灰色の鏡

おおい はると

泥を飲んだ先にあるもの

夢。理想。希望。そのような綺麗ごとは年齢を重ねていくにつれ色褪せ、薄れていく。つまり現実を知るのだ。同じ分野において自分よりも優れている者に対し、嫉妬して対抗心を燃やす。しかし、どれだけ努力を重ねても勝てないと悟ってしまったとき、自分の持つ大言壮語がどれだけ非現実的かを思い知ることになる。だが、もしもだ。それでもなお夢を掲げられる者がいたとしたら。俺はそのとき、畏敬の念を抱いているだろうか……。




 相手のフォワードが左サイドからペナルティエリア内にドリブルで侵入してくる。俺は中央にパスを通されないように相手のフォワードの片割れをマークする。味方のセンターバックがボール保持者に対してボールとゴールの間に体を割り込ませ、縦に誘導するようにプレスをかける。そのままゴールラインより数メートル手前までボールを運び込まれるが、スペースがなくなることは選択肢が限定されることと同義だ。相手フォワードは切り返すことができず、そのままの流れでシュートを放つ。センターバックがシュートコースを限定しながらプレスをかけていたため、それなりに威力のあるシュートは導かれるようにキーパーの腕の中に納まった。

 残り時間はもう少なくなってきた。後半の給水タイムに入ってからもう大分時間が経ってしまっている。これまで時間や状況に応じての適切なプレーを意識し続けたことによって培われた体内時計がロスタイムに突入する頃だと告げている。それを裏付けるようにしてプレーが途切れたこのタイミングで主審が腕時計を確認していた。

「パントじゃだめだ。玲央にパスを出せ!」

 俺は時間のないこのタイミングでパントキックではなく、ボールをつなげることをキーパーに指示を出す。

本来、ビハインドで時間のない場面ではマイボールになるか相手ボールになるか分からない五分五分のプレーがセオリーとされる。

例えば、ボールを奪った後、相手ディフェンダーの頭を超えるロングキックで裏を狙ったり、ウィング(フォワードが三人いたときの両翼のこと)に追いつけるかどうかのぎりぎりのスルーパスをしたりなどフィジカルに頼った攻め方をするのが基本だ。しかし、相手ディフェンダーの堅固な守備をそんな単純な攻撃では崩せない。決して通らないと分かっている穴に針を通そうとしているようなものだ。

残る時間は僅か数分。一度相手にボールが渡ってしまえばもう攻める機会すら訪れないかもしれない。ならばとれる手段はこれまで崩せていない相手ゴールをこの一度きりのチャンスでモノにするだけだ。

ボランチとして、司令塔として俺はそう判断する。それを成しえるための準備はこのチームで万全を期している。窮地に陥ることで勝利への思いがより募っていく。

 攻撃へと切り替わり、素早い動きでタッチラインぎりぎりまで開いていた左サイドバックの玲央にキーパーがボールを預けて素早い速攻を仕掛ける。相手のポジションが戻り切れていない今がカウンターの絶好のチャンスだ。

 キーパーの腕から投げられたボールを玲央はトラップでスペースに押し出すとそのままスピードに乗ってドリブルで運び込む。このドリブルは相手を引き付けることと俺たちがポジションを整えて動き出す時間を作ってくれている。相手が一人玲央にプレスをかけたところでボランチの俺がボールをもらいに行く。

「へい!」

 俺の声に気づいた玲央が俺にパスを出す。しかし、声を出したために相手のボランチが左後ろからパスカットしようと寄せてくる。そうはさせまいと自分からボールを迎えに行き、寄せてきた相手がボールに触れられないようにボールと相手の間に身体を割りこませ、ファールにならないよう肘を添えるようにして腕を使いブロックする。ボールはブロックした相手から一番遠いところに、かつ相手ゴール側を向ける位置にトラップする。

 相手のもう一枚のボランチがカバーのために右から寄せてくるが、周囲の状況はパスを受ける前に首を振って把握しているため想定済み。ツータッチ目でフォワードへ縦パスを送る。この縦パスは俺たちの攻撃の合図だ。右から寄せてきた相手ボランチがカバーに入ったことで、フリーになったトップ下の大輝がフォワードからワンタッチでボールを受ける。

