第6話 思い出の場所
――――ここに来たのはあの日以来だ。彼は……覚えていてくれたのか。
駐車場に車を入れれば、彼が来てくれる。
「何だ、緊張してるのか?前にも来ただろう?」
「だからって……来慣れてないから……緊張するの」
「ふぅん……変わらないな」
それは褒め言葉なのか……どうなのか。いや……この男は口は悪いが元夫のように私を貶さないはずだ。
緊張しつつも店に足を踏み入れれば、この雰囲気……懐かしいままね。緊張するところなのに、変なの。
そしてウェイターに案内してもらった席は夜景の美しい席だ。
「……以前も、この席だったわね」
「あぁ」
最初は学生服だった。それから、最初に付き合った時は今日みたいにカイが服を用意してくれた。
「マナーは……だいぶ忘れてしまって……何となくだけど。ごめんなさい」
「それでも充分だ。ちゃんと身に付いている。脳が覚えているんだ」
カイが私の手元を見ながら答えてくれる。
「そ……っか」
結婚してから最初のうちは外食もあったのだけど……私といると笑われると怒られるようになってから……行くこともなくなった。
でもここには一度も連れてこなかった。いつもカイに連れてきてもらった思い出の場所だから。
「でも、変じゃない?私といると……テーブルマナーのせいで笑われるって言われて……」
「そんなことはない。周囲は誰も笑ってないだろう?」
「それは……うん」
「つまり伊吹はちゃんとテーブルマナーを身に付けている。……身に付けたんだろ?」
「……うん」
最初に来た頃はまだ高校生だったから、テーブルマナーなんて未知の領域だった。カイが自分の真似をすればいいと言ってくれて、私の食べるペースに合わせて見せてくれたから。
必死に覚えた。再びカイと再会したら……今度はちゃんとテーブルマナーを身に付けた私を見てほしくて。
「お前は立派だ。伊吹。自信を持っていい」
「……うん、カイ」
カイに励まされると何だか嬉しくなる。
どこか心に温かいものを覚えた時だった。
「ちょっと!一番いい席を出しなさいよ!私が誰だか知らないの?」
耳に不快な声が響く。
「いえ、今はほかのお客さまが……」
「その客が私たちに譲ればいいでしょう!?」
「お客さま、困ります!」
店員の制止も振り切り、こちらに向かってきた人物はやはり想像通りだった。麻亜矢……またあなたが現れるの……?そしてその横には元夫の猛。しかし言い方からして、この席を私たちが利用しているとは知らないようだ。
私たちの顔を見て、麻亜矢が目を吊り上げたんだもの。
「何でこんなところに伊吹がいるの!?どういうこと!?」
「そうだ!貴様、無一文のくせに!」
そうなったのは誰のせいなのだろう。
「アンタがその席を使うだなんて認めないわ!とっとと出ていきなさい、ドブネズミ!」
何故……そこまで言われないといけないのか。
しかもその時、麻亜矢の指に母の形見の指輪が嵌められているのを見てしまったのだ。
お母さんの、指輪……。
「はぁ……ずいぶんとマナーの悪い客だ」
その時呆れたようなカイの声が響いた。
「オーナー、この店はこんなマナーの悪い客を入れるのか」
「申し訳ありません、シノミヤさま。すぐに対処します」
オーナーと見られる男性が女性店員たちに指示を出せば即座に麻亜矢を取り押さえ、、猛が抵抗する。
「な、何をするんだ!麻亜矢に!」
しかし猛も即座にガタイのいい男性店員に取り押さえられる。
「私は華ノ宮財閥の娘よ!この私にこんなこと……っ」
「ふぅん……華ノ宮の令嬢はマナーも守らずわめき散らす無作法ものだ。今の時代、ネットにでも流れたら終わりだな」
カイの手にはいつの間にかスマホが握られていた。まさか……撮ってた……?
麻亜矢の顔は真っ青だ。
「そんなの……そんなのパパに言えば握り潰してくれるわ!」
「……ふぅん。出来るのか」
カイの表情から一切の笑みが消える。あれは……まるであの時のような表情。抑揚のない声にどこまでも無機質な、住む世界の違う領域。
「……っ」
麻亜矢が恐怖を感じたように口ごもる。
「あ、あ……あんた……どこかで……」
男を誘惑し過ぎて、私から大切なひとを奪いすぎて、彼の顔すらまともに覚えていないのか。
「……オーナー」
「はい」
カイがもう一度オーナーを見れば。オーナーの指示で麻亜矢と猛が店の外に引きずり出されていく。
「……はぁ……せっかくのディナーに水を差されたな」
「……ううん」
優雅さを取り戻した店内では、店からお詫びのドリンクが振る舞われた。
「カイは……いつも私を守ってくれるから」
だから恐くない。この思い出の場所も守ってくれたから。
「なら、仕切り直しだ。デザートがまだだろう?」
「……えぇ、そうね」
元の時間が戻ってきた。それはまるで……最初の時のように。
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