スマートフォンの冴えない画面を眺めながらご飯を待つ。　画面に映された数々の映像たちは柊の興味を射止めることなくスワイプされていく。

　今日は面白い動画はないみたいだ。　先ほど見ていたテレビは、もうリアルタイムでは見れないだろう。録画しておいてよかった。

　足元に落ちていたリモコンを拾い上げ、例のクッションに体を埋めた。

　大学生の兄は、友達と飲みにいくらしい。高校生の兄は塾で遅くなる。父親は残業。我が家の夕飯はいつも七時に始まる。こういう時は、ご飯が冷めてしまうので家にいる人が先に食べる決まりだ。

　柊にとって父親と兄は、この安泰の居場所（せかい）を壊しかねない。父親は柊が学校に行かないことに不満に思っているし、兄たちは柊を腫れ物扱いする。自分と違ってこれといった長所のない柊に対してどう接すればいいのかわからないのか、それとも父親が何か吹き込んだのか。

　

　なんにしろ居場所（ここ）を構成するのは、柊と母のみだ。滅多にない2人だけのこの時間は大切にしなければ。

　　「柊ー　出来たー　持って行ってー」

　母が呼ぶ。　素早く食卓に向かって丁寧に布巾でふいて、自分の分の夕飯を取りに行く。

　ハンバーグの盛り付けられたお皿をお盆に乗せて持って行った。　ふと皿を見やる。　いつもよりも盛り付け方が雑に感じた。文句がある訳ではない。

　　（疲れているのかな…）

　母へのフォローが足りなかったのかもしれない。

　悔やみつつ、自分の増やせる仕事を考えた。　洗濯物とリビングの掃除、インコの世話。　他には何ができるだろうか。

　柊が席につき、母も柊の向かいに腰を下ろす。

　　「「いただきます」」

　母の様子がおかしい気がする。

　確証はないが微かな違和感を、柊は感じていた。いつもにこやかな母の口角が上がっていない。纏う雰囲気もどんよりとしている。ふと母の手を見た。漆塗りの箸を握った彼女の手が小刻みに震えている。

　母の違和感が確信に変わっていった。空気感に耐えかねて下を向いた。

　　「具合が悪いなら無理しないでねお母さん」

　もしものことがあれば、残りの家事は柊が引き受けられる。これは母との居場所を守るための行動だ。苦なことはない。

　母は震えた手でゆっくりゆっくり料理を口に運ぶ。

　普段の食卓は、柊たち家族の雑談の時間である。家族全体が集まるのがこの時間しかなかったためだ。夕飯の時間になると、兄たちは学校の話を聞かせだす。その話が特別魅力的なわけじゃないのに、母と父親は楽しそうに聞き入るのだ。　父親は兄たちばっかり贔屓目で見るのに比べ、母は柊を気にかけてくれている。

　やはり母が一番の居場所だ。

　無性に母に感謝したくなって口を開こうとした。だが、目線をあげて、はっと息をのんだ。

　母の目に輝きがなくなっていた。　無気力に伏している。

　　「お母さ＿＿」

　　「柊」

　呼びかけを遮られた。　喋ってはいけない。母の声がストッパーになって口を開くことができなかった。

　　「＿＿　大通りに住んでる漆戸さん　引っ越したそうよ」

　　「え？」

　

　母はボソボソと言った。

　母が他の人の話をするのは初めてだ。それも柊が最も嫌う話題を。

　　「＿＿　あなたのクラスメイトの子は引きこもりから回復した」

　　「待って　お母さん…」

　母はやめない。柊は掴んでいた箸をぎゅっと握る。

　　「＿＿お兄さんたちは学校の生徒会に入って苦手を克服してる」

　

　　「いいよその話は！！！！」

　苛立って机を思いきり叩いた。コップの水がこぼれる。

　　「お母さんどうしたの？！　なんで関係ない話ばっかりするの！！」

　興奮のあまり柊は立ち上がった。

　母がおかしい。　今まで何も言わないでいてくれたのに、これまでが嘘のように他人の話を話し続ける。　

　　　「あなたの周りは常に変化してるの」

　

母は椅子に座ったままだ。冷淡な顔で私を見上げる。

　母が口を閉じることはしない。うちに秘めていた何かを吐き出すようだった。

　父だ。父親が何か言ったに違いない。母がこんなこと言うわけない。

　柊は受け止められなかった。母がおかしくなった。本気でそう思っていた。柊の視界には真っ黒な瞳で見つめる母がいる。

いつも何も言わずに、変化しない柊を認めていてくれたあの優しい母が。あんな死んだ顔で柊を失望させることを言うはずがなかった。

　　「今まで散々…休んだんだから、ちょっとくらい変わろうとしなさいよ！！！」

　母が声を荒げた。手のひらを箸ごと机に叩きつける。

　視界がぐらつく。　体の中で鼓動がドクドクと響いて気持ちが悪い。　そこにいるのは本当に母なのか。

母ではなく悪魔でもいるんじゃないか。そうだ母じゃない。絶対に違う。

　突然両肩にガッと衝撃が走る。　揺らいだ視界が一点に集中する。

　そこにいたのは、母親だった。

　母親は我に帰ったのだろう。立ち上がり柊の目の前にいた母。真っ青になって数秒前の自分に怯え出す。柊の肩から手を離し、後退り。両手を口に当ててこちらを見ている。

　脳が母と認知した。柊は受け止められなかった。だが母親だ。母親が今の今まで悪魔のように柊を襲っていたのだ。掴まれた肩がゾワッとして耐えられない。気持ち悪い。冷や汗が出る。

　母親が手を伸ばしてきた。　咄嗟に弾きかえす。　肩の感触が戻って体を抱えた。

　「柊」

　人間Aが、名前を呼んだ。恐怖が体を部屋の外へと突き動かす。

　その瞬間、柊は　居場所（ははおや）との幸せな時間を残して部屋へ駆け出した。