口を隠した華の声

@rinn_mano

第1話

 酒は好きだ。暗くて辛い日常の中にほんの少し彩りを戻してくれる。だから飲み会も嫌いでは無かった。

(……でも……流石に歳か……)

 康房はビールを飲みながら辺りを見回す。上司や同僚達は趣味や家族の話でワイワイと楽しそうに盛り上がっているが、自分はその輪に入れる気がしない。趣味もなく、家族も、もう誰も居ない。

「ちょっとお手洗いに……」

「おう!行ってこい!八神君!」

 上司は康房のそんな気まずさを知ってか知らずかよく飲み会に誘ってくれる。とてもありがたい事だ。ただ……

「……そろそろキツイな、このノリ……」

 トイレの前の洗面台で自身の顔を見た。青白くなった顔。目の下のクマ。清潔感と体作りには気をつけているので実年齢よりはまだ若く見られているが、疲れて老け切った顔が鏡に映る。

 女子トイレのドアが開いた。ドンッと鈍い音がして、康房はよろめく。

「あ、ごめんなさい!」

 白いスーツを着た女性が康房に近寄る。

「ちゃんと確認せずに開けちゃって……ってあれ?」

 女性が首を傾げた。表情はマスクで読み取りにくいが眉を顰めて何かを考え込む。康房にも彼女のその顔に心当たりがあった。

「もしかしてお隣の……流山さん?」

 彼女が答えるより先に思わず康房は聞いてしまった。おそらく酒が回ってしまっていたからだろう。40代後半のおじさんに顔と名前を覚えられているなんて女性にとっては恐怖だ。

 どう弁解するかを頭の中でシミュレーションする。

 そんな彼の姿を見て彼女は目を細めた。

「あはは!よく分かりましたね。あの日は私服だったのに!はい。八神さんですよね……貴方の隣の部屋に住んでる流山です」

 やっぱりそうだった……あの時の彼女だ。

 今の清楚な装いとは真逆の青い龍のスカジャンと大きなピアス。黒色と金のド派手なネイル……しかし彼女は礼儀正しく引越しの挨拶に来てくれた。

 彼女は楽しそうに笑って握手を求めるように右手を差し伸べた。やや酔っているようで若干耳が赤い。

「あぁ……どうも……」

 差し伸べられた彼女の手をそっと握る。その真っ白な手からは想像も出来ないほど、とても暖かくて柔らかい。思わず心臓が高鳴った。年甲斐も無く。

 彼女はふふっと笑い声を漏らし、康房の手を左手で包んだ。

「あの……勘違いだったら申し訳ないですが、八神さんも飲み会から帰りたかったりしませんか?」

 康房の驚く顔を見て彼女は慌てたように手を振る。

「あ、すみません、なんか顔色見てたらそうなんじゃ無いかなぁって……勝手に……ごめんなさい」

「いや、御名答ですよ。この歳になるとワイワイする飲み会もかなり身体に応えて……これからどう耐える考えてました。もしかして流山さんも?」

「はい。私は飲み会じゃ無くて合コンなんですけどね。友達に飲み会って言われて来たら合コンで……私、タイプじゃ無いんですよ、同年代とか年下って。でもしつこくて……」

 流山はゆっくりと深呼吸をした。

「あの!八神さん、私と一緒に抜け出してくれませんか?」

 康房は一瞬言葉に詰まった。

 この子は自分がとてつも無く危険な事をしている自覚は無いのか?顔見知りとは言えど、ただのマンションの隣の部屋の人間にこんなに真っ直ぐで綺麗な目を向けて……。

 マスク越しからでもわかる真剣な表情に肩を落とした。昔から女のこの様な顔にめっぽうに弱い。

「……親戚の娘がたまたま居合わせてそのまま家に送り届けるってシナリオでいいですか?とりあえずお金は払って抜け出しましょう」

 ため息をつきながら提案した康房に流山はパァっと顔を明るくした。

「ありがとうございます!じゃあ!店の前集合で!」

 小走りで去っていく彼女の後ろ姿を見つめて康房は頭を掻いた。

「……とりあえず……金だけ置いてくるか……」

 

 店を出ると少し肌寒い春の夜風が頬を掠める。ダクトから漏れる油と煙の匂い。康房は店横の喫煙所に腰を下ろした。

「……なーにやってんだか……」

 煙と共にボソッと言葉が出る。

 流山の澄んだ黒い瞳が脳裏をよぎる。

(……あの勝気な目、アイツに似てるんだよなぁ)

