神様のメモ用紙
バター醤油
第1話
彼女、最原葵はあっけもなく死んだ。長い髪が初夏を感じる6月の夕暮れ。殺しても死なないような彼女は、いともたやすく死んでいた。僕たちの間には、恋仲とか、こういった男女の関係でこそ最後までなかったけれど、僕としては、そろそろ何かあってもいい頃合いではないかと期待していなかったと言えばうそになる。反してその程度の仲。気の合う友人Bが死んだくらいではないか、とグラスの裡を除いている。そのそこには、味気ない色のコースター。右手側には白いナプキン。夏休みを前にした、憂鬱でどうしようもない時間にぐったりと進む秒針は、自分の心の裡を見透かしたの如く過去最低の速度で進行中。時間が解決してくれることを願っているというのに、どうも世界がそれを否定する。時間の中に人生という意味を見出したホモサピエンスの罰とでもいうかのように、意味のない時間が溶け出していくのを眺めることしか出来ない。その間に、グラスから水滴が流れてコースターに染みを作っていた。
「また、徒労に終わってしまったな。」
僕は人知れず溜息をこぼす。半年もの時間と思い出をかけた自身の集大成は、もはや何の意味も持たなかった。
所詮、人を生き返らそうなんて大逸れたこと、夢見る方がおかしいのは重々承知の上であった。そのおかしさを自認しながらも足を止めることが終ぞなかったのは、その夢におぼれていたほうが気が楽になるためだったに過ぎない。夢見る時は気楽でいいものだ。どれだけ見た所で失うものなどありはしないのだから。
ただ、もう一度彼女の口からききたいことが一つ。その一言がききたかったがために、貴重な時間を捧げた。
「少年、どうしたんだい。」
そんな声が聞こえた。聞き間違い、人違い、様々な可能性を見出してはその声に反応しない理由を作っていく。脳内がそのような戯言であふれかえりそうなときに、彼女はもう一度声をかけてきた。紛れもない、この僕、東宮司乃阿に。
「君だよ君、死んだように下を向くそこの君だよ。」
溌剌な声に思わず目を細める。僕のような日の光が苦手な人間にとって、この手の人は天敵である。こちらの意図など気にも留めず、気楽に、そして自由に、反して横暴にも自分の領域を侵害してくるのだから。最原もそうであったように、距離感のつかみにくい人間だっているのだから、そうっとしておいてやるのもまた一つのやさしさであろう。
しかし、このままではらちが明かない。そう考えた僕は、思わず顔をあげる。その顔を見たとき、心臓の鼓動とともに秒針は針を急ぎ始めた。止まっていた時間を無理やり巻き戻すかのような超加速に、時間という狭間で取り残されるような感覚が自分を襲った。
「やあ。」
快活な声とともに、夏の扉が閉ざされていく。聞きたかったことが脳に焼き付いているのに、口から出る前に消えていく。その言葉が出るのを、その回答が返ってくのを、人知れず自分の脳が拒絶しているかのようである。収まれ、収まれと何度願っても、その痛みは消えそうもない。
ひりついたのどを押さえながら、彼女の全身に目を向けた。すらっと伸びた足もある。ミニスカートがよく似合っている。きゅっとしまった腰がある。時代不変のカッターシャツがその身体を引き締めている。長く伸ばした髪がある。よほど手入れが行き届いているのか、整列した軍隊のような一糸乱れぬ長いそれは、見たものを魅了しているはず。
最原葵。死んだはずの彼女がそこに立っていた。僕があっけにとられていると、カランと氷が溶けてグラスの中に落ちていった。
6月。夏休みに入る前、学生の皆がそわそわと足を浮かせている頃に、彼女の葬儀が行われた。家族と親族、およびが親しかった友人らを少し招く程度の小規模なものではあった。がその方が彼女らしいとも思えた。
僕が呼ばれたのは、彼女が僕の所属する新聞部であったためである。とはいっても、インターネットで思いを伝えるようなこの時代には、とても似つかわしくないという評価を下さざるを得ない。その証拠に、部員は僕と彼女の二人だけであった。僕自身、特に新聞が好きとか、そういうこだわりはなかったと思う。推量でしか自分の感情を推し量ることが出来なかったのは、もっぱら彼女の話の中に自分がのめりこんでいたことに、後になって自覚的になってしまったが故である。
