おわり
第32話 大団円
瞬きの後、そこに広がった光景は、茜色の空に、落ちてきそうな飛行機雲。
あたしは歩道橋の階段下で、仰向けに倒れていた。背中には、荷物が詰まってゴツゴツしたリュック。纏っているのは、県下有数の進学校の制服。左中指には、何もつけていなかった。
車道を行き交う車の、煩いほどのエンジン音。仕事や学校帰りの老若男女が、黙々と歩みを進める沢山の足音。懐かしい電子音と、便利で無機質な物質に溢れた世界に、あたしは帰って来た。でっかい失恋を一つ、古代エジプトに落っことして。
ショーパブ『Silver』に戻ると、店の中には誰もいなかった。照明は点けられたままで、ペンダントライトの暖色の輝きが、がらんとした店内を照らしている。バーカウンターには、磨き終えたカトラリーとワイングラスが、真っ白なタオルの上に整然と並んでいる。テレビは消えていた。
そうだ。あたしはカトラリーを拭いている最中に、店を出たのだ。
思い出し、テレビをつけると、あたしがタイムスリップした日時と同じ数字が、画面の右端に写し出される。
あたしにとっては何カ月も前の記憶なのに、この世界ではほんの数分前の出来事なのだと知る。
なら、これから練習が始まるのだろう。
もうすぐ、あのいけ好かない眼鏡野郎が現れるはずだ。そういえば、何て名前だったかな。忘れてしまった。それから、ドラマーの雪さんも。彼女は今日、少し遅れると言っていたか。そんなことを考えながらテレビを切って、十組に満たないテーブル席の間を抜けて、ステージに上る。
ピアノの鍵盤の蓋を空けてドの音を叩いた。温かな音色が、淋しい店内に響き渡る。
そういえば、ケメトではピアノに似た楽器に出会えなかった。ピアノがあれば、もっと音楽に迫力と深みが出せただろうに。
「でも、重すぎて持ち運びできんか」
旅の楽士に、ピアノはお荷物である。軽く笑って、鍵盤の蓋を閉じた。
今日の練習曲は何だったか。
ケメトで最初に歌った曲を思い出した。今週末に歌う予定の、新曲だ。セクシーで、パワフルで、ボンテージスタイルがぴったりの、大好きな映画の挿入歌。この曲の為にボイストレーニングに通って、がなり声の出し方を覚えた。
あたしは唇をひと舐めすると、呼吸を整え、誰もいない店内で歌い始める。目を閉じて、アテン大神殿前で熱唱したあの日の光景を思い出しながら。
第一声で足を止めた人々が、徐々にあたしの周りに集まりだした。
あたしの手拍子に併せて、観客も手拍子を始めた。
流し眼を送り、腰をくねらせれば、若者二人がニヤニヤしながら顔を見合わせて喜んだ。
レイが、しかめ面でアテン大神殿の門を力いっぱい閉めた。
楽器を鳴らしたねえや達が、左右から路上ライブに加わってきた。
最後に拳を高く突き上げると、拍手と歓声が沸き起こった。
目を開ける。
そこには、空っぽの店内が広がっていた。
砂だらけの大地も、灼熱の空気も、周りに集まってきた褐色肌の人達も、アテン大神殿も、どこにもない。
けれど、拍手だけが一人分、そこに残っていた。
驚いて振り向くと、うちの新人ピアニストが手を叩いていた。白いシャツに黒いスリムパンツ。なんとなく、見覚えがある気がする。
「やっと歌声が変わりましたね。帰ってきたんですか?」
彼は意味不明なことを言うと、黒いトートバッグをカウンター席の椅子に置いた。眼鏡を外して銀色の眼鏡ケースに入れると、それを鞄に仕舞う。
「母がイスラエル人なので、見た目はあまり変わってないと思うんですが。まあ日本人の血が混ざっている分、肌の色は若干薄くなっているかもしれませんね」
そう言いながらカウンターに入り、シンクの蛇口を捻った彼は、濡らした両手で前髪をぐっと掻き上げる。
「お久しぶりです。お帰りなさい」
栗色の髪の下から現れたその顔は、古代エジプトで砂に埋もれたあの人のものだった。ほんの少し、若返ったようにも見える。
あたしは口をパクパクさせながら、レイそっくりの新人ピアニストを指差す。
「う、うま……うま……」
「馬?」
「んなわけあるかい! 『生まれ変わり』って言いたかったの!」
あたしが怒鳴ると、そうですよ、とピアニストは頷いた。
「私だけじゃないはずですが。まだ気付きませんか?」
その時、店の奥から銀子の声がする。
「ねえ蜜ぅ。コンビニでラムネ買ってきてくれたぁ? あたし、頼むの忘れちゃってさー」
銀子はラムネ菓子が好物なのだ。
「ティイ?」
スタッフルームから現れた銀子の姿と、ティイの姿が重なる。
「あら
エキゾチックな古代エジプト人女性の影を背負った銀子が、あたし達の様子を見て首を傾げる。
れい。名前まで同じかよ。
そこからはあたしの頭の中で、現代の知人とケメトの顔ぶれが、トランプの絵柄が合わさるように、次々と合致していく。
坐骨神経痛でショーパブのピアニストを降板し、代わりに怜を連れてきた松岡さんは、シトレ。ドラマーの雪さんは、ヘンティだ。
マヌ。マヌは?
「あ」
銀子の彼氏の、タイ人形成外科医。確か、名前はマヌカムだ。
「何であいつだけタイ人やってんだよ」
しかしそうか。ティイとマヌは仲が良かった。ティイの生まれ変わりである銀子の性転換手術を手助けする為に、マヌがタイに生まれ形成外科医になったんなら、納得できなくもない。のかも、しれない。
あたしはステージを下りると、怜に歩み寄る。彼の正面に立つと、身長差まで見事に再現されている事が分った。
「なんで、あんたは変わってないの?」
前世と瓜二つの顔に手を伸ばし、訊ねる。彼の頬の柔らかさは、最後に触れた時と同じだ。
「左手首から下を無くした女性が、あの世で力を貸してくれました。あなたへのお礼と、お詫びだと」
そうか。メセティさんが。
あたしは、笑いが込み上げてくるのを止められなかった。なにせ、とんだボランティアだと思っていたのだ。それが、こんな大ボーナス付きの報酬を貰えるとは。
あたしは怜に質問する。
「今回もバツイチですか?」
「未婚です。二十二の学生ですし」
「恋人はいますか?」
「今はいませんが……中学高校で、一人ずつ」
「ノー・プロブレム!」
飛び上がったあたしは、怜の首にしがみつく。バルの香りもヨモギの香りもしなかったが、洗濯石鹸の香りが、鼻をくすぐってきた。
おおっ、と銀子の驚いた声が聞こえる。
ミツ、と怜があたしの名前を耳元で呼んだ。
生まれ変わっても色気のあるいい声してんなちくしょー!
電気刺激みたいな快感が体中を駆け廻る。身震いしたあたしは、更に強く怜を抱きしめて、歓喜の叫び声を上げた。
「大団円やーん!」
~完~
ネフェル・シュマトは歌う みかみ @mikamisan
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