012.「覆される日常」





 気まずい沈黙のまま夜は更けた。

 それでも、翌朝には、何事もなかったかのように訓練が始まった。


 

 走り慣れた訓練場。

 汗ばむジャージ。


 いつもの掛け声、いつもの手順。



 トラフィムもショウも、何とか平静を装って訓練をこなしていた。


 昨日の出来事がまるで夢だったかのように、日常は容赦なく彼らを引き戻していく。




 ――だが。


 昼前、訓練中の彼らのもとに、呼び出しがかかった。




「アヴェリン、マルカヴィッチ。本部からだ。……すぐに来い」



 教官が差し出した封筒には、堅苦しい文面の召集令状が収められていた。





「……本部から?」


 


 ふたりは目を合わせる。

 口には出さなかったが、察していた。


 ――あの夜の、続きだ。


 




 


 人民警察本部。


 


 重たい空気が支配する会議室の一角に、ふたりは並んで座っていた。

 向かいにいるのは、昨日現場でも見かけた二課の部隊員たち。


 そして、その隣には――ブリンニコフ司令官の姿もあった。



 着席を促されソファに座るや否や、目の前に分厚いファイルが置かれる。



「……今回の件について、改めて状況を整理する」



 司令官の静かな声が、空気を引き締めた。




 ふたりは、逃した犯人の正体。

 トラフィムとの因縁。


 そして――これから直面することになる現実を、まだ知らないまま座っていた。


 





「確認する。君が現場で遭遇したのは――“ヴァシリー・マルカヴィッチ”で間違いないか?」


 


 ファイルの一枚をめくりながら、中央に座るブリンニコフ司令官が問いかける。



 その名を聞いた瞬間、トラフィムの肩がわずかに揺れた。

 だが、目を逸らすことなく、彼は静かに頷く。




「……はい。間違いありません」



 数名の幹部が目配せを交わす。厚く閉じられた扉の向こう、室内は水を打ったように静かだった。



 ショウが横目でちらりとトラフィムを見た。

 手は膝の上で固く組まれ、力がこもりすぎて関節が白くなっている。

 それでも、彼は唇をかみしめながら、じっと耐えていた。


 


「ヴァシリー・マルカヴィッチ。かつて国境警備総局から数度の出頭命令を受けながら、以後消息不明。……現時点で、第二課が追っている反政府系犯罪組織『スヴェトカ』の幹部格にあたる」


 


 淡々と読み上げる幹部の声が、ひどく冷たく聞こえた。



 ショウは、拳を握ったまま黙っていた。


 あの夜の笑顔、ふざけたような口調、殺意と愉悦を同時に含んだ眼差し――


 あれが、トラフィムの“家族”だった男だという事実が、今なお信じがたかった。




「君たちの報告、そしてその場にいた複数の目撃証言から見て、本人である可能性は非常に高い」



 ブリンニコフ司令官が、ひと息おいてから続ける。



「……現在、第二捜査課では“スヴェトカ”の内部工作を進めており、複数の関連人物を追跡中だ。その中にヴァシリーが含まれていたことは、極秘情報とされていた」



 ブリンニコフの声は淡々としていたが、その奥に沈む重さは隠しきれなかった。

 事実だけを告げる調子のはずなのに、ひとつひとつの語尾に苦味が滲む。



「だが……研修生である君たちが現場に出たことで、“彼”にトラフィム・マルカヴィッチの存在が、知られてしまった」



 机の上に落とされた視線の先、書類がぴたりと止まる。

 言外に、事態の深刻さと不可逆性を突きつけるような声音だった。


 


 トラフィムは何も言わなかった。

 俯いたまま、小さく息を呑んだだけだった。


 誰のせいでもない――そう言いたいのに、それが一番難しいのが本人だということを、ショウは知っていた。




「本人は明言していたようだな。――“次に会った時には、必ず殺す”と」


 


 室内の温度が、ひやりと下がる。


 


「本来であれば、候補生にこれ以上関わらせることは考えられない。……だが」


 