しかし、そんな自分すら計れない僕と違って、彼女には並々ならぬ情熱があったように思える。「文字を書いて事実を伝える。その中で私自身が現れていく。それを見ることが好きなんだ。」
僕はこう言ってみた。「主観的情報媒体に意味はない。事実を伝えることのみに特化してこそ、情報は意味を為すために成す。」と。
「どうでもいいんだよ。情報を伝えること自体にそこまでの価値はない。完結することのない情報があれよあれよと入ってくるのだから、情報の伝達がどこで止まるかなんてものに対して深い意味はない。最後は元来、個々人の主観に委ねられるのだから信じるも自由、信じないも自由。その判断は私の管轄外だ。其れより重要なことがある。」
鼻白む僕はつまらなさそうに「それは?」と次の回答を促してみた。しかし、その言葉の続きを聞くことは叶わなかった。その時彼女は「まだまだだね。」とにやにやと笑みを浮かべるばかりであったがために、僕自身もそこまで気にしていなかった。
並べられた花の匂いと、漏れ出す嗚咽の中で、僕は涙は出てこなかったが、1つの興味は浮かんできたのだ。あなたはあの時、なんて言おうとしたんですか?
その後、大学の第一タームの最後の講義が終わるまで、自分の中から疑問は消えずにいた。僕は、その後一つの変化を除いて、普段と変わらぬ日常を過ごしてきた。普通に講義に出て、普通にアルバイトをこなして、普通に家で寝っ転がりながらスマホを見て。
しかし、以前までは講義とアルバイトの間、もしくはアルバイトと自宅で無下に過ごすまでの間に新聞部としての活動があった。その間がぽっかりと空いてしまっていた。
無理もないことである。自分と彼女の二人しか部員がいなかったのだから、彼女が消えてしまえば自然と部にも顔を出さなくなるのが節理である。なぜ今まで存続が許されていたのかという点に疑問符が付くのも当然である。その答えは、彼女の家が超が付くほどの名家であったがためである。
彼女の家、最原家は、一族を通して様々な分野で成功を収めてきた。金融、航空、出版など多岐に渡る。その中でも最近は脳科学の研究を中心としているといううわさがあった。人間と他の動物の進化の差が脳にあったとして、脳から派生する科学を突き詰めることでさらなる技術の発展が認められるのではないか、ということであった。
閑話休題。しかして、そんな名門の生まれである彼女は、この帝鳳大学においても絶大な力を持っている。故に、どのような方面においても、自由は保障されていた。
そんな彼女に気がある男性や、のちの人生のバイブルへと昇華させるためによりそってきた女学徒を一刀で切り伏せていくうちに、僕のような取柄と呼ばれるものがない平々凡々な人間に辿りついたのだろう。毒にも薬にもならない人間こそ、すべてにおいて凡とならぬ彼女にとって時間を潰す相手にふさわしいと考えたのかもしれない。
しかしそんな自由が保障された身であるにもかかわらず、新聞部という部の設立には大学一年の4月から7月頭までの計3か月かかっている。彼女の興味は、まるで使い捨てのポリ袋のように次々とは放り出されていくのだ。やれ学校の中にトラップを仕掛ける安全強化指導部を作ってみようだの、女学徒を招き入れてキャバクラを設立し、法外なお金をせしめる治外法権”特区帝鳳”を作ろうなどと意味の分からないことを提案してみては、僕は次々と却下していった。いくら名家の娘とて、そのようなことをすれば、良くて勘当だろう。何を考えているのかわからない。理解もしたいとは思わないが。
新聞部の活動というのは、ほとんど彼女一人で行っていたようなものだ。僕はその付き添い役。傍観者のような立ち位置。彼女がかき上げるものを見て、感じて、感想を伝えて、ときには発禁にして...さながら検閲のようなものである。
彼女の手によって紡がれる字は自由であった。新聞とは名ばかりの砕けた文章や、彼女自身の感想、伝聞。情報を伝える手段としては下の下であっただろう。そうした文字の塊を紙にぶつけて、つらつらと紡いでいくとき、彼女の目には爛々とした光が宿っていた。
