第22話
夜の帳が静かに広がる中、屋敷の片隅を駆け抜けた風に、かすかな殺気が混じっていた。
そして、次の瞬間――どこかから響く悲鳴。
ティナの声だった。
ユリウスはその声を聞いた瞬間、思考よりも先に身体が動いた。
階段を駆け下りる。
足音を殺しながら廊下の角を曲がったそのとき、剣の鍔鳴りが耳を裂いた。
――すでに、始まっていた。
ティナの部屋の前。
木の扉は内側から吹き飛ばされたように開かれ、そこにひとりの男が立っていた。
黒ずんだフードに身を包み、銀の短剣を構えたその動きに、無駄はなかった。
ティナの肩口にはすでに血の筋が走り、彼女は必死に距離を取ろうとしている。
「やめろッ!」
声が響いた瞬間、間合いを詰めた。
剣を抜く。
銀の光が、夜の闇を裂いた。
「……ばれてしまいましたか。」
その声を聞いた瞬間、胸がざわめいた。
剣を交える合間、フードの奥からのぞいた顔――
それは、忘れようもないものだった。
「……お前、……セイン」
かつて、父の側に仕えていた男。
騎士であり、護衛であり、剣を教えてくれたひとり。
その彼が、今――ティナの命を奪おうとしている。
「ユリウス様。あなたは目立ちすぎたのです」
冷ややかな声。
感情を封じた水面のような静けさが、そこにあった。
「私も、できれば……こんな仕事はしたくなかった」
「じゃあ、剣を引け」
「それは、あなたがまだ“理想”を口にできる立場にあると信じているからです」
その声には、鋭さと共に、どこか哀しさがにじんでいた。
「私が仕えているのは、グレイス家の当主様。あなたではない」
胸が焼けるように痛んだ。
あの手が、あの背中が、今は敵の姿をしている。
それでも――
「だったら、手加減はしない」
言葉と同時に踏み込む。
剣と短剣がぶつかり、火花が散る。
闇の中で光が瞬き、鋼の音が夜を切り裂いてゆく。
視界の端に映るティナの姿。
それを見るたび、俺の刃は迷わずに進んだ。
「貴様の剣は、変わらないな。かつては“剣王”と呼ばれた子。……その手で何を守るつもりだ」
「――全部だ。もう、二度と誰も奪わせはしない」
斬り結ぶたび、互いの息が荒くなってゆく。
かつての師と、生徒。
今は命を懸けて、正面から刃を交えている。
「お前のような男が……なぜ、こんな仕事を」
「ユリウス様――」
その声が、一瞬、わずかに震えた。
「あなたは優しすぎたのです。
理想だけでは世界を守れないと、私はもう知っている」
再び刃が交錯し、二人の足元が揺れる。
セインがわずかに距離を取った――その瞬間、ティナへと視線を向けた。
だが、それが致命的な隙となる。
ユリウスが一気に踏み込み、斬り下ろす。
セインの身体は、仰向けに倒れたまま動かない。
ユリウスは剣を納めず、ゆっくりと慎重に彼へ近づいた。
「……さすがですね、ユリウス様」
かすれた声。
血に濡れた口元が、微かに笑みの形をつくる。
「動くな。次は、殺す」
「構いませんよ。そもそも、生きて帰るつもりなど、ありませんでしたから」
その瞳には、覚悟が宿っていた。
かつてユリウスに剣を教えた男の目。
己の誇りを貫こうとする、哀しき誠実さが滲んでいた。
「なぜ……ティナを狙った」
「命令です。王家に連なる“影”の生存が表沙汰になるのを、当主様は恐れている。
ティナという娘は……あなたを“表”へと引き戻しかけた。
だから排除せよと。私は、ただ剣として従ったまでのこと」
「......。」
「ユリウス様。私が仕えていたのは、あくまで“お父上”だ。あなたではない。
……ですが」
セインはかすかに天を仰ぎ、ぽつりと呟く。
「あなたが生きていたことは、どこかで……嬉しかった。
剣の道を見失わずにいたあなたに、会えて……よかったとさえ、思っている」
それきり、セインは沈黙した。
やがてその胸の上下が静かに止まる。
ユリウスはただ黙って彼を見つめていた。
剣を振るうときの冷たさと、胸を刺すような痛み。
その両方が、同じ重さで、心に残った。
「……すまない」
誰に向けた言葉だったのか、自分でもわからなかった。
ユリウスは静かにその場を離れた。
夜明けの気配は、まだなかった。
窓の向こうでは、雲に滲んだ月が淡く光をたたえていた。
あの男が息を引き取ってから、どれほどの時が流れたのだろう。
ティナは、腰を下ろしていた。
手の中には、湯気の立つカップがある。
ユリウスの前にも、同じ温もりが差し出された。
暗殺者の影が去り、壊れた調合所にようやく静けさが戻っていた。
空気を満たすのは、焦げた匂いと、割れた瓶からこぼれた薬草のかすかな香り。
それらが混じり合い、ひっそりと漂っている。
ティナは、棚の下で震える自分の手を見つめ、ゆっくりと立ち上がった。
その手の震えは、ただの恐怖ではなかった。
どこか深い場所から湧き上がる感情の揺れ――
けれど、その瞳はまっすぐにユリウスを捉えていた。
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