記録03 贖罪の方程式

ルードゥスの衛星クストー、その裏側の漆黒の宙域。惑星の影が宇宙に溶け込み、光すら届かぬ静寂の中、ケイの機体アマデウスは慎重に接近していた。


光学迷彩を作動させ、レーダー反射を最小限に抑えながら暗闇を滑るように進む。星のまたたきすら届かない宙域で、ケイは慎重に座標を調整しつつ、狙いを定めたポイントへと向かう。


「ヴェルヴェット号、応答しろ。オレだ」

 通信を送ると、わずか数秒の間があってからアイが応えた。


「識別コード確認。開口します」


漆黒の闇の中に、まるで空間が裂けるように細い閃光が走った。光学迷彩が解除され、鋼鉄の巨体がゆっくりとその姿を現す。無骨な装甲に無数の傷が刻まれた旧型の中型艦、それがヴェルヴェット号だった。


アマデウスは慎重に接近し、重力フックを使ってヴェルヴェット号の下部ハッチへと吸い寄せられるように着艦する。ケイは機体を停止させ、ハッチが開くのを待った。


「おかえり、坊や」


ハッチが開いた瞬間、バードマンの乾いた声が響いた。彼は鳥人属ガルーダであり、丸いレンズのサングラスとハットを被り、カウボーイのような恰好をしていた。背中には大きな羽が折り畳まれ、時折軽く羽ばたかせる。


「おっと、またずいぶんとしけた顔してんな、坊や。銀河の闇が恋しくなったか?」

バードマンはクチバシを鳴らしながらニヤリと笑い、ケイを揶揄う。


「おっそーい!待ってたぞ!ケイ!」


バードマンの背後から小さな影が勢いよく飛び出し、床を蹴って一気に宙を舞う。金髪のツインテールがふわりと跳ね、美しい淡いピンク色の肌を持つ魚人属マーフォークの小柄な美少女、シークレット・オースティンが両手を広げながら一直線にケイへと突進してきた。


ケイは咄嗟に身を引こうとしたが間に合わず、シークレットの細い腕が彼の腰にしがみついた。


「よっし、捕まえた!」


彼女は勝ち誇ったように笑い、ケイの胸元に顔を埋めるようにすり寄る。そして、上目遣いでケイを見上げ、物言いた気に頬を膨らませて詰め寄る仕草が幼さを感じさせる一方で、しっかりとした筋肉の張りがその身体に宿っていた。


「っ、おい!」


「本当に遅いんだから!もうちょっとこっちのこと考えて動いてよね!」

「は……オレはお前の保護者じゃない」


「でもあたしはケイのこと大好きだから!」

「やれやれ……」


シークレットはあどけない笑顔を浮かべたままケイの頬を軽くつつく。そして小さな拳でケイの胸をぽすぽすと叩き、ふわりと後ろに跳ねて距離を取った。その動きは彼女の鍛え上げられた身体能力を物語っていた。


そのやり取りを奥で見ていた妖精属耳長種アールヴの老人、DDディーディーがほっほっほと微笑みながら、ゆっくりと飲み物を口に運んだ。


「若い者は元気でよろしい……」


騒がしさが船内を包む中、低く響くヒールの音が静寂を呼び戻した。赤い髪をかき上げながら、シェーネ・フラウがゆっくりと姿を現した。


「……さて、そろそろ静かにしてもらおうかしら」

一言で空気が凍る。


シークレットは不満げに唇を尖らせ、バードマンも肩をすくめ、クチバシを鳴らす。


「で、例の物は?」

シェーネは鋭い視線をケイに向ける。


「ここにある」

ケイはベルトポーチの中から、銀のケースを取り出して投げた。シェーネはそれを片手で受け止めると、慎重に開け、中身を確認する。


「……悪くない仕事ね」

「当然だ」


シェーネは薄く笑い、煙草を指先で弾いた。

「ジーク、装置のセッティングは済んだ?」


シェーネの声に応じて、奥で作業をしていた大柄な魚人属マーフォークの男が無言で頷いた。ジークフリード・マルヒム——圧倒的な体躯を持つが、実は細かい作業が得意な機関士だ。