理想は右か左のコーナーフラッグめがけてロングキックを通すところだが、浮き球と裏へのパスへの対応がうまい相手には通じにくい。さらに少しでも加減を間違えれば、ラインを割るか、相手に先に触られるかして一縷の望みすら消えてしまう。ここで可能性が消えてしまえば何のために可能性の高いプレーの選択をしたのか分からなくなってしまう。

「右が空いてる!」

ここはやはり自分たちの最大の武器であるパスサッカーで仕掛けたほうが確実だと判断し、大輝へ指示を出す。ディフェンスでは人と人との間が間延びしてスペースを利用されないようにボールがあるサイドに全体が寄るのが基本だ。

よって左サイドからの迅速な展開のため相手の陣形はまだ左サイドに寄っている。大輝はトラップで右サイド側にボールを置き、ハーフウェーラインまで上がっていた右サイドバックの奏太へサイドチェンジを試みる。

若干軌道がずれ、浮いてしまったパスだが奏太は綺麗に足元に収める。長いパスの間に距離を詰めて、トラップが離れたところを狙おうとした相手をフォワードとのワンツーで躱し、オフサイドを取られないように相手のディフェンスラインに気を付けながらタッチラインに張っていたウィングの前方のスペースへスルーパスを放つ。ウィングは相手のペナルティエリア付近のタッチラインすれすれでボールに追いつくとスピードを殺さないようにトラップで大きく前に出した。そのままコーナーフラッグ付近までドリブルで駆け上がる。その間に相手のゴール前にキーパーを除いて全員で攻め込む。カウンターの速さにこれまで鉄壁だった相手のディフェンス陣はマークに付ききれずフリーの選手が多くいる。

ウィングが上げたセンタリングに対して大輝が上手くヘディングで合わせる。神のコースと呼ばれる左上隅を狙い、コースも威力も申し分なかったが、相手キーパーのパンチングがゴールを阻む。左サイドに転がっていくボールはそのままラインを割るかに思えたが、玲央がライン上で受け止める。副審は旗を上げていないため、まだプレーが続いている。すかさず、左足でセンタリングがあげられる。なんとか合わせようとチームメイトたちが競り合っているが、態勢を立て直した相手のセンターバックにヘディングで返される。

ボランチはクリアされたセカンドボールを即座に拾わなければならない。センターバックの身体の方向からどこにボールが転ぶかある程度予想できた。幸い、相手は全員がゴール前に密集している。とはいえトラップをすれば、瞬時に寄せられてしまうだろう。

ペナルティエリア外へ出てなお留まる気配のないボールのバウンドに合わせて歩幅を合わせる。向かってくるボールに対して数歩の助走をつけ、右足を振りぬく。完璧に捉えたボールはキーパーの手が届かないゴール左上隅に飛んでいく。

これは入ると確信し、振りぬいた右足を一歩目に早急にボールを回収しに行く。けれど、二歩目が出ることはなかった。仮にキーパーが触れていたとしても手ごと弾き飛ばすくらいの威力はあった。けれどどんなに威力があっても枠を外れてしまえば、なんの意味もない。それを証明するかのようにクロスバーに当たったボールは上に大きく舞い上がり、無情にもゴールの後方へと消えていった。

甲高い笛の音色がそれぞれ一瞬の間を置いて三度、スタジアム全体に鳴り響く。それと同時に湧き上がる歓喜の雄たけびと静まり返る両ベンチの反応の違いは試合の決着がついた証左だった。

コート内では抱き合って喜ぶ者、チームメイトとハイタッチをしている者。一方で膝に両手をついている者、顔を片手で覆い、涙を見せまいとする者。様々だった。それもそのはずである。この試合は、全国高校サッカー選手権大会県予選準決勝だからだ。サッカーをやっているものなら誰もが憧れる全国への道。しかし、誰もが全国へ行ける権利を持つわけではない。地区大会を勝ち抜いた強者たちが各都道府県でたった一枠の狭き門をめぐって潰し合い、勝ち抜いた一校のみがようやく手にできる夢の切符である。それは選手たちにとって何の誇張でもなく、人生を賭けた挑戦だ。

