キッチンでは兄がつけた換気扇がまだ回っている。蒼が勝手に消すことをしなかったからだ。


 食器棚はシンクの横にある。造りつけで、上部は両開きの扉、下部は引き出しになっている。

 蒼は、「一番下」どころか、食器棚の中身を一切見ていない。このマンションに来てから最低限のものしか触れていない。そもそも実家にいたときだって、キッチンやリビングの収納をむやみに開けることをしなかった。

 蒼は昔のことを思い出した。ガラスの引き戸の向こうにある六枚切りのパンを。


 ――いまのこの気持ちは、ちいさいころの食パンのときみたいだ。


 パンといい生活費といい「自分で持っていけ」という相手の態度が似ている。どうして自分は「どうぞ」と言われて「ありがとう」と素直に受け取れないのか。

 わからないときは、いつものように蓋をすればいい。なにも考えず機械的に、ただ引き出しを開けるだけだ。

 蒼はしゃがみ込んで取っ手を掴む。指先に力を込めて一気に引いた。

 じゃら、と金属的な音が鳴った。


 引き出しのなかは仕切りもなく、小銭、クリップ、ボールペン、ライターなどがごちゃごちゃに放り込まれている。

 その山の上に裸のままの札が、ぽん、と乗っていた。適当だ。厚みはさほどない。千円札や五千円札も混ざっている。数えてみると、十万と少しあった。

 子どもに与えるには多すぎるが、大人が家に置いておく額としてなら、そう不自然でもないだろう。

 そう思いたい。

 ここは、普通の家だと。


 蒼はしばらく引き出しのなかを見つめてから、五千円札を一枚抜き取った。財布にしまい、ポケットに入れる。

 出かけるまえに、洗面所に寄った。

 鏡のなかの自分は少し疲れているようだ。眠った時間が短かったせいか、寝癖はついていない。前髪が伸びすぎている。色の白い顔。目の下のくま。


 もしかして、と蒼は鏡に近づいた。

 あごを反らすと、思ったとおり、首に指の痕が赤く残っている。ここまで強くするなんて、過去にはないことだった。だんだんエスカレートしているのかもしれない。――気をつけなければ。


 蒼はそっとシャツの襟を引っぱり上げた。

 これで他人からは見えない。

 自分からも見えない。

 けれど、もちろん服の下にはある。消えたわけではないのだから。蓋をした過去の穴とおなじだ。

 念のため、パーカーを上から羽織った。普通の子どもに見えるように。

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