kokoroの音

西しまこ

1.四月のため息

第1話 深優。そして、中学入学

 身体が浮いた。


 ――一瞬だった。


 多くの人が行き交う中、彼女だけ人混みからするりと抜け出て、冷たい二本の金属の上に落下していく。

 鉄の車体が目の前に迫る。

 どうすることも出来ずに、彼女はそれを見ていた。


 列車の車輪が軋む音。激しい衝撃。人々の悲鳴。叫び声。大変だ! 線路に人が落ちたぞ!


 既に痛みは感じない。ただ、意識が急速に閉じていくのが分かるだけ。

 彼女を構成していた電気信号が暗いところに吸い込まれていく。

(どうして、こんなことに)

 絶望が襲いかかった――暗転。


 涙が、目に滲んだ。



 ***



 山口深優みうは教室の一番後ろの席で、じっとしていた。


 四月初旬。

 中学には入学したばかり。

 真新しい制服、真新しい鞄。

 知らない顔ばかりのクラスメイト。


 既にグループらしきものは出来ていて、深優はその中に入れないでいた。

 深優はもともと大人しい性格で、自分から積極的に誰かに話しかけることが苦手だった。それでも小学校のときには親友と呼べる友だちがいて、学校生活も楽しかった。

 しかし、その友だち――谷津梨菜りなとは別のクラスになってしまった。

 それに、小学校は三クラスしかなかったのに、中学校は六クラスもあり、その人数の多さが深優を圧倒した。同じ制服を着た人たちがいっぱいいて、先生たちも小学校のときのように気軽に話しかけられる感じではなかった。


「山口さん、自己紹介の紙、ちゃんと書いて出してください」

 朝のホームルームのときに担任の北島先生に言われ、深優は「はい」と返事をした。

「返事が聞こえない! もっと大きな声で!」

 深優は再度「はい」と言った。

「……次からはもっと分かるように返事をするように」

 北島先生は不満気に言い、それから次の話題に移った。


 担任の北島先生は、四十代半ばの体育教師だ。

 深優は北島先生の威圧的な感じがちょっと苦手だった。


 机の中から自己紹介の紙を出す。

 名前、ニックネーム、好きなこと、中学に入ったらやってみたいこと、クラスのみんなへの一言、などを書く用紙だ。書き終えたら、教室に掲示するらしい。深優の顔写真は既に印刷されていた。

 しかし、深優は名前しか書けないでいた。


(これ、すらすら書けるみんな、すごいな。……わたし、どうしよう?)


 深優は、好きなことを書いてみんなに見られるのが恥ずかしかったし、中学に入ってからやってみたいことは、何なのか、自分でも分からなかった。クラスのみんなへの一言は何を書くのが正解か、悩み過ぎて書くことが出来なかった。


(どうやって書いたらいいんだろう? まだ、みんなの顔の名前もよく分からないのに)


 深優が用紙を見つめてじっとしている間に、朝のホームルームは終わり、みな思い思いに友だちとおしゃべりを始めた。

 深優はその中に入れず、黙ったまま座っていた。

 楽し気なおしゃべりが聞こえてくる。


「ねえ、部活、どうする?」

「あたし、バレー部にしようかなって思うの。一緒にやらない?」

「じゃあ、今日、部活の見学に行こうよ!」


(そうだ。部活、どうしよう? 決めなくちゃいけないんだ)


 深優は、手をぎゅっと握った。

 マスクがずれてきたので、鼻の上までかぶるように戻した。

 眼鏡が曇らないように、マスクの鼻の辺りをぎゅっと押す。


 新型感染症のパンデミックが終わって、マスクをしなくてよくなっても、深優はマスクをしないではいられなかった。給食のときはマスクを外すが、そのことも深優にはストレスだった。給食は、席の近いもの同士机をくっつけて食べる。何を話していいのか分からないので、深優はいつも下を向いて食べていた。それでなくても、食べるのが遅いので、油断すると給食の時間が終わってしまう。

 給食の時間は苦手だった。


 周りの子のおしゃべりを聞きながら、小学校のときの親友、梨菜の顔を思い浮かべる。

(梨菜ちゃんに、部活どこに入るのか聞いてみたい)

 中学に入学して、深優は一組、梨菜は六組となり、教室の位置が離れたことで、会話する機会が減っていた。深優は他のクラスに行く勇気が持てなかったし、梨菜は自分のクラスでみんなと仲良くしているようだった。


(昼休みとか、梨菜ちゃんに会えたらいいな)



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