だが、その挑戦もたった今終わりを告げた。俺たちは0対2で敗北した。相手は全国常連の強豪校。数字以上の実力差をもって完膚なきまで叩きのめされた。勝負とはなんて残酷なのだろうか。最後まで勝ち上がれなければ、結果を残せなければ、県大会ベスト4の肩書も意味を為さない。敗者の烙印を押されてしまえば、全国を目指した血の滲むような努力も青春と引き換えに費やした高校生活の大半もすべて水の泡になる。

「勝ちたかった」

「負けたのか俺たちは」

涙ぐむ玲央と奏太の悲痛な呟きが耳に纏わりつく。俺だって勝ちたかった。だが、どれだけ努力してもそれが花開くとは限らない。どれだけ水をやっても芽の出ない種子のように。懸命に芽を生やしたとしても鳥や虫に食われてしまうように。実をつけるに値しない芽は間引かれてしまうように。強者であり続ける資格の無い者は資格あるものの踏み台になるのだ。それをどうしようもなく理解してしまっている俺は、仲間たちのように涙を流すことは出来ず、歯を食いしばって下を向いている他なかった。

コートの真ん中に整列し、ベンチ側と応援席側に審判の号令に従って礼をする。会場を包み込む両者の健闘を称える拍手と勝利に浸る歓声が沸き上がるが、今の俺にとって敗者に対しての嘲笑と軽蔑が入り混じるヤジにしか感じなかった。

相手チームとの握手を終えてベンチへ戻る。もう一組の準決勝がこれから始まる。素早く荷物をまとめて撤収しなければならず、それは試合に出ていた選手たちも例外ではない。重い心と体に鞭を打ってベンチから離れようとしたとき、監督が俺の肩に手を置く。

 

「本当にいいプレーだった。君がいてくれたから、このチームはここまで勝ち上がれた。ありがとう。君は私の誇りだ」


尊敬している監督にそう言ってもらえるのは素直にうれしかった。だが、今の俺にはその言葉を正面から受け取ることはできない。これは皮肉だろうか、俺ではこのチームを全国まで導けない、と暗に言っているのだろうかと邪推してしまう。あの監督に限ってそんなことはないとわかりきっているはずなのに。無力感に支配されている胸中から聞こえてくる悪魔の囁きが監督の称賛を受け取る余裕を奪っていた。

「はい。ありがとうございます」

かろうじて返事だけはすると監督は肩から手を離して奏太のほうへと向かっていった。練習は厳しかったが、俺たちとは監督と生徒ではなく、対等な関係として正面から向き合ってくれた。サッカーとは関係がないときは近所の気のいいおじさんのように接してくれた。教え子を全国へと導くという監督の夢は今年に限っては儚く散った。監督の手腕と人望の厚さならいずれ夢は実現するだろう。ただ、自分がその夢を叶えてあげられなかった事実に打ちのめされる。

こんな俺を慰めるには滝のような雨が相応しいのに。空を見上げれば、吸い込まれてしまうと錯覚するほどの澄んだ青空。スタジアムの周りには緋色に染まっている紅葉。そして容赦なく照り付けている太陽。敗者にはこの景色は眩しすぎる。負けてなお、浴びせられるスポットライトは沈み切った心境を大衆の下に照らし出し、公開処刑されているような感覚に陥らせる。ああ、どうして忘れていたのだろう。これが現実だ。奴は敗者の都合など考えない。だから弱者には散りゆくときの環境さえも選べない。

汗によって失われた水分と一緒にどうやら灰となっていた青臭い感情の残滓もユニフォームに吸い取られてしまったらしい。補おうと薄められたスポーツ飲料を喉へと流し込むが、水で薄められた甘いようで甘くない中途半端な味は今の勝ちきれなかった状況を表しているかのようだった。少しでも早く忘れようと喉を鳴らすが、あの独特な味がいつまでもしがみついて離れようとしなかった。

