本当は、『あづき』じゃなくて、『亜月』にしようかと思ったんだ。姉の月子も、漢字だし。

 でもねえ、ひらがなのほうが文字にしたら何だか可愛いじゃない? だから、『亜月』じゃなくて『あづき』にしたの。

 幼いころ、名前の由来を聞くと両親はそう答えてくれた。

 えー漢字のほうがかっこよかった!

 当時はそうやって答えた気がする。それを聞いた両親は楽しそうに笑っていた。

 ——私って、亜月だったなあ。

 活躍する姉の姿を目にするたび、そう思っていた。


 ボロアパートのせまい一室にちょこんと座る月子は異常だった。

 まるでそこだけが浮いているような。いや、むしろ周りが浮いている。月子が正解なのだ。

 冷蔵庫から水出しのお茶が入っているポットを取り出し、コップに入れてから出す。

 じっと見つめて、月子はこくんと一口飲んだ。

 「……もっと馬鹿にされるかと思った」

 自分用にもお茶を入れ、ごぐごく飲みつつあづきが言う。

 不思議そうに月子は首を傾げた。

 「何が?」

 「いや……家。お姉ちゃんからしたら考えられないくらいぼろいでしょ」

 きょとんとした後、おかしそうに月子は笑う。

 名前の通り月のように神秘的で美しいのに、笑うと途端に少女みたいだ。

 「あんた、実家覚えてないわけ?」

 「それでも、お姉ちゃんがスーパー女優・月子になってからはこんなところ住んだことないでしょう」

 「だとしても、実家で十八年過ごしたんだよ」

 ふふ、と小さく微笑む。


 うちは貧乏で、やわらか壮とも張るようなぼろい平屋に両親と姉と四人で住んでいた。ここからは飛行機と電車と車を使って、四時間くらいかかるような田舎にある。

 そもそも、父も母もあんまり働いていなかったような気がする。その日によって父が何か建築系の仕事をしたり、母が農業を手伝いに行っていたような気がするけれど、ほぼその日暮らしのようなものだった。

 それでも一緒にいられる時間は長かったし、あそこは借家ではなく持ち家だったので家賃の必要はなかった。過去、お父さんのお父さんのお父さんあたりが買ったものらしい。

 農家の手伝いをして母がもらってくる野菜は美味しかったし、仕事の帰りに父は安いケーキを家族分買ってきてくれたりした。着るものはふたりそろって近所の誰かのお古だったが、洗濯は毎日していたしお風呂にも入っていたので悲壮感も特になかった。ただ単純にお金はなかったので、流行りのゲームや雑誌の話題についていけない。それだけだった。

 けど、ふたりで外を走り回っていたら時間はすぐに過ぎたから辛い思いはしなかったし、ゲームや雑誌みんなが貸してくれたりしたので気にならなかった。たまに男子にからかわれたが、どうでも良かった。


 「……お母さんとお父さん、どう?」

 お茶を飲みながら、静かに聞く。

 月子は下を向いたまま答えた。

 「……お母さんは、頭はしっかりしてるけど足腰がダメかも。動けなくなると気も弱るっていうじゃない? だから最近はちょっと心配かな。お父さんは、認知症が進んでて、少し怒りっぽくなってて……この間は怒ってご飯全部ひっくり返しちゃった。ホームヘルパーさんじゃ限界かも」

 当たり前だが、自分が見ていた一年前よりもひどくなっている。

 そう……とあづきはつぶやいた。

 「芸能活動、休止するの?」

 「うーん。前まではもう少ししっかりしてたから、ヘルパーさんに来てもらって、私が週に一度顔を出すくらいでも良かったんだけどね。そろそろ厳しそうだから、ちょっと介護に本腰入れたほうよさそうかなって」

 って言っても、お父さんだけ施設に入れるっていうのもあれだから、お母さんも一緒の方がいいかな。そしたら実家空いちゃうから、今都内にあるマンションは売るか貸すかして、私が住んだ方がいいかもね。

 お茶を飲みながら話す月子に、あづきは固まってしまった。

 自分が一年間、ここでぼうっと過ごしているうちに、月子は多忙な仕事をこなしながら四時間かけて週に一度は帰って面倒を見て、ヘルパーさんに代金を払い、両親の様子を見ていたのだ。

 情けない。

 「……あづき?」

 声をかけられ、はっとする。

 頬が濡れていることに気づく。知らない間に涙が滲んでいた。

 「ごめ……ごめんなさい……私、お姉ちゃんに全部押し付けて……なんにも言わずに、ここでぼんやり過ごして……」

 乱暴に手で涙を拭う。

 月子はふわりと近づくと、苦笑してティッシュを渡した。

 「私が家を出てからの十年以上は、あづきに任せっぱなしだったじゃない。ろくに連絡もせずに」

 「でもお姉ちゃんは仕送りもしてくれてたし、活躍はテレビで見てたから……」

 ぐすぐすと鼻を啜る。

 月子が首を横に振った。

 「私にできたのがお金を出すってことくらいだったのよ。全部——あづちゃんに放り投げていたんだもの。だから一年前に連絡がきて、どれだけ大変だったのかようやくわかった」

 私こそごめんなさい、と頭を下げる。

 長くて綺麗な髪。透けそうな白い肌。演技派女優として名は知れているが、ビジュアル面でも評価は高い。

 ただ整っている訳でない。ミステリアスで月のように遠い存在に思えるほど、カリスマ性がある。

 一緒に生まれ育ったはずなんだけどな。

 彼女の着ている真っ白なワンピースと、自分のスウェットを見比べ苦笑した。

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