記録26 静寂より深く

夜が明けた。

二人は誰にも見られぬよう、まだ灯りの落ちたシェルターの路地を静かに進んでいった。

目的地は、封鎖された坑道26。

老店主から手渡された古びたアクセスキーが、ケイの胸ポケットの内側でひんやりと重さを主張している。


「……ここだな」


坑道26の入り口は、まるで使われなくなった軍施設のようだった。鉄と鉱石で固められたアーチ型のゲートに、錆びついた警告プレートが打ち込まれている。


“立入禁止区域:危険区域認定。管理コード欠損中——進入不可”


ケイが無言でアクセスキーをスロットに挿し込む。キーの形状は不規則な多面体で、クアドリス独自の立体認証方式だ。ガチャリと機構が噛み合い、ドアの内部で重いロックが一つずつ外れていく音が響く。


だが——


「重いな……」


最後の扉は、それでも動かなかった。錆びついた金属と機構の重みが圧をかけている。


「任せてください」


無機質な声と共に、アイが両手を扉にあてると、駆動音が唸りゆっくりとその分厚い扉が開かれていく。

赤い非常灯が、ぼんやりと坑道の奥を照らしていた。

押し返すような冷気が、二人を出迎える。


「……冷えるな」

「気温10度、湿度58%。ここから先、一気に温度が下がるでしょう」

「深部に地熱があるとすれば、逆にあったかくなるってわけか……」

「ええ。ただし、おそらくそこまでは4000メートルを超える必要があります」


ケイは頷き、背負った装備のベルトをきゅっと締め直す。

現在位置はシェルター坑道入り口、地下およそ2000メートル地点。ここからが本当のスタートだった。坑道の壁面には、過去に通ったであろうクアドリスの多脚の足跡が点々と残されていた。まるで無数の影が壁を這い、天井を移動していったような痕跡。


BOLRボルアを起動させると、内蔵された老店主の地図が3Dホログラムで展開される。坑道はまるでアリの巣のように入り組んでおり、分岐は多岐にわたる。


「案内は任せる」

「了解。黒蝕の影響が少ないルートを優先します」


だが、BOLRボルアがいつ黒蝕に取り込まれるか分からない。油断はできない。ケイはそれを腰のポーチに入れ、閉じたままナビだけを稼働させた。足元に薄く表示された青いラインが、行くべき道を指し示す。


静かに、そして確実に——一歩ずつ、坑道の中へと歩を進めていく。

その足取りは、重くなかった。

むしろ、軽やかだった。





地——その奥底に眠るものは、誰も知らない。


ディープホローの地底は、かつてクアドリスたちが何十年にもわたって掘り進めてきた採掘坑の集合体だった。だが今は、黒蝕によって無数の坑道が封鎖され、どこに何が眠っているかすら把握されていない。

BOLRボルアが示すルートは、坑道26の主幹路をしばらく直進し、その後、第二層通路を左に折れていく形になっていた。坑道の内部は、冷気と共にどこか“静かすぎる”感覚がある。


ケイがふと壁に手を添えると、金属と鉱石が混じった壁面が、じんわりと湿っていた。


「……空気が重い」

「環境データ表示——現在地点、酸素濃度12.4%。通常地上比で約60%。生命活動の継続には補助ボンベ必須です」


「つまり、酸素が無ければあっという間に活動限界だな」

「ええ。防護服の内圧は安定していますが、供給リザーバーの残量は常にチェックを」


「了解」

ケイは背中のタンクに手を添え、酸素の流量表示を確認する。


通路には、古びたキャタピラの跡があった。物資運搬用の無人トロッコだろう。今はもう使われていない。ときおり、天井や壁から水滴が落ち、遠くで“チャプン”と跳ねる音がする。

ケイは意図的にその音に耳を澄ました。周囲に黒蝕の気配はない。それでも、この音すら“生き物の呼吸”に感じられてくるのが、ここの空気だった。


「アイ、酸素ランタン、起動しとくか」

「了解です。補助灯起動、微酸素放出開始」


ケイが壁に手のひら大のランタンを貼りつけると、ぼうっと薄い白光が坑道の一角を照らし、霧のような酸素粒子がゆるやかに広がった。


この灯の届く範囲が、命の範囲。


BOLRボルア、現在地マーク、更新」

「完了。次のポイントまで推定距離170m。分岐は3本、右が正解です」


「……誰がこの地図を作ったんだか」

ケイが笑う。


老店主の手描きのルート、そしてジョン・ジョーの残した痕跡。それらが今、BOLRボルアに生きている。

ケイはポーチを叩いた。


「頼んだぞ、BOLRボルア

軽く光って応えてくれた。


坑道の奥へ。

音もなく、影もなく。ただ、彼らの呼吸音と、心臓の鼓動だけが、この沈黙の地下で生を刻んでいた。


そして、ついに彼らは最初の分岐路へと辿り着く。





酸素濃度――地上の7%。

ディスプレイに表示された数値を見て、アイが静かに告げる。

「……この先、酸素濃度が極端に低下します。酸素ボンベの稼働なしでは、生命維持が不可能です」


ケイは頷き、腰のバルブをひねった。

小さく「シュゥ」と音を立て、酸素循環が作動を始める。背部タンクからの供給がスーツ全体に広がり、薄く凍った内部の空気が解けていく。その温かさに反して、胸の奥では別の冷気が広がっていた。


坑道の先へと足を踏み出すと、何かの足跡のような軌跡が、砂に埋もれながらも点々と続いていた。

まだ乾ききっておらず、かすかに新しさを残している。


「……これは……」

ケイが足を止め、壁面に浮かんだ手のひらのような霞んだ跡を見つける。

黒蝕のものではない――。粒子の染みではなく、肉体を持った者が触れたような跡だった。


「動体反応、無し。生体反応も……ゼロです」

アイが即座にスキャンを行うが、何も映らない。


「……何かがいたな。ここに」

ケイは低く呟き、壁面の手形にそっと自分の手を重ねる。わずかにずれている。大きさも形も違う。だが――それは確かに、「誰かの存在」を感じさせた。


その先にも、不自然に乱れた砂塵。

乾いた鉱石の床に、何かが滑って通ったような痕跡。水滴と混ざり、輪郭はぼやけていたが、確かに――そこに「何か」が通った。


だが、この坑道は封鎖されて久しいはず。

扉は固く閉ざされ、老店主の管理キーがなければ開けることすらできなかった。


「……どういうことだ?」

ケイは低く問うたが、答えは返ってこなかった。


ただ、じりじりと這い寄ってくるような緊張感だけが、二人を包んでいた。


BOLRボルアは依然として、無言のまま、行き先を照らし続けている。

だがそのライトの先に、何が待っているのか――今はまだ、誰にもわからなかった。

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