思えば、俺が敗北の味を噛み締めるときはいつもこんな風に晴れていた。未来永劫、古今東西に至るまで印象に残そうとするようにどうしようもなく、綺麗なのだ。だから、こうして過去のことを想起してしまうのは仕方のないことなのだ。いや、むしろ、才のない者にとっては必然であり、免れないことなのかもしれない……



 

 俺がサッカーを始めたのは小学校に上がる前の年長からだった。きっかけなど全く記憶にないが、単純にボールを蹴るのが楽しかったのだろう。頭の片隅にある保育園のみんなと無邪気にボールを追いかけていたころは幼いながらもなにか宝物でも見つけたような不思議な興奮を感じ、毎日ボールを夢中で追いかけていた。

 それから小学校に上がるとすぐに地域の少年サッカーチームに入団した。コーチに、筋がいいと褒められるのが嬉しくて暇があれば父と一緒に自主練をしていた。三年生あたりになってようやくポジションを決めて試合に臨むようになってくると、コーチに、

「お前は視野が広いから、ミッドフィルダーがいいんじゃないか」

と勧められたのもあり、ポジションが定まっていなかった俺が中盤としてチームの主軸になるのはそう遠い話ではなかった。

しかし、学年が上がるにつれ、他のチームとの練習試合や大会が増えてくると、周りとの差が徐々に縮まっていった。今までは周りよりも早くサッカーを始めた年の功でうまくいっていたが、周りがある程度経験を積んでくると、今までのように自分が思い描く通りのプレーをするのが難しくなった。ここで相手をかわすことができれば、シュートまで持ち込める。ここでスルーパスを通せれば、千載一遇のチャンスを作れる。ここでボールを奪えれば、失点を防げる。その理想があと一歩のところで霧散してしまう。理想と現実との乖離が徐々に焦りを生んでいった。

日に日にレベルが上がっていく周囲と自分の理想的なプレーができないもどかしさに初めて壁にあたったと実感した。

 負けたくなかった。一番になりたかった。チームの練習とは別にサッカースクールにも入会してサッカーと向き合う時間を増やしていった。ただ闇雲にうまくなるためにボールに触っていた。最高学年に上がると所属するチームは県大会へと駒を進めた。けれど、そのころにはスタメンの座は奪われ、後半の途中に出してもらえるのがやっとだった。努力はしているのにうまくなれない事実に才能がないのではないかと自分を疑い始めたのはそのころだったと思う。

 県大会は一回戦を勝ち進み、二回戦へと駒を進めた。相手はプロチームの下部組織だった。将来プロになってサッカーでお金を稼ぐかもしれない同年代の子たちと試合ができるのは嬉しかった。

試合に出られなくても自分と彼らとの違いをベンチから見て暴いてやろうと意気込んだ。スタメンでないことに悔しかったが、チームメイトはみんなうまいし、自分なりに納得もしていた。

そんな彼らが四点差をつけられて負けたとき、自分がどれだけ矮小な存在なのかを寒空の下に吹き抜ける木枯らしと一緒に肌を突き刺した。

暴けたのはただの事実。今まで見えていながらも必死に目を背け続けていた上には上がいるということ。理解しているつもりだった言葉が真の意味となって体内で反芻する。

試合が終わってもあまり歓喜せずに淡々としている相手チームを見て自分たちは勝って当たり前のチームなのだと察した。

仮にも同じ県大会の土俵に上がっているのに蓋を開けば大きな力の差がある。プロになりたいという夢がなんの比喩でもなく快晴で雲を掴むようなことなのだとこのときようやく理解した。

中学生になると、俺は県内のクラブチームに入団することができた。欲を言えばプロの下部組織に入団してプロになることを目指したかったが、入団テストで一次すら合格することが困難で最高でも二次までしか通過できなかった。三次から四次まである中での結果だったが悲観は全くしていなかった。

