2.1.1 越境
報道映像としてのみ見てきた光景が、今、無音の眼前に広がっていた。タスマニア条約記念館。東京自由市の象徴とも言えるその白亜の建物は、その側面を無残に抉られ、黒い煤と爆風の傷跡を痛々しく晒している。まだ細く立ち上る煙が、夕暮れ前の空に不吉な線を描いていた。
「テロに屈するな! 条約更新断行!」
「米中の傀儡、総裁政府打倒! 主権を我らに!」
建物の前では、対立する二つのデモ隊が互いに怒声を浴びせかけ、その周囲を無数のメディアが取り囲んで、興奮気味に実況しながら全世界に配信した。デモの構成員の大半は当然、15年前には戦争で第一線にいた兵士たちであり、また身体拡張技術の成果物を誇示する者も少なくない。その喧騒は第三次世界大戦の、継続のように見えなくもない。
報道ヘリのローター音、鳴り止まないサイレン、人々のざわめき。全ての音が混然一体となり、巨大な不協和音となって無音の耳に届く。
「帰りたい」
無音は、その熱狂の渦をゼロ課の用意した特殊工作用車両の傍から見ていた。まるでノイズの多い、出来の悪いホログラム映像を見ているかのように、何の現実感もなかった。
「レッツ・ゴー!」
無音がふわふわと浮かびながら喧騒を眺め、密花が車両表面を鏡面代わりにネクタイを締め直していると、有朱が駆け出した。無音と密花は仕方なくついていく。無音は「ちょっと! 走らない!」という、八坂の遠い声を聞いた。学校の先生かよ、と無音は思った。
騒がしい正面とは対照的に、規制線が厳重に張られた裏手の搬入口は、比較的静かだった。そこで、場違いな三人の少女は再び集合した。無音は僅かに後ろに倒れるようにして地面から数センチ浮きながら空を見ていた。密花は周囲の情報をスキャンするかのように鋭い視線を飛ばし続けている。有朱は、スナック菓子をぽりぽりと食べながら、袋の中身の残量確認に忙しい。この三人でここにいることの奇妙さを、無音は改めて感じていた。
三人が搬入口から現場へ入ろうとすると、規制線の前に立っていた若い制服統制官が、慌てて駆け寄ってきた。その真面目そうな顔には、職務への忠実さと、混乱が浮かんでいる。
「ちょ、ちょっと待って! 君たち! 関係者以外は立ち入り禁止だ! それも遥か手前で、だ!」
無音は、その言葉を意に介さず、飄々とした様子で言った。
「帰りたかった。ちょうどいい」
「そうね。無駄足だったみたい。帰りましょう。じゃあこの案件も終わりってことで」
密花も冷たく同意する。
「えー、爆心地、見たかったのになあ。有朱の爆弾コレクションの参考にしようと思ったのにい」
有朱が、残念そうにお菓子の袋を振った。
若い統制官は、明らかに苛立った表情で声を荒らげる。
「こら! ふざけてるのか!? 君たち、一体何なんだ!? 少年探偵団か何かか!?」
その時だった。
「あら、随分とにぎわってるじゃない」
気だるげな声と共に、レザージャケットを羽織った八坂が、煙草をふかしながら現れた。彼女の姿を認めた瞬間、若い統制官の顔がこわばり、その態度は露骨に変化する。
「や、八坂さん! ご苦労様です! しかし、いかに八坂さんといえど、ここは……通せないものは通せませんよ!」
「私でも駄目なの? この煙草をあげると言っても?」
煙草を持った手で八坂は青年の顔の前に円を描いた。
「い、いやあ、まだちょっと賄賂としては弱いかなあ。一日デートとか、ないんスか? そしたらこんな仕事今すぐ放棄しますよ」
密花が、その様子を見て、小さく吐き捨てるように言った。
「大人って不潔だわ」
無音も、八坂を一瞥し、ぼそりと呟く。
「サイボーグのくせに」
「ミュータントに言われたくないわね」
吸いかけの煙草以外は全く提供するつもりのなさそうな八坂は、紫煙を吐き出しながら、無音を見て口の端を上げた。
「有朱たち、ミュータントタートルズだよお」
有朱が、目を輝かせて叫んだ。
その奇妙なやり取りの最中、規制線の内側から、現場責任者と思われる恰幅のいい制服統制官が、顔面蒼白で駆け寄ってきた。
「馬鹿者!」
彼は部下の肩を掴み、必死の形相で叫んだ。
「早く通せ! 上からの指示だ!」
若い警官は、さらに混乱する。
「上? まさか、内務市民委員から直接――?」
「もっと上だ、もっと!」
「第三総裁、いや第二総裁?」
「もっと――!」
現場責任者は、周囲を憚るように声を潜め、大量の呼気の中に言葉を隠した。恐怖の色が、確かに滲んでいた。
若い統制官は、信じられないという顔で立ち尽くす。八坂は「ほら、行くわよ」と顎で示し、先導するように悠然と規制線をくぐった。有朱と密花も、それに続く。無音は、ふわりとその後を追った。「もっと上」。その言葉が、掴みどころのない絶対的な存在の気配を思い出させる。太陽光市場を創設し、新しい金融ゲームのプラットフォームそのものを支配する超富裕層。太陽光の分配を司る者たち。ゆえに、「太陽の所有者」。彼らの関心が税金だけであるはずがない。むしろ、きっと、そう、ここより完璧に倫理を喪失し、科学的実験の自由な空間が、地球上にはないのだろう。ああ、クソが、面倒だ。心からそう思うが、もう後戻りはできないことも、なんとなく理解していた。
一歩、規制線の向こう側へ足を踏み入れる。
タスマニア条約記念館の、中へ――。
そこは、混沌の中心だった。黒く焼け焦げた壁、そしてまだ消えない異臭。 無音は、自分が今、本当に事件の真ん中に立ったことを、肌で感じた。
「僅かに硫黄臭があるわね」と密花。
「髪の毛とか爪が燃えた香りだねえ」と有朱。
無音は「帰りたい」と呟こうとしたが、こちらをニヤケ顔で眺める八坂に気づいたので、別のことを言った。
「なに、八坂」
「『帰りたい』っていつ言うかなあと思って」
「ゼロ課アセンブラ班長の秘密を、教える」
「なに?」と八坂が無音の口元へ顔を近づける。
「わたしは、帰りたいって、小さな声で絶えず呟いている」
気持ち悪いわねえ、あんた、という八坂の声が爆発の衝撃波と熱波で空っぽのレセプション会場で反響した。
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