夜明けに希望の茶を

kou

狙われた茶畑と、老人の涙

 土の匂いが、肺を満たす。

 都市の喧騒が嘘のように遠のく、広大な《実り農園》。

 地平線まで続くかのようなうねには、季節の野菜たちが太陽の光をいっぱいに浴びて、生命力に満ちた緑の葉を揺らしている。

 それは少年にとって、生まれた時から呼吸してきた空気そのものだった。

 顔の輪郭は丸く、顎が尖っていないため幼く見えるかもしれないが、しっかりと腰の座った目つきをしている。それは、どこか愛敬のある表情をしていた。

 また、小柄で、ほっそりとした体型だが、しっかりと筋肉がついていることが服の上からでも分かる。

 髪の毛はやや長めであり、前髪も目に被るくらい長い。

 しかし、それを後ろに流しているため、爽やかな印象を受ける。頭には黒いバンダナを折り鉢巻状にして巻いている。ファッションというよりも、髪をまとめたくてしているのが感じられる。

 名前を、さかき拓真たくまと言った。

 高校の制服から作業着に着替えた拓真は、黙々と土にくわを入れていた。

 しなやかな筋肉が浮き出た腕、額に滲む汗。

 学校では物静かで平凡な彼だが、この農園では、土と語り合う若き担い手としての顔を持つ。

 その日の作業を終え、夕暮れが迫る道を自転車で走っていた拓真は、ふと足を止めた。

 道の脇に佇む、古風な門構えの家。

 そこは、幼い頃から何かと気にかけてくれ、美味しいお茶をご馳走してくれた田中清地さんの家だった。清地は、この辺りでは珍しくなった茶葉を、先祖代々の小さな畑で丁寧に育てている。

 市場に出回る量は少ないが、茶葉の一部を紅茶にして販売も行っている。

 緑茶と紅茶は、別物だと思われるが、実はどちらもチャノキの葉から作られ、製法の違いにより、発酵の有無で区別される。

 緑茶は発酵させずに、茶葉を加熱して発酵を止めるのに対し、紅茶は茶葉を発酵させて、色や香りを変化させる。

 清地の作る紅茶は、その深く、それでいて澄んだ味わいは、知る人ぞ知る逸品だった。

「田中のじいちゃん、いるかな」

 軽い気持ちで門をくぐり、声をかける。

 いつもなら、「おお、拓真か!よく来たな!」と、日焼けした顔にしわを寄せて笑う声がすぐに返ってくるはずだった。

 しかし、今日は妙に静かだ。

 不安を覚えながら玄関の引き戸を開けると、薄暗い居間に、清地が力なく座り込んでいるのが見えた。

「じいちゃん? どうかしたの?」

 拓真の声に、清地はゆっくりと顔を上げた。その顔色は土気色で、いつもは優しく細められる目には、深い絶望の色が淀んでいた。まるで、大切に育ててきた茶の木が、根こそぎ枯れてしまったかのような、生気のない表情だった。

「……拓真か……」

 か細い声が、空気を震わせる。

「まあ、あがりなさい。お茶でも……いや、もう、わしには、あの茶を淹れる資格なんぞ、ないのかもしれん……」

 ただならぬ様子に、拓真は黙って上がり込み、清地の向かいに腰を下ろした。

 部屋には、いつもなら漂っているはずの、清々しい茶葉の香りが全く感じられなかった。

 重苦しい沈黙が続く。

 やがて、田中さんはぽつり、ぽつりと語り始めた。

 それは、あまりにも卑劣で、そして悲しい物語だった。

「……ワシは、馬鹿じゃった」

 清地の肩が、小さく震える。

「最近な、若い衆が来てくれてたんだ。『田中さんの作るお茶は素晴らしい。もっと多くの人に知ってもらうべきだ』と。販路を広げるとか、観光農園にするとか、夢みたいな話ば

で……」

 それは、不動産会社『ロック・エステート』の社長、黒岩剛三が仕掛けた罠だった。

 部下を「地域活性化の専門家」と偽って送り込み、清地の人の良さと、長年抱いていた「自分の茶葉を多くの人に味わってもらいたい」という純粋な願いにつけ込んだのだ。

「山のようにな、書類を持ってきたんだ。『補助金の申請だ』『計画の承認だ』って。ワシには難しくてな、よく分からんかったが、あの若い衆が『大丈夫です、悪いようにはしませんから』って言うもんだから……信用しちまったんだ……」

 黒岩の部下は、清地の信頼を巧みに利用した。

 大量のダミー書類の中に、巧妙に紛れ込ませた土地の権利譲渡契約書。

 小さな文字で書かれた、極めて不利な条件。

 清地は、「手続きだから」「締め切りが近いから」と急かされ、内容をろくに確認もせず、言われるがままに、その全ての書類に判を押してしまった。

 先祖から受け継ぎ、我が子のように慈しんできた、あの緑輝く茶畑の権利書まで、「手続きに必要だから」と、あっさりと手渡してしまったのだという。

「昨日な、その若い衆が来て、『契約通り、この土地は我々のものになりましたので、早々に立ち退いていただきたい』って……。初めて、騙されたって分かったんだ……。あの畑は……ワシの、命そのものだったのに……」

 清地の目から、大粒の涙がとめどなく溢れ、深く刻まれたしわを伝って落ちた。それは、乾いた土に吸い込まれる雨粒のように、ただただ虚しく、床の畳に染みを作っていく。老人の嗚咽が、静かな部屋に痛々しく響いた。

 拓真は、握りしめた拳が白くなるのを感じていた。

 清地の涙、その絶望。

 そして何より、人の善意と夢を踏みにじった黒岩剛三という男への静かな、マグマのように熱い怒りが、腹の底から込み上げてくる。普段の穏やかな表情は消え、彼の瞳の奥に、鋭い光が宿り始めていた。

「……じいちゃん」

 拓真は、努めて落ち着いた声で言った。

「大丈夫。諦めるのはまだ早いよ」

 その声には、不思議な力がこもっていた。清地は、涙に濡れた顔を上げ、すがるように拓真を見つめる。

 拓真は静かに立ち上がると、深々と頭を下げて清地の家を後にした。

 夕闇が急速に辺りを包み込み始めている。

 家路を急ぐ人々の流れに逆らうように、拓真は自転車のペダルを強く踏み込んだ。向かう先は、実り農園ではない。

 夜の闇に紛れ、為すべきことを為すための、秘密の場所へ。

 黒岩剛三。

 その名を、拓真は決して忘れなかった。

 奪われたのは、一枚の紙切れではない。

 それは、一人の老人が人生をかけて育んできた誇りと、ささやかな希望そのものなのだ。

「木鼠小僧長吉、今宵、参上仕る――」

 夕闇に溶けるように、拓真の呟きが風に流れた。

 彼の背中には、沈みゆく太陽の最後の赤い光が、まるで決意の炎のように映し出されていた。

(続く)

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