下部組織からそのままプロになる選択肢もあるが、人数はかなり限られる。

全国の高校サッカーで結果を残したり、大学でスカウトの目に留まったりプロになる道はまだ残されている。

同年代で自分よりも上手い子がいても理論的には俺にも追いつけるだけの可能性は秘めている。同じだけの時を生きて差が生まれるのは自分が何も考えていないからだ。   

小学生時代の挫折からただ闇雲にプレーするのではなく試合の流れを読んで判断する癖をつけようと考えた。上手い子たちは次に起きうることを予測しているから的確なプレーができるのだと。

予測を可能にするには相手、味方の位置を把握する必要があった。状況が分からなければ予測などしようがない。だから常に周りを見て情報を得る必要があった。

 しかし一長一短で状況を把握できるようにはならなかった。首を振ることを意識すると肝心のプレーに集中しきれず、ミスを多発するようになってしまった。かといって、首を振る回数を減らせば、予測が曖昧になり判断に時間がかかってしまう。刹那に状況が変わる競技で判断の遅れは致命的だった。 

何もできず相手に奪われるボールにチームメイトからの文句が絶えなかった。

「なにしてんだよ」

「ほんとへったくそだよな」

辛辣だけれど、ただ事実を述べる言葉に言い返せる言葉はなかった。俺がミスをするせいで彼らは尻拭いをしなければならない。一人の手枷は全員の足枷となるのだ。

 申し訳なさからプレーすることの怖さを覚えた。ミスをしたら彼らに負担がかかる。また文句を言われてしまう。そして何より周囲からの失望しきった視線が身体の奥深くまで突き刺さった。

あれだけ好きでやっているサッカーが嫌でたまらなくなった。何度も辞めたいと思ったが、サッカーしかしてこなかった俺にとって辞めることは努力してきた過去の自分と費やした時間とお金を否定することと同義だった。

辞めれば正気を保てなくなると本能は理解していた。嫌悪することに向かい続けなければいけない環境は自己の確立と逃避したい気持ちとの板挟みが生じて俺の心を圧迫した。

好転しない状況は闇の中を進んでいると錯覚させる。方向が分からず、前進しても前に進んでいるか分からない。真横に進んでいるかもしれない。後ろに進んでいるかもしれない。同じところを円転しているかもしれない。解のない問題を延々と解き続けていた。

それでも諦めたくなかった。

才能などない。そんなことは否定のしようがないほどこの身が証明してしまっている。理想がある。夢がある。初めてプロの世界を生で見たときからどうしようもなく魅せられてしまった。精神的に追い詰められてなお脳裏の端で光り輝く舞台が圧迫されて砕けそうな心を首の皮一枚で繋ぎとめる。

抗い続けるも向かい風になったのは体格だった。中二の冬に差し掛かると成長の早い子は背丈も伸び筋肉もついてくる。球際での接触プレーでは体格のいい方がアドバンテージがある。五分五分の競り合いがフィジカルによって圧倒的不利になる。成長期が遅いことはスポーツにおいて致命的だった。反省点を改善し続け、プレー中に考えることが自然になって臨機応変に対応できてもフィジカルの問題が思い描く理想を遂行することを困難にした。 

中学時代は苦難の連続だった。蹉跌も挫折も屈託も経験全てが泥の味だった。歩き続けていられたのは偏に成長している、変わってきていると実感できていたからだ。身体の組織が再構築されていく感覚を知らなければ、きっと折れていただろう。

三年の夏前にようやくスタメンになることができた。成長期を迎え体格も周囲と遜色なく、フィジカル負けも減った。試合前のミーティングで呼ばれることのなかった名前を耳にしたときの達成感と満足感は全身の毛が波立つかと思ったほどだ。

「最近とてもいい動きをしているからな。自信をもってやれることをやればいい」

 快く送り出してくれた監督の言葉が素直に嬉しかったし、自信になった。チームメイトも失望ではなく信頼の眼差しで暖かい言葉をかけてくれた。成長しているという実感が結果が伴ったことで確信へと変わり、努力が間違いではなかったのだとようやく答え合わせができた。

