012.「覆される日常」
気まずい沈黙のまま夜は更けた。
それでも、翌朝には、何事もなかったかのように訓練が始まった。
走り慣れた訓練場。
汗ばむジャージ。
いつもの掛け声、いつもの手順。
トラフィムもショウも、何とか平静を装って訓練をこなしていた。
昨日の出来事がまるで夢だったかのように、日常は容赦なく彼らを引き戻していく。
――だが。
昼前、訓練中の彼らのもとに、呼び出しがかかった。
「アヴェリン、マルカヴィッチ。本部からだ。……すぐに来い」
教官が差し出した封筒には、堅苦しい文面の召集令状が収められていた。
「……本部から?」
ふたりは目を合わせる。
口には出さなかったが、察していた。
――あの夜の、続きだ。
*
人民警察本部。
重たい空気が支配する会議室の一角に、ふたりは並んで座っていた。
向かいにいるのは、昨日現場でも見かけた二課の部隊員たち。
そして、その隣には――ブリンニコフ司令官の姿もあった。
着席を促されソファに座るや否や、目の前に分厚いファイルが置かれる。
「……今回の件について、改めて状況を整理する」
司令官の静かな声が、空気を引き締めた。
ふたりは、逃した犯人の正体。
トラフィムとの因縁。
そして――これから直面することになる現実を、まだ知らないまま座っていた。
*
「確認する。君が現場で遭遇したのは――“ヴァシリー・マルカヴィッチ”で間違いないか?」
ファイルの一枚をめくりながら、中央に座るブリンニコフ司令官が問いかける。
その名を聞いた瞬間、トラフィムの肩がわずかに揺れた。
だが、目を逸らすことなく、彼は静かに頷く。
「……はい。間違いありません」
数名の幹部が目配せを交わす。厚く閉じられた扉の向こう、室内は水を打ったように静かだった。
ショウが横目でちらりとトラフィムを見た。
手は膝の上で固く組まれ、力がこもりすぎて関節が白くなっている。
それでも、彼は唇をかみしめながら、じっと耐えていた。
「ヴァシリー・マルカヴィッチ。かつて国境警備総局から数度の出頭命令を受けながら、以後消息不明。……現時点で、第二課が追っている反政府系犯罪組織『スヴェトカ』の幹部格にあたる」
淡々と読み上げる幹部の声が、ひどく冷たく聞こえた。
ショウは、拳を握ったまま黙っていた。
あの夜の笑顔、ふざけたような口調、殺意と愉悦を同時に含んだ眼差し――
あれが、トラフィムの“家族”だった男だという事実が、今なお信じがたかった。
「君たちの報告、そしてその場にいた複数の目撃証言から見て、本人である可能性は非常に高い」
ブリンニコフ司令官が、ひと息おいてから続ける。
「……現在、第二捜査課では“スヴェトカ”の内部工作を進めており、複数の関連人物を追跡中だ。その中にヴァシリーが含まれていたことは、極秘情報とされていた」
ブリンニコフの声は淡々としていたが、その奥に沈む重さは隠しきれなかった。
事実だけを告げる調子のはずなのに、ひとつひとつの語尾に苦味が滲む。
「だが……研修生である君たちが現場に出たことで、“彼”にトラフィム・マルカヴィッチの存在が、知られてしまった」
机の上に落とされた視線の先、書類がぴたりと止まる。
言外に、事態の深刻さと不可逆性を突きつけるような声音だった。
トラフィムは何も言わなかった。
俯いたまま、小さく息を呑んだだけだった。
誰のせいでもない――そう言いたいのに、それが一番難しいのが本人だということを、ショウは知っていた。
「本人は明言していたようだな。――“次に会った時には、必ず殺す”と」
室内の温度が、ひやりと下がる。
「本来であれば、候補生にこれ以上関わらせることは考えられない。……だが」
ブリンニコフがファイルを閉じた。