 ブリンニコフがファイルを閉じた。



「彼は“君たち”を見て逃げた。アヴェリン、君の対応は冷静で的確だった。マルカヴィッチ、君は……踏みとどまった。誤射も暴走もなかった」




 しばしの沈黙のあと、彼はふたりを見た。



「よって、上層部は“訓練生に特例の連携”を認めた。……君たちに、第二捜査課、ならびに犬班との限定的な連携任務を提案する」


 


 


 思わず、トラフィムが顔を上げた。


 


「……訓練生の俺たちが、直接捜査に?」


「同行、情報提供、補佐。その範囲に限る。“戦力”ではなく“鍵”としての立場になる」


「鍵……」


「この件を追うには、君たちの存在が――否応なく、巻き込まれてしまっている以上、もはや必要だと判断された」

 


 不意に、ショウの肩が小さく揺れた。


 


 彼の目はまっすぐ司令官を見据えていた。




「……やらせてください。俺は、トラフィムを……ひとりで背負わせたくない」

 


 その一言に、トラフィムが横目で彼を見た。


 視線が交差する。



 何も言えなかった。でも――言う必要なんてなかった。



 ふたりに課せられた、特別な連携任務。

 それは、正規の訓練課程とは別に設定された、極めて異例の措置だった。


 だが、それは間違いなく。

 彼らが再び、“あの男”に辿り着くための道標だった。


 


 







 本部での事情聴取が終わった後、ふたりはしばらく別室で待機を命じられていた。


 堅苦しい空気に晒され続けたせいか、ふたりともやや疲弊した顔をしていたが、それでも無言で椅子に座り、呼び出しを待っていた。




「……マルカヴィッチ、アヴェリン。ついてこい」




 声をかけたのは、先ほどとは別の教官だった。

 鋭い目つきに、飾り気のない黒い制服。見たところ階級は中尉クラス。


 ふたりは立ち上がり、黙ってその後に続く。


 


 コンクリート剥き出しの無機質な廊下を進みながら、ふとショウが小声で呟いた。


 


「……どこに行くんだろうな?」


「さあな。研修生に教えられる範囲じゃねえ、って顔だろ、あれ」



 トラフィムも肩をすくめて答える。




 案内された先は、普段彼らが使う訓練棟でも、通常の本部棟でもない。

 本部裏手、警備が厳重に敷かれた一角――


 そこに、ひっそりと存在する独立した建物だった。




 玄関には、何の標識もない。

 ただ、鋼鉄の扉と、無骨なインターホンがあるだけ。





 教官は無言でインターホンを押した。



 短く電子音が鳴る。

 そして、数秒後。


 ――ギイ、と、重たく扉が開いた。


 


 


「よう、客人とは珍しいじゃないか」


 


 ふざけたような、どこか間延びした声。

 姿を現したのは、傷の癒えきっていない片足を引きずった男だった。



 ――以前、現場で一緒だった負傷隊員だ。


 


「……あんたは……」


 


 思わずトラフィムが声を漏らす。

 相手もすぐに気づいたらしく、口元をにやりと歪めた。



「おう、久しぶり、坊主。……生きてて何よりだ」



 軽い調子で言うが、その目は一瞬だけ本当に安堵している色を滲ませた。




 続いて、背後からもうひとり。

 俊敏な動きで出てきたのは、あの時、訓練生である自分たちを庇いながらも、共に逃走犯を追い詰めた若い隊員だった。



「……二人とも、ちゃんと来たんだな」


 


 静かで落ち着いた声。

 その目は鋭く、しかし敵意はない。

 彼は、ふたりに軽く頭を下げた。


 ふたりの名を、教官が紹介する。



「左側――足を怪我してる方が“ミハイル・オルロフ”軍曹。

 右側――追撃担当してた方が“レオニード・クラヴツォフ”伍長。」



「二人とも、正式な所属は記録にない。……“犬班”の隊員だ」


「犬……?」



 ショウとトラフィムは顔を見合わせた。

 聞いたことのない部隊名だ。



 ミハイルはちらりと二人を見やると、片手で軽く扉の奥を示した。


 


「中で話そうぜ。……立ち話にしちゃ、重すぎる内容だ」


 