彼は慎重に端末を操作し、装置のエネルギーフィールドを最適化する。ゴツゴツした指とは裏腹に、その動きは驚くほど繊細だった。


「完了」

低く太い声が響く。その場の誰もが彼の仕事に信頼を寄せていた。


「ジャック、コレを」

シェーネがジャックに白い粉の小袋を渡す。


ジャックは白い粉を受け取ると、黒い手袋をした手でつまんで掲げ、ライトに当ててまじまじと観察する。


彼はジャック・シャロル。齧歯類グリレス獣人属ビーストだ。かつては名のある医師だった。しかし、その裏の顔はシリアルキラーであり、マッドサイエンティストだった。常に気だるそうな態度をとるが、その瞳の奥では狂気と興味が交錯している。灰色の三つ編みヘアを揺らしながら、白衣の袖を払い、眼鏡越しに粉の成分を分析するように眺めた。その様子を見たDDが、ゆっくりと飲み物を置きながら口を開いた。


「それはただの粉じゃないぞ……昔、似たようなものを見たことがあるが、成分の一部が微妙に違うようじゃのぉ」


シェーネが微かに笑いながらたばこの火を消した。

「詳細はまだ非公開。それに、驚くのはこれからよ」


「へぇ……面白いねぇ」


ジャックは気だるそうに言いながらも、その目は異様な興味に満ちていた。灰色の三つ編みヘアの隙間から眼鏡の奥の瞳が鋭く光る。


「さ~て、どうなるかなぁ?」


装置に繋がるカプセルの中では巨大なネズミが元気よく走り回っていた。ガラスの壁に爪を立て、天井まで跳ねるように動き回る。その目には野生の本能と興奮が宿っていた。


ジャックは笑みを浮かべながら受け取った白い粉をひとつまみ投入し装置を起動した。瞬間的に光の筋がカプセルの中を走る。血飛沫が舞い、四肢が切断されたネズミが激しく悶え転がる。


「まーまー…見てなって」

彼の声にはどこか楽しげな響きが混じっていた。


腰を屈め興味深げに眼鏡の奥で瞳を輝かせながら観察する。潔癖症の彼はその際床に触れた白衣の裾を払う仕草はしたものの、それでもこの瞬間だけは興奮が勝るようだった。そして、カプセルの底から液体が流入し、投入した白い粉が溶けて悶えるネズミが水中に浮かびあがる。数秒後、その肉体はみるみるうちに再生した。


「……これは、思っていた以上ね」

シェーネは目を見開き、ほんのわずかに息を呑んだ。


その表情には驚きと興味が混ざっていた。ゆっくりと足を組み直し、微かに口角を上げる。

シェーネはそう呟き、クルー一同驚嘆した表情でそれを見つめた。


しかし、感動もつかの間。ネズミは痙攣し変質し始めた。皮膚がただれ、筋肉が膨張し、やがて断末魔の悲鳴が響く。膨張し肉塊と化し、そして爆ぜた。カプセルの中は肉片と血のりで満たされた。


「……チッ」

ケイは忌々しげに舌打ちした。


バードマンが気楽そうに肩をすくめ、ケイの背中を軽く叩いた。

「そんな顔すんなよ、坊や。お前ならこれをどうにかできるんじゃねぇの?」


シークレットも明るく笑いながらケイの肩に拳を軽く当てた。

「ほら、考えすぎない! ケイがいれば、どんな厄介なことも乗り越えられるって信じてるんだから!」


ケイはそれに何も言わずに、ただ前を見据えたまま動かなかった。しかし、シェーネはそんな彼の内心を見透かすように薄く微笑んだ。


「これは……何なんだ?」

ケイの目が険しく細められる。

かすかに手が震えていた。


彼はかつて見た光景を思い出していた。戦場の端で、あるいは研究施設の片隅で、同じような現象を目にしたことがある。人の身体が、異形へと変貌し、やがて制御を失いながら破裂する――その惨状を。あれも、こうした技術の産物だったのか?