 夏から始まった中学最後の大会は順調に勝ち進んだ。県大会決勝でゴールを奪い、関東大会へと駒を進めた。

初戦の相手はかつて大敗したプロの下部組織だった。三年の月日を経て借りを返し、過去の清算をできる機会が訪れたことに歓喜した。泥を飲んだ経験すら超越して胸を張ることのできる自分が誇らしかったし、勝つ自信もあった。ベンチからではなくグラウンド上で相対する彼らにも負けない雰囲気が自分たちにはあった。

スピーディなパスサッカーに翻弄され、終わってみれば一点も取れずに敗北した。二点の差は大差ではないものの数字以上に実力の差が顕著だった。相手が守りを崩せたのにこちらは全く崩せなかった。防戦一方で責めるチャンスが中々訪れなかった。残暑が残る澄んだ青空の元、一筋の汗が顎で煌めき地面に吸い込まれた。太陽に照らされる青々とした山々はひどく綺麗だった。けれど富士山の山頂だけは雲がかかり見えなくなっていた。

俺はうまくなったと思っていた。実際にうまくなっていることは確かだが、そうではない。到達したい領域に手が届く力をつけたのかどうかということだ。

県大会は危なげなく突破したし、関東大会も勝ち抜けて全国大会にいく望みはあると思っていた。けれど、初戦で敗退し自分たちを負かした彼らもその後に敗れて全国大会に行けなかった。小学生の頃から目標だった彼らの先に全国がある。壁の厚さと自分の限界が可視化され、やるせない無力感に苛まれるほかなかった。

成長だと思っていたものは己が勝手に堕落してそこから這い上がったにすぎないのだ。才のある者も変わらず成長し続ける。至極真っ当で単純なことに気づかず、分不相応に上を見上げていたのだ。俺がいくら変わった気になっても相対的に上位に位置しなければなんら意味がない。望んだ結果を得られなければ、勝負の世界において残るのは努力したという結果の伴わない空虚な過程だけだ。

結果の伴わない努力は光を顕現しないままどこに消え去るのだろうか。

血反吐を吐いた努力がこの身の財産になるというのなら砂粒でも誇りを持てるはずだ。自分を慰めれるはずだ。「頑張った」「よくやった」と励ませられるはずだ。しかしそう思えないのには本気だったからこそ見える才能の限界と頂に手が届かない強烈なイメージが俺を捉えて離さないからだ。空高くに位置する飛行機に決して手が届かないように。お前は地べたで這いつくばっていろと現実という気圧が言外にそう告げていた。

目を背けて忘れた気になってもまた目標の手前で敗北を味わう。踏み台にされることを否定したくても結果が慈悲もなく正論だと突きつける。

奥底に刻まれた劣等感が俺の視界を再び闇に閉ざしていった……




つまらない過去を想起している間に高校最後のミーティングが終わっていた。玲央と大輝に解散した後、次に行われる準決勝を見ようと誘われて力なく了承したのはかろうじて覚えている。

二人は負けたことに堪えている様だったけれど、どこか清々しく見えた。彼らは高校でサッカーを辞める。プロになるためにサッカーをやっているのではなく一生に一度の高校生活で悔いを残さないために部活動に励んでいたのだ。

むしろそれが普通なのだろう。好きだからといって誰でもプロになれるわけではない。それを理解しているから高校までと割り切っているのだろう。俺もそうしていればこんな気持ちにならずに済んだのだろうか。

「惜しかったよなー。何度かチャンスはあったんだけどな」

「そうかな?僕は結構差を感じたよ。シュートまではいけてもフリーで打ててないし」

「それは俺がもっとうまくやらなかったからだな。もう一回同じプレーできたら三点は決められる」

「それはそうでしょ。僕だってもっといい動きできたなって思うよ」

 前を歩く大輝と玲央の会話を聞きながら後ろを歩いていく。今はとても自分から話しかける気にはなれない。

「こうやって振り返るともうこのチームで試合することはないんだなって実感するよ」

「濃い三年間だったな。なあ、覚えてるか。一年の合宿のときにさ…」

 二人の会話は昔話へと弾んでいった。大輝が言うように本当に濃い三年間だった。チーム一丸となって多くの感情を共有した。全国大会出場の悲願だってみんなとなら不可能じゃないと本気で思っていた。けれどもうそれらは過去の遺産になろうとしている。