「彼は“君たち”を見て逃げた。アヴェリン、君の対応は冷静で的確だった。マルカヴィッチ、君は……踏みとどまった。誤射も暴走もなかった」
しばしの沈黙のあと、彼はふたりを見た。
「よって、上層部は“訓練生に特例の連携”を認めた。……君たちに、第二捜査課、ならびに犬班との限定的な連携任務を提案する」
思わず、トラフィムが顔を上げた。
「……訓練生の俺たちが、直接捜査に?」
「同行、情報提供、補佐。その範囲に限る。“戦力”ではなく“鍵”としての立場になる」
「鍵……」
「この件を追うには、君たちの存在が――否応なく、巻き込まれてしまっている以上、もはや必要だと判断された」
不意に、ショウの肩が小さく揺れた。
彼の目はまっすぐ司令官を見据えていた。
「……やらせてください。俺は、トラフィムを……ひとりで背負わせたくない」
その一言に、トラフィムが横目で彼を見た。
視線が交差する。
何も言えなかった。でも――言う必要なんてなかった。
ふたりに課せられた、特別な連携任務。
それは、正規の訓練課程とは別に設定された、極めて異例の措置だった。
だが、それは間違いなく。
彼らが再び、“あの男”に辿り着くための道標だった。
*
本部での事情聴取が終わった後、ふたりはしばらく別室で待機を命じられていた。
堅苦しい空気に晒され続けたせいか、ふたりともやや疲弊した顔をしていたが、それでも無言で椅子に座り、呼び出しを待っていた。
「……マルカヴィッチ、アヴェリン。ついてこい」
声をかけたのは、先ほどとは別の教官だった。
鋭い目つきに、飾り気のない黒い制服。見たところ階級は中尉クラス。
ふたりは立ち上がり、黙ってその後に続く。
コンクリート剥き出しの無機質な廊下を進みながら、ふとショウが小声で呟いた。
「……どこに行くんだろうな?」
「さあな。研修生に教えられる範囲じゃねえ、って顔だろ、あれ」
トラフィムも肩をすくめて答える。
案内された先は、普段彼らが使う訓練棟でも、通常の本部棟でもない。
本部裏手、警備が厳重に敷かれた一角――
そこに、ひっそりと存在する独立した建物だった。
玄関には、何の標識もない。
ただ、鋼鉄の扉と、無骨なインターホンがあるだけ。
教官は無言でインターホンを押した。
短く電子音が鳴る。
そして、数秒後。
――ギイ、と、重たく扉が開いた。
「よう、客人とは珍しいじゃないか」
ふざけたような、どこか間延びした声。
姿を現したのは、傷の癒えきっていない片足を引きずった男だった。
――以前、現場で一緒だった負傷隊員だ。
「……あんたは……」
思わずトラフィムが声を漏らす。
相手もすぐに気づいたらしく、口元をにやりと歪めた。
「おう、久しぶり、坊主。……生きてて何よりだ」
軽い調子で言うが、その目は一瞬だけ本当に安堵している色を滲ませた。
続いて、背後からもうひとり。
俊敏な動きで出てきたのは、あの時、訓練生である自分たちを庇いながらも、共に逃走犯を追い詰めた若い隊員だった。
「……二人とも、ちゃんと来たんだな」
静かで落ち着いた声。
その目は鋭く、しかし敵意はない。
彼は、ふたりに軽く頭を下げた。
ふたりの名を、教官が紹介する。
「左側――足を怪我してる方が“ミハイル・オルロフ”軍曹。
右側――追撃担当してた方が“レオニード・クラヴツォフ”伍長。」
「二人とも、正式な所属は記録にない。……“犬班”の隊員だ」
「犬……?」
ショウとトラフィムは顔を見合わせた。
聞いたことのない部隊名だ。
ミハイルはちらりと二人を見やると、片手で軽く扉の奥を示した。
「中で話そうぜ。……立ち話にしちゃ、重すぎる内容だ」
案内された先は、小ぢんまりとした応接室だった。 無骨なソファと簡素なテーブル。必要最低限の設え。