その問いに、ジャックがククッと喉を鳴らして笑う。


「ようやく聞いたねぇ。これは万能再生幹細胞型ナノマシン、『アーク』さ」

ジャックは指先でカプセルを軽く叩きながら、口元に薄笑いを浮かべる。


「ネズミ男がネズミを殺すってのは、なんともシュールな実験だろ? だがな、K、考えてみろよ。これは戦争よりも、よっぽど人類のためになる実験じゃねぇか?」

彼の声は皮肉たっぷりだったが、どこか本気の響きを含んでいた。


「とはいえ、これはまだ『アーク』の全貌とは言えない。なにせ、オレたちが見ているのはほんの一部だ」

彼は手元のデータ端末を操作しながら続ける。


「もともとは戦場で兵士の治療を即座に行うための奇跡の技術……だが、その力はとんでもない代償を伴う。見たろ? こいつは細胞を再生させるが、抑制が効かなくなると、こうして爆発的な増殖を起こす」


DDがゆっくりと頷く。

「……ただの再生医療技術じゃない。この技術を完成させるためには、膨大な生きた生殖細胞が必要だったのじゃ。しかも、どんな種族でも構わずに。未分化の細胞ほど適していた……つまり、赤ん坊や胎児の細胞じゃよ」


その言葉に、場の空気が一瞬重くなる。


「おそらく、M110コロニーの裏では……いや、銀河の闇の奥深くでは、何万、何十万という命が“材料”として消えていったんじゃろう」

DDは静かに目を伏せたが、その声には痛みが滲んでいた。


「……最終的には封印された技術じゃ。なぜなら、開発者すら最後まで扱いきれなかったからのぉ。ナノマシン技術と再生医療の融合は夢のような技術だったが、それはあまりにも“未知”が多すぎた。制御できる者などおらんかったのじゃ」

DDは低く唸りながら、静かに肩をすくめた。


「実用化にはあまりにもリスクが大きすぎたのぉ」

シェーネが興奮したように椅子に身を乗り出した。


「でもね、それが本当に制御できるとしたら?」

シェーネは一瞬、ケイをじっと見つめた。


「ケイ、あなたのその身体……これがあなたをその鎖から解放してくれるかもしれないわ?」


ケイの指先がわずかに震えた。それを誰にも悟られないように、彼は拳を握りしめた。


(オレは……何のために生きてきた?……この身体もこの力も)


戦場で死ぬことも、生き残ることも、結局は誰かの都合だった。自由を求めても、いつも誰かの手のひらの上にいる気がする。


(オレ自身のために……?)


ケイはその言葉の意味を噛み締めながら、目の前のカプセルをじっと見つめた。


ジャックが口元に薄笑いを浮かべながら付け加えた。


「倫理なんてのは成功の後で考えるもんだ。だろ?キャプテンの言う通りさ、K。お前の身体はもう限界に近いんじゃねぇの? これはただの技術じゃない、生きるための鍵かもしれない」

彼女は微笑んだが、その笑みの奥には別の感情が隠れていた。


「無限の再生、永遠の命……この技術が完全なものになれば、戦争も病も克服できる!そして……私達の故郷の人々を救うことができるかもしれない」

シェーネの声が熱を帯びた。


彼女の瞳には夢と希望が宿っていたが、その奥底にはもっと深い何かが渦巻いていた。それを知るのは、ヴェルヴェット号のクルーだけだった。


ケイも心なしか胸の奥で燻る何かを感じた。まるで、彼女の瞳の奥で燃え盛る焔に当てられたかのように。

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