り過ります。表面を滑る様と申しませば、意識が遠のきそうに痺れを。大切な本ですのに……。床に落としてしまいました。

「あっ……」

 間抜けな声と。柔らかと清廉さ、そしてあなたの香りに包まれて。

「なにを……」

「二人っきりね」

 何も言葉を申せなくなりました。何かを語ってしまえば、あなたが離れてしまうのではないかと。

 静かに振り返りますとそのお顔はあまりにも近く……あなたの瞳の中にいる私。

 お願い――瞼を閉じて唇を差し出す私はあまりにも愚かで……。お願い。お願い。答えて。それは願いにも似て。懇願にも似て。

 触れて、僅かに触れてられて、瞳を――あなたの瞳を眺め、脳髄が痺れるような感覚に、今まで解いたどの数式よりもそれは……私を狂わせるのには十分でした。

 あまりにも近く、触れ合うほどに近く。その僅かな間があまりにも尊く。

 瞼を閉じて、再びを願い――。

 触れられるとそれはあまりにも……。

 このような甘い果実を今まで味わったことなどありません……。


 力の入らなくなった私は彼女に支えられ。

 力が抜けて自らでは立てもしないのに、このチャンスを逃せば二度とこのような機会は訪れないと。今離れてしまえば二度とこのようなチャンスは訪れないのかもしれない等と、浅ましきにも私は彼女に縋り付き離れず、支えられている癖に縋り付き離れず、その唇を見つめては――何度も、何度も何度も何度も何度も、触れずにはいられませんでした。

 離れて視線が絡み合うたびに、もっと、もっと欲しいとその唇を求め、そのお手を取り離したくない等と……。

 瞼を閉じて――その唇の嫋やかな感触だけを強く求めて夢中となる。

 寄せた頬が擦れ合い――まつ毛がこそばゆく撫で合い。

 こんなにも。こんなにも。こんなにもこんなにも。私を乱すものがあろうかと、掻き乱すものがあろうかと、苦しさに似たその渦の中。頬へと寄せられたリップ音に。

 夢にも似た現を……。


 彼女に支えら抱えられ、視線は天井の先、胸を穿つ痛みに悶え、ただ彼女の服や手を握力の入らない指で――。

 顎や頬を流れる指の動き、額へと寄せられるその唇。まるで母親が子供を愛でるかのように、愛おしいと語らぬばかりに。

「あなたはまるで幻獣のトラのようね。うふふっ」

 恨めしいと。あなたが恨めしいと。顎を上げ、雛鳥のようにあなたを望む私は……。這う手はモモを通り過ぎ――マグマのような熱と衝動に身を任せておりました。

「私は……」

 唇へと当てられた指。

「その先は……夢の中で、ね?」


 それからは僅かな逢瀬の日々――。

 図書館の一室にて、僅かに行われる逢瀬の日々。

 私にとっては、忘れられない宝物の一ページ。

 あなたを視界に収め、傍によればそれだけで――。

 図書室に向かう間は現実味を失い。時間を失い。笑みを浮かべ駆けるあなたの後ろを夢か現もわからずに追う。

 鍵が回る様が妙に煩わしく、扉を開くまでが妙に煩わしく、後ろ手に閉じられる扉の向こうにチラリと、複数の生徒の姿を……。

 扉一枚隔てた向こう側。

 鍵を閉めた途端に、鍵を閉めた途端に、私は暴力的にあなたへと覆いかぶさり果物をむしゃぶるようにあなたを求めておりました。まるで待てを解かれた犬のように。

「困った人……」

 あなたのせいです……。


 乱れ散らばる制服(ドレス)と本の間――素肌のあなたが傍にいる。

 何度求め消そうとも消えぬ炎の揺らめきに逆らえず、何度も何度も何度も煽りを受けて求めてしまう。

 私はすぐに動けなくなりますのに、エンフェトリーテ様はまるで歯牙にもかけぬよう。抱えられて支えられて、指先は柔らかく、唇の柔らかさにも似て霧雨を伴い、あなたの為すがまま、為されるがまま。

 人差し指を強く噛み耐え、それすら許されず。塞がれては解き放たれ、それを嫌がりまた塞ぎ、迷い子のようにあなたを探り彷徨わせる。

 あなたの膝と足の上に体を横たえて――過る指先の感触に意識すら遠のく。


 逢瀬の時間は虹よりも短く、制服(ドレス)を再び着る間はあまりにも苦く、奥歯を噛みながら冷静を装っては……。

 扉を開いたら何事もなく――それがまた恨めしい。

 透き通るようなその肌に――その白く柔らかい喉元に、その体の下腹までに、痕を付けてしまえたらどんなに良いか。

 振り返り微笑むあなたに――穿たれずにはいられず。その手を取らずにはいられず、再び扉の向こうへと押し込んで。

「あらあら」

 その口を塞ぎ、衝動的に影を落とさずにはいられない。

「……あなたが、好き、です」

「困った人」

 決して好きだとは告げてくれないだろう。決して愛している等と口にはしては頂けないだろう。それがあまりに恨めしく。袖を捲り腕に強く噛み痕を求める。

 肌を流れた赤い液体に戸惑い見上げ、エンフェトリーテ様は柔らかな眼差しで私を眺めておりました。

「……ごめんなさい」

「これだけでいいの?」

(どうすればこの人を手に入れられるの?)

 髪や頬を伝うあなたの指の感触に。

 浅ましくも、愚かにも、その赤い液体へと、舌を這わせずにはいられず、頬を寄せずにはおられませんでした。

 視界から消えゆくあなたの姿を見送る時は、狂おしいほどの痛みに囚われて、それすらも愛おしい等と……。

 私は、狂っているのかもしれません。

 ただ何よりもあなたが欲しかった。

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