杏奈は穏やかそうな老婦人を使って、なんなく東改札をすり抜けた。そのまま幅の広い階段を上がり、地上の広場に出る。

 春風が強い。

 夜でもこの街は明るい。

 おおきなネオンの広告塔や高層ビルの看板が、遥か上から人々を照らしているからだ。


 新宿通りを渡る信号は赤だった。

 足を止めた杏奈の横にサラリーマン風の男が近づいてきて、小声で言った。


「かわいいね、時間ある? 食事とかどう?」


 こそこそとした態度が杏奈の癇に障った。わざと周りに聞こえるよう元気よく応える。


「私、小学生なんですけど」

「……え、大人っぽいなあ。ごめんね、気をつけてね」


 信号が青に変わった。

 周囲の冷たい視線を浴びた男は、横断歩道を逃げるように渡っていく。その背中に心のなかで「ばーか」と毒づいていると、横断歩道の向こう側から、だれかが杏奈に手を振った。

 見ると、知った顔が六、七人で輪になり、ガードレールに座ったり寄りかかったりしている。

 杏奈は急いで大通りを渡り、仲間たちに加わった。


「期間限定だって」赤い髪の少女が、カフェの透明なカップを差し出す。「面白い顔して逃げてったねぇ。アン、十二歳って言ったの?」


 少し溶けた苺のフラペチーノを一口もらって、杏奈は応えた。


「小学生ですって言ったら『気をつけてね』だって。中学の入学式まだだから嘘じゃないしさ」


 仲間たちは声を上げて笑った。


「『気をつけてね』? お前が言うなって言ってやれ」

「アンが中学生かぁ。早いなぁ」


 場が盛りあがるなか、ひとり真剣な顔で携帯を弄っていた少年が、ヘッドホンをずらして杏奈を見た。


「ね、アンの親の整体院って――あの西武新宿の向かいにあるビルだよね? 二階?」

「そう」杏奈がうなずくと彼は続けた。

「……なんか、警察、来てるっぽい」


 一階のコンビニでバイトしてる先輩がいて、と少年がつけ足した。冗談を言うような子ではないし、出どころもはっきりしている。

 周りは一気に騒がしくなった。

「お父さん、なんかやっちゃった?」「アンが煙草吸ってるから?」「ばか、そんなんで警察来るかよ」


 無責任な言葉。

 困ったような視線。

 どうせ当事者じゃないくせに。杏奈は、苛立ちをぶつけるように走り出した。

 靖国通りを横切り、マックの角を曲がる。喉の奥で鉄みたいな味がした。リュックから携帯を取り出し、父にかけたが繋がらない。


 顔見知りのスカウトマンから「お父さんの――」と声をかけられ、「知ってる!」と短く返す。

 酔っぱらいの集団や観光客のスーツケースを避けながら、杏奈は懸命に夜の街を走った。

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