 案内された先は、小ぢんまりとした応接室だった。 無骨なソファと簡素なテーブル。必要最低限の設え。

 それでも、きちんと整えられた空間には、妙な緊張感が漂っていた。



「まあ、座れよ。そんなにビビらなくていいって」



 ラフな調子で促され、ショウとトラフィムはぎこちなくソファに腰を下ろした。


 ミハイルは背もたれに体を預けると、ポケットから取り出した煙草を弄ぶ。

 ふと、室内に漂う無言の気配を感じ取ったのか、軽く首を回して一言。



「……おいおい、肩の力抜けよ。誰も噛みつきやしねえって」



 冗談めかした言葉に、ショウもトラフィムもわずかに肩の力を緩める。


 だが、それでも――緊張は、そう簡単に拭えなかった。


 


 ミハイルはちらとレオニードと視線を交わす。

 レオニードは頷くだけで何も言わない。


 やがて、ミハイルがラフな口調で口を開いた。





「さて。……犬班、っつう名前、聞いたことねえよな?」



 問いかけに、ショウとトラフィムは、ほぼ同時に小さく首を振った。


 その反応に、ミハイルはふっと笑う。



「まあ、そりゃそうだ。俺たち“犬班”はな……正式には“特殊任務隊”って言う、民警内でも非公開扱いの部隊だ」





 指先でテーブルをコツリと叩く音が、やけに耳に残る。



「存在が知られてないってだけじゃねぇ。任務内容も、出動記録も、すべて秘匿対象。……表向きには、存在すらしてねえ」


 


 


 ショウは静かに息を呑んだ。

 トラフィムもまた、無言でミハイルを見つめ返している。


 ミハイルは、そんなふたりの反応を見ても、気にした様子はなかった。

 むしろ、どこか淡々と続けた。






「俺たちの仕事は――表沙汰にできねえ案件の後始末だ」




 低く、静かな声だった。




「組織絡みの汚職、国家レベルの秘密、反逆者の掃討、裏ルートの制圧……。時には、民警そのものの膿を摘み取ることもある」




 言葉の端々に滲む、皮肉と諦念。

 室内の空気が、じわじわと重くなる。




「今回もそうだ。ヴェストカ――つまりヴァシリーがいる組織だな。……あいつらみてえな、“表立って処理できねえ組織犯罪”も、俺たちの仕事だ」





 ショウは拳を握った。

 トラフィムは、俯いたまま、じっとテーブルの傷跡を見つめていた。


 ミハイルは一拍置いて、話を締めくくった。





「――要するに。正規の課じゃ対処しきれねえ汚れ仕事を、全部引き受ける。それが“犬班”ってわけだ」


 


 


 ぴたりと、静寂が落ちた。

 ただ、硬質な空気だけが、重く、室内に沈殿している。


 ショウはそっと視線を巡らせた。

 ミハイルも、レオニードも、穏やかな顔をしているが、その裏には――覚悟と、冷徹な現実が透けて見えた。


 ふと、レオニードが低く口を開いた。



「――それでも。俺たちは、おまえらを、巻き込むつもりはない」



 静かな、けれど強い声音だった。



「だが……トラフィム。おまえが奴に狙われた以上、もう無関係ではいられない」



 正直な言葉だった。

 言い訳も、慰めもない。ただ、現実だけを、まっすぐ突きつける声。

 

 トラフィムは唇をかみしめたまま、何も返さなかった。

 そして、そっと俯く。


 ショウは、その肩を一度だけ見て、それからミハイルたちに向き直った。


 


「……それで、俺たちにできることは?」



 問いかける声は、澄んでいた。

 迷いはなかった。


 ミハイルは、ふっと目を細め、笑った。



「いい面構えだな、アヴェリン」




 そして、立ち上がった。


 窓の外――暗く沈んだ本部裏手の景色を見ながら、ひとつだけ、言葉を落とした。



 


「――これから一緒に地獄を覗くぜ、坊主ども」



 その声は、どこか愉快そうで――同時に、抗いようのない覚悟を帯びていた。


 廃れた犬舎のようなこの建物の中。

 今、ふたりは確かに――民警の“裏側”に、足を踏み入れたのだった。

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