それでも、きちんと整えられた空間には、妙な緊張感が漂っていた。
「まあ、座れよ。そんなにビビらなくていいって」
ラフな調子で促され、ショウとトラフィムはぎこちなくソファに腰を下ろした。
ミハイルは背もたれに体を預けると、ポケットから取り出した煙草を弄ぶ。
ふと、室内に漂う無言の気配を感じ取ったのか、軽く首を回して一言。
「……おいおい、肩の力抜けよ。誰も噛みつきやしねえって」
冗談めかした言葉に、ショウもトラフィムもわずかに肩の力を緩める。
だが、それでも――緊張は、そう簡単に拭えなかった。
ミハイルはちらとレオニードと視線を交わす。
レオニードは頷くだけで何も言わない。
やがて、ミハイルがラフな口調で口を開いた。
「さて。……犬班、っつう名前、聞いたことねえよな?」
問いかけに、ショウとトラフィムは、ほぼ同時に小さく首を振った。
その反応に、ミハイルはふっと笑う。
「まあ、そりゃそうだ。俺たち“犬班”はな……正式には“特殊任務隊”って言う、民警内でも非公開扱いの部隊だ」
指先でテーブルをコツリと叩く音が、やけに耳に残る。
「存在が知られてないってだけじゃねぇ。任務内容も、出動記録も、すべて秘匿対象。……表向きには、存在すらしてねえ」
ショウは静かに息を呑んだ。
トラフィムもまた、無言でミハイルを見つめ返している。
ミハイルは、そんなふたりの反応を見ても、気にした様子はなかった。
むしろ、どこか淡々と続けた。
「俺たちの仕事は――表沙汰にできねえ案件の後始末だ」
低く、静かな声だった。
「組織絡みの汚職、国家レベルの秘密、反逆者の掃討、裏ルートの制圧……。時には、民警そのものの膿を摘み取ることもある」
言葉の端々に滲む、皮肉と諦念。
室内の空気が、じわじわと重くなる。
「今回もそうだ。ヴェストカ――つまりヴァシリーがいる組織だな。……あいつらみてえな、“表立って処理できねえ組織犯罪”も、俺たちの仕事だ」
ショウは拳を握った。
トラフィムは、俯いたまま、じっとテーブルの傷跡を見つめていた。
ミハイルは一拍置いて、話を締めくくった。
「――要するに。正規の課じゃ対処しきれねえ汚れ仕事を、全部引き受ける。それが“犬班”ってわけだ」
ぴたりと、静寂が落ちた。
ただ、硬質な空気だけが、重く、室内に沈殿している。
ショウはそっと視線を巡らせた。
ミハイルも、レオニードも、穏やかな顔をしているが、その裏には――覚悟と、冷徹な現実が透けて見えた。
ふと、レオニードが低く口を開いた。
「――それでも。俺たちは、おまえらを、巻き込むつもりはない」
静かな、けれど強い声音だった。
「だが……トラフィム。おまえが奴に狙われた以上、もう無関係ではいられない」
正直な言葉だった。
言い訳も、慰めもない。ただ、現実だけを、まっすぐ突きつける声。
トラフィムは唇をかみしめたまま、何も返さなかった。
そして、そっと俯く。
ショウは、その肩を一度だけ見て、それからミハイルたちに向き直った。
「……それで、俺たちにできることは?」
問いかける声は、澄んでいた。
迷いはなかった。
ミハイルは、ふっと目を細め、笑った。
「いい面構えだな、アヴェリン」
そして、立ち上がった。
窓の外――暗く沈んだ本部裏手の景色を見ながら、ひとつだけ、言葉を落とした。
「――これから一緒に地獄を覗くぜ、坊主ども」
その声は、どこか愉快そうで――同時に、抗いようのない覚悟を帯びていた。
廃れた犬舎のようなこの建物の中。
今、ふたりは確かに――民警の“裏側”に、足を踏み入れたのだった。
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