第30話
夕暮れの路地を抜けた先に、見慣れた扉が現れる。
かすかに香る、乾いた薬草の匂い。
ユリウスは立ち止まり、静かに息を吐いた。
ずいぶんと長く、この場所に帰ってこなかった気がした。
扉が、そっと開く。
「……おかえり」
柔らかな声。
そこにティナがいた。
何かを押し殺すように、けれど確かに彼を迎えるために、そこにいた。
ユリウスは一歩、また一歩と足を進める。
言葉はまだ喉を通らない。
それでも、その歩みに迷いはなかった。
「傷……ない?」
ティナの問いかけは、かすれるほど小さな音だった。
ユリウスは一瞬だけ目を伏せ、そしてゆっくりと首を横に振る。
「軽症だ」
その答えに、ティナは小さく息を吐いた。
安堵というにはあまりに慎ましやかで、それでも彼女の胸の奥に確かな緩みが広がる。
それでも、彼女はそっと顔を近づけ、静かに手を伸ばした。
白く細い指が、ユリウスの頬に触れる。
その瞬間、世界がふと、息をひそめた。
「もう……怖いこと、しないでね」
それは願いだった。祈りに近い、心の奥から紡がれた一言。
ユリウスは少しだけ目を見開き、そしてふっと笑った。
あまりに小さく、苦笑にも似た、けれど確かな笑み。
その笑顔が、ティナの胸の奥をそっとほどいた。
「しないさ。おまえがいるからな」
その言葉に、ティナの瞳がかすかに震えた。
まばたきひとつ、静かに涙が光る。
「全部終わったの?」
「あぁ。結局父に助けられたよ。」
彼の“本当の声”を、彼女はずっと待っていたのだ。
ユリウスは、ティナの手を取った。
長く血に濡れた指先が、少女の掌の温もりに触れる。
ティナは何も言わなかった。
ただその手を、静かに、指先ごと握り返す。
そして、微笑んだ。
外では風が吹き、薬草の香りを運びながらふたりを優しく包んでいた。
その夜、忘れていた静寂が、長い旅路の果てにようやく彼らのもとへ帰ってきた。
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遠くで虫の音が、静かな調べを奏でている。
薬草の家は、薄明かりに包まれていた。
ランプの灯りが壁に揺れ、温かな影を編み上げている。
ユリウスは黙って椅子に腰を下ろしていた。
大きくもなく、小さくもない木の椅子。
だが彼がそこに座ると、不思議と“ここが彼の居場所”に思えた。
ティナは手際よく薬湯を仕立てていた。
湯の中には淡い青の花弁が浮かび、蒸気とともにほんのりとした香りが立ちのぼる。
それは緊張を解き、呼吸を深くするための湯
祖母から受け継いだ知恵のひとつだった。
誰かを想う、手のぬくもりが、そこに確かにあった。
「飲んで」
そう言って差し出された湯を、ユリウスは黙って受け取った。
カップの縁から立ちのぼる香りが、まるで夢の記憶のように、彼の心をそっとなぞる。
「……昔も、こうやって湯を淹れてくれたな」
ぽつりと漏らした一言に、ティナはふっと目を細めた。
静けさが、ふたりを包む。
だがそれは重たい沈黙ではなかった。
むしろ満ちていた。
互いの息遣いや、血のめぐりまで聴こえるような、やわらかな静けさ。
ティナはそっと、ユリウスの隣に腰を下ろす。
ランプの灯が、ふたりの影を寄せ合うように揺らしていた。
どこか懐かしい夜の温もりが、ようやく彼の心を包みはじめていた。
外では、月の光が薬草を淡く照らしていた。
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