運命の遊び

松ノ枝

クレーンゲーム

 クレーンゲーム、アームのついた装置を操作して景品を掴み、運び落とす。

 ふと思ったことだけど人生も似たようなものだろうと感じるのだ。

 

 人生というものを誰かに運ばれている。誰かは僕を景品として見ているやつで、それこそ運命そのものかもしれない。僕の人生は運命によって運ばれてこうして今に至っている。


 運命は善悪が無い。そもそも人でないのだから善悪の意識など求める方が間違いともいえる。それでも無慈悲で、慈悲的で。


 決定論、未来は既に決まっていて変えられず、僕らはそのレールに乗せられている。言ってしまえば僕らは決定論的クレーンゲームに入れられて運ばれている景品だ。自ら声を上げて運命から逃げられず、決められた因果をただ静かに通り過ぎる。


 いつの日か僕らは景品取り出し口と言う名の終わりに落ちるだろう。それはなんてことない日のなんてことない因果で、不意に終わりですよと告げてくる。僕は心の中で拒んでみるが、運命は無邪気に僕を景品として持ち帰る。その時僕の人生は終わりを迎える。


 だが量子力学のコペンハーゲン解釈的クレーンゲームならどうだろうか。運命は僕を観測するだろうが、それまでは複数の状態を重ね合わせて持っている。観測されるまで確率的に複数の状態が存在するのだから、運命に掴まれない状態の可能性もあるだろう。僕にとってはこちらの方が望ましい。なんだったらエヴェレットの多世界解釈的クレーンゲームでも良い。こちらは波動関数が収縮しない。つまりは観測されて取られるか取られないかの状態が決まるコペンハーゲンと違い、重ね合わせの状態が干渉性を失い、別々の世界に分岐する多世界解釈的クレーンゲームは確実にどこかの世界で僕の人生は続くことになる。


 しかしどこかの世界の僕が生きていても今の僕が死んでしまうのは当然嫌だ。そんなとき多世界の自分と意識を共有できればいいのにと思う。当然運命も多世界の僕に気づき、僕を全て落としにかかるだろうが僕も必死に多世界の自分の意識を乗り移りながら生きるから追いかけっこだ。


 結末は結局生き残ろうとする思いの強い僕の勝ちだろう。運命が行うクレーンゲームは彼にとって景品は僕だけじゃない。電車の中、僕の隣で音楽を聴く若者かもしれないし、テレビのキャスター、どこかの星のどこかの誰か。僕が生まれる前かもしれないし、死んだ後の者かもしれない。


 運命に時間は関係ない。この宇宙のいつか、どこかに生きたものがクレーンゲームの景品だ。

 僕らは運命の遊ぶクレーンゲームの中にいる。運ばれ落ちて終わりを迎える。そんなクレーンゲームで僕はこの思いを胸に生きている。

 全力で生き抜いて、人生を楽しもう。そうすれば運命に一泡吹かせてやれる。

 淡い期待かもしれないが、運命が景品に殴られて慌てふためく姿を想像すれば僕は笑い転げるだろう。だがそうなったならこんなクレーンゲームを生きてみたい。

 決定論の否定から生まれた、未来定まらぬクレーンゲームを。

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運命の遊び 松ノ枝 @yugatyusiark

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