「真司は大学でもサッカー続けるんだろ。忙しいだろうけど、定期的に集まろうな。」

 振り向いて何を言うのかと思えば気が早すぎる発言に俺の唇が弧を描く。

「まだ卒業もしていないのに気が早すぎ。その前に受験がある」

「辞めてくれ。今日くらいは受験のことを思い出させるな」

 芝居がかった仕草で頭を抱える大輝を見て玲央と笑った。卒業すれば気軽に軽口を叩き合うこともできなくなってしまうのだろうか。

 観客席に着くと、すっかり席は埋まってしまっていた。かろうじて一番後ろに三人並んで座れる席を見つけることができた。

 準決勝は既に始まって既に二十五分が経過していた。一点既に得点しているようで電光掲示板には大きく『1』と書かれていた。見始めて僅かしか経っていないが、点を取って勢いに乗っているのは明白だった。素早いパス回しでゴールを脅かそうとしている。

「さっきの話の続きだけど、大学ではもうサッカーやらない」

「えっ、そうなの」「えっ、なんでだよ」

 同じタイミングで俺の方を向く。二人にはプロを目指していることは言ってある。だから、目を見張って驚いているのだろう。

「俺には無理だって今日の試合でようやく理解したから。文字通りのベストを尽くして相手のボランチと五分五分くらい。チームの状況が違うから一概には言えないけど、プロになるやつは全国大会の各ポジションで一番になれるくらいじゃないと無理だ」

「そうかもしれないけど、大学でも続ければまだチャンスはあるよ。真司の上手さは僕たちが保証する」

「無理に発破をかけなくてもいいって。自分が一番わかってる。自分の生涯最高のプレーで全国に行けなかったんだ。諦めるのは前向きな決断だよ」

「俺が点決めて勝ってれば…」

「それは違う。大輝の元までボールをつなぐのは俺の仕事だ。けれど全然相手を崩せなかった。限られたチャンスで決めるのがフォワードと言うが、限られたチャンスしか作れてない時点で俺のせい。大輝や玲央が気に病むことはない」

 何かを言いたそうに二人はしていたけれどすぐに声が上がることはなかった。下を向いてしまって表情までは見えない。

 眼前では細かいディフェンスの合間をボランチがパスを通す。フリーで受けたフォワードが冷静に二点目を決める。前半三十分で二点差。三点差が付くのも時間の問題だ。

 果敢に攻めあがるも楔へのパスをカットされてボールを失う。正直に言って力の差がありすぎる。

 それでもなお諦めずに食らいついていく。けれど気迫だけで力の差が埋まるわけがない。もしそれで差を縮めることができるのならこの綺麗な景色に気後れすることなどないはずだ。これまであんなにも辛酸をなめ、泥を飲むことなどなかったはずだ。だって俺にあったのは夢への執着だけだったのだから。

 前半終了間近、奮闘虚しく三点目が入る。チーム全体で声を張り上げて鼓舞しても結果はもう見えてしまっている。諦めないことは美徳だと思っていた。夢を追い続けることは美しく、眩しいものであると。どうやら俺は勘違いをしていたらしい。この鏡がどうしようもないほど教えてくれる。分不相応な夢や目標は見苦しく滑稽だ、身の程を知らぬものは哀れで可笑しい、と。

 身体の内側からふつふつと煮えたぎってくる。抑えこむことはできる。だが、今の俺に大人でいられるほど冷静には到底なれなかった。

前半終了のホイッスルが鳴り響く。彼らはまだ、今以上に醜態を晒すのだ。免れられない事実に小さく、けれど最大限の侮蔑を込めて嗤った。

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灰色の鏡 おおい はると @yugo0508

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