そして、その魂のこもった新聞を貼り出すことで彼女は深い満足を得ていた。大学の講堂、そのすぐ足元にある掲示板。そこはインターンシップ制度やサークル勧誘の薄い意味と熱を持つ張り紙が鎮座していた。野菜室で眠るしなびた使いかけの玉ねぎのように、捨てられるのをふてぶてしい顔で待っている。そんな場所である。その場所こそ、彼女の正位置であった。
すべての情報をインターネットを通じて得るこのご時世に真っ向からは向かうその姿勢は、さながらペンで戦うどこかの物語のようである。そこに僕はせこせここそこそと彼女の書いた魂のともる新聞を貼り出していた。その様子を見て彼女は、「うんうん。これこれ。」と深い満足を得ていたようだった。
その新聞を僕はほどなくして彼女が次の新聞の作成に取り掛かろうとしたときに、彼女に見つからないうちに回収している。長いこと貼り出されたそれは、今は人通りが少なくなったとはいえ、数多の人に見つかることは間違いがない。ましてはここは帝鳳の中でも多くの学部が集まる白峰沢キャンパス。またおてんば娘が何かやってるわ、と目の矢じりを受ければ、僕の心も血を流さんが如く。違うんだ、と声を出すのもまた彼女の機嫌を損ねては数奇の目線もたちまち僕に注がれることになるため、涙を呑んで受け入れている。四面楚歌よりも、一面逃げ道を取っておけば、何かあったときに駆けこめる。そんな心の防波堤。
新聞を回収したのちには、置き場のない僕の家の量、その押入れに段ボールに詰められている。たかだか一年程度のものでも、毎度毎度何かあるたびに珍妙な文章を書いていれば、そこそこな量になってきており、1つと半分ほどの段ボールを埋めてきていた。僕と彼女の生きた証と捉えれば、随分感傷的になってしまったものだと自分を諫める。
箱の中の彼女に花を手向ける際に、ふと親族の表情が気になった。彼女の過去親しかったと思われる友人らが大粒の涙を流しているというのに、自分がこの場所で嗚咽の一つも吐かないのは正しい行為ではないように感じていたためである。
しかし、後ろを振り返れば、そこには眉一つ動かすことのない棒人間のような肉塊が並んでいた。喪服に体を包んではいるものの、すらりと横一列に並んだその影は、表情一つ動かすことがなく、ただ時間が過ぎることを待つさざれ石のようであった。感情というものをごっそりとおいてきてしまったような不快感を、彼女が運ばれるその時まで呑み込むことに必死であった。その足で帰路についたが、当時何を考えていたのかはなにも思い出せない。おそらく、この先も思い出すことはないのだろう。ということは、あまりいい感情ではなかったことは確かなようだ。
葬儀の日から一日置いて、昼食時。新聞部のあるB棟3階のB307号室に顔を出してみた時、彼女を喪失した実感がふつふつと湧いてきた。彼女がいなくなった日。その日から空いた部室は、とても静かで寒かった。彼女の温度を運ぶ空気も、声を響かせる光も何もかも失ってしまったように見えたためである。スライド式のドアを左に流せば、「よお、少年。」と資格に並べられた机にうつぶせになりながらだらんと日の光に当たる彼女がちらりを思い浮かぶ。一度瞬きすれば、彼女が瞼の裏に現れる。しかしもう一度目を開いた時には、その影はもうどこにもありはしない。
我ながらどこまで図々しいのだろうか、と呆れながらドアを閉めようとしたとき、そこに彼はいた。白いごつごつとした岩肌を思わせるガサツな白髭を携え、黒色の太縁の眼鏡を鼻にかけ、袈裟を身に纏った仙人のような男。
そのような身に覚えのない人間が、僕と彼女のいた空間にひっそりと侵入し、四つ角の席の左端の席にドスンと身を預けていた。その姿、立ち振る舞いはふてぶてしくも貫禄があることを認めざるを得なかった。
「おおい、おおい。悩めるそこに若人。ちょっと話を聞いてみないかね。」
間違いない、不審者である。僕は聞こえなかった振りをして教室のドアを閉じた。
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