 脳裏に浮かぶ一人の女。かつて自分が愛し、共に生きる事を誓った彼女。彼女も流山と同じ澄んだ綺麗な目をしていた……と思う。

「お待たせしました」

「いやあ、待ってないですよ……タバコ吸ってましたし」

 つけたばかりのタバコの煙が空に溶けるように揺れる。

「私も一本吸っていいですか?」

  流山はタバコの箱を振る。

「ええ。大丈夫ですよ。よかったら火をどうぞ」

 康房は自身の手に握られていたライターを差し出した。

「ありがとうございます……わぁ、素敵なライター。プレゼントですか?……『Y.Y』?」

「イニシャルです。『八神康房』って名前なんで。元嫁からもらったんですが意外と長持ちしてて」

 流山はふーんと相槌を打つとマスクを外す。その素顔に康房は思わず息を呑んだ。夜の色とりどりのネオンに照らされた彼女の素顔。

 キラキラとほのかなラメが光る目元と朝露に濡れたように輝く長いまつ毛、スッキリと通った鼻筋、桜の花のようにほのかに色付いた柔らかそうな唇。

(なるほど……コレは合コンに誘われるのもわかる)

 タバコを吸うのも忘れ彼は彼女の顔を見つめていた。それに気がついた流山はタバコを咥え、いたずらっ子のように微笑えむ。

「あんまり見ないでくださいよ。恥ずかしいじゃないですか」

 彼女の口から漏れ出た煙がネオンの光と混ざり合い、夜の冷たい空気に溶けて行く。

「ああ……すみません……」

 急いで康房は目を逸らした。彼女の柔らかな煙とは違い、彼の吐く煙はどこかぎこちなく夜の空気に居場所を失い消えた。

(俺には刺激が強すぎるな……)

 康房は再度彼女を横目に見た。スマホをいじる彼女。白い光が彼女の顔を照らす。メッセージアプリに何かを打ち込む彼女は大きなため息をついてスマホを握りしめた。

「八神さん、愚痴聞いてもらってもいいですか?」

「は?え、まあ、はい」

 タバコの匂いに混じってアルコールの匂いと甘く優しい香りが脳に直接届いた。グイッと流山が康房に近寄ったのだ。彼がそれを認識する前に彼女はスマホの画面を彼に見せる。

「コレ、さっき言ったしつこい男なんですけど、めちゃくちゃメッセージ送ってくるんです。連絡先も交換してないのに……」

「流山さん、ちょっと酔いすぎじゃぁありませんか?」

 流山は少し距離をとった康房をきょとんとした顔で見つめた後、顔を赤くして手を振る。

「ごめんなさい!私ったらつい……なんだか八神さん話しやすくて……」

 無防備な彼女に康房は若干の苛立ちを覚えた。

「いや……その……男にそんなに接近したら勘違いする奴だって居ますよ。貴方は魅力的なんだから特に気をつけないと……」

 しまった。康房は思わず口を塞ぐ。

(魅力的とか言ったらセクハラになるよな……?)

 案の定、流山は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてポカンとしていた。そして徐々に顔が赤くなる。

「……魅力的……に見えますか?八神さんから見て」

 口元を手で隠しながら視線だけをこちらに向けた彼女。

(俺は何を試されているんだ?まさかとは思うが……この娘……俺に気があるのか?)

 康房は頭を振った。タバコはもうフィルター寸前まで短くなり、燃え尽きようとしていた。

 彼女の問いに康房は答えなかった。灰皿にぐりぐりとタバコを押し付けながら精一杯の作り笑いを見せる。

「流山さん、もう帰りましょう。お互い飲みすぎたみたいですね」

 康房は気がついていた。流山が少し寂しそうな表情をした事を。本当は答えてあげたほうが良かったのかもしれない。「魅力的だ」と。しかし彼にはそれは口が裂けても言えない。

(もし、彼女が大人の男との恋に恋する乙女なら、相手が俺であってはいけない)

 流山は半分残っていたタバコを消して、マスクを付け直した。

「変な事聞いちゃって……ごめんなさい。多分悪酔いしちゃったんですね」

「ええ。お酒は人の心を大きくしますから。さぁ帰りましょう」

 二人は並んで夜の街を歩く。明るいネオンの光と賑やかな声。側から見れば、仲の良い会社の同僚か、叔父と姪のような親戚関係に見えたかもしれない。

 だが、康房の胸の内には、そんな表面をよそに張りつめた思いがあった。

 夜風が、乾いた心の奥底にそっと手を伸ばしてくる。

(……幸せだと思ってしまうなんて。こんなの、間違ってる)

 街灯の影が彼のそんな心を隠してくれた。彼女は多分気がついていない。年甲斐もなくときめいた康房の心の事など。

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