第18話

 陽は翳り、調合所にはそっと夜の気配が忍び込んでいた。

 薬壺から立ちのぼる湯気が、ふたりのあいだの空気を、静かに撓ませている。


 その沈黙を破ったのは、不意のノックの音。

 コン、コン──独特のリズム。聞き慣れた、けれど決して油断できぬ合図だった。


「……ガイル?」


 ティナが扉を開けると、やはり彼がそこに立っていた。

 夜風を孕む黒のコートが揺れ、片手には白手袋。

 もう一方の手には、一通の封筒──それを、ひらひらと掲げて見せる。


「邪魔するぞ。ユリウスへの土産だ」


 差し出された封筒は、見たことのない深紅。

 金の封蝋には王家の紋章──しかし、それはほんのわずかに“歪んで”いた。


 ユリウスは黙ったままそれを受け取り、

 指先で封の縁をなぞると、冷たい金箔が、まるで過去の亡霊のようにざわめいた。


「……これは、正式な招待状じゃないな」


「ご名答。だが、“裏口”からの入場には、これで十分だ」

 ガイルの口元に笑みが浮かぶ。その目の奥には、深く測れぬ闇があった。


「王族主催、百花の舞踏会──仮面と絹が交差する夢の一夜。

 本来なら、選ばれた貴族しか踏み入れぬ場所だ。

 だが、王宮の内側に入りたいなら……これほど好都合な機会もないだろう?」


 その言葉には、仄かな重みが宿っていた。

 ティナは驚きのまなざしでユリウスを見上げる。


 だが、彼は答えなかった。

 封筒を握る指先にだけ、淡く力が宿ったまま、静かにそれを懐にしまい込む。


 それは、復讐か──あるいは、過去に残された何かの影か。


 ガイルはティナに視線を向け、肩をすくめて微笑み、夜の帳へと消えていった。


 残されたのは、仮面の夜への招待状と、

 それを手にした男の瞳に燃える、秘められた炎。


 ティナはそっとユリウスを見つめた。

 彼の背中は、この静かな場所にはあまりに遠く感じられて──

 けれど、手を伸ばさずにはいられないほど、美しくも、哀しかった。


 ---


 調合所の隅。普段は薬草の乾燥に使われている小さな部屋が、

 今宵はまるで夢のような空間に変わっていた。


「これ……本当に、私が着るの?」


 ティナは吊るされた深紅のドレスを見つめ、呟いた。

 柔らかな絹が、星のように微かな光を纏い、

 裾には金糸で草花の刺繍が施されている。

 それはまるで、森の奥にひっそりと咲く幻の花のようだった。


「……ガイルが手配したらしい。舞踏会にふさわしい装いを、ってな」


 ユリウスの声は低く、どこか遠いところにあった。

 ティナは彼の横顔をそっと見たが、彼は視線を合わせようとはしなかった。


「仮面は、あるの?」


「ここに」


 ユリウスが黒い箱を開けると、中には銀の仮面。

 繊細な蔦模様が流れるように彫り込まれ、月明かりに照らされて冷ややかに輝いていた。


 ティナはそっと指先を伸ばし、仮面を撫でる。

 その冷たさに、ひとつ息を呑んだ。


「……なんだか、私じゃない誰かになってしまいそう」


「身元が割れたら、大ごとになるだろう」


 その声は、まるで何かから自分を守るための壁のように、どこか突き放していた。

 ティナは言葉を探しあぐねたあと、小さく笑った。


「……ふたりで踊るなんて、想像もしてなかった。

 昔は、舞踏会なんて絵本の中だけの話だったのに」


 その言葉に、ユリウスはほんのわずか、目元を緩めた。

 けれどその奥には、拭いきれぬ影が潜んでいた。


 ──王宮。

 その響きだけで疼く記憶が、胸の奥をきつく締めつける。


 失われた家族。

 燃え落ちた屋敷。

 血に染まった夜と、母の最期の言葉。


 仮面が必要なのは、ティナではない。

 素顔のままでは、あの場所には立てない。

 憎しみも、痛みも、すべてを覆い隠して──

「ただの客人」として紛れ込むしか、術はなかった。


「……着替えてきてくれ。時間がない」


 その声には、いつもより少しだけ、硬さがあった。

 ティナは静かにうなずき、ドレスを抱きしめるようにして奥の部屋へと消えていく。


 その背に、ユリウスは何も言えなかった。


 仮面を手にしたまま、彼はただ一人、調合所に立ち尽くしていた。

 その指先には、いつの間にか強く力がこもっていた。


 ──あの夜へと再び足を踏み入れる覚悟。

 それは、彼の内なる深い震えを呼び起こしていた。

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