第7話 復讐だけが目的
幽界ネットでの活動も一週間が過ぎた。焔としての自己認識がより強くなり、神崎悠翔の記憶は徐々に霧の向こう側へと消えていった。クロカゲの案内で、情報収集と小さな復讐の足がかりを作ってきた。
「今日は特別な場所に行く」
クロカゲが指し示したのは、幽界ネットの北側に浮かぶ孤島のような空間だった。
「ここの主は『ツクヨミ』。幽界ネットでも指折りの建築士だ。正体は女性じゃないかという噂だ。彼女の創る空間は、訪れる者の心理に作用する特殊な効果を持つという」
「なぜそこへ?」
「ツクヨミは中立的立場を守っている。しかし、榊原のプロジェクトに一度関わったことがある。奴について情報を得られるかもしれない」
月落園への入口は、巨大な門だった。その下をくぐると、季節が変わったかのように桜がひらひらと舞い、幻想的な光景が広がった。庭園には、現実にはあり得ない灯篭や建築物が点在している。
「まるで夢の中のようだ……」
「ツクヨミの特殊能力だ。『心理誘導環境』―—訪問者の心理状態に合わせて空間が変化する」
庭の奥へと進むにつれ、風景が微妙に変わっていく。桜から紅葉へ、そして雪景色へ。四季が同時に存在する不思議な空間。遠くに見える茶室に向かって歩いていると、突然、クロカゲの姿が透明になりはじめた。
「どうした?」
「ここからは一人で行け。この領域には特殊なセキュリティがある。私のようなシステム干渉者は排除される」
クロカゲの姿が完全に消える前に、彼は最後の警告を残した。
「彼女を敵に回すな。味方にもするな。ただ、真実を語れ」
ぽつんと残された焔は、茶室へと向かった。戸を開けると、そこには一人の女性が座っていた。現実の日本人女性を思わせる容姿だが、髪は月光のように銀色に輝き、着物は星空のような深い青だった。
彼女は静かな声で言った。
「ようこそ、焔。私がツクヨミです」
「私を知っているのか」
彼女は微笑んだ。
「この庭に入る者の心の形が、私には見えます。あなたの心は、炎のように激しく、そして何かを被い隠すように暗い」
彼女は焔へ座るように促してから、茶を差し出した。不思議なことに、仮想空間なのに香りと温かさを感じる。
「どのようなご用件で?」
「情報が欲しい。榊原誠司――いや、オモタルについて」
彼女の表情が曇った。
「彼については語りたくありません」
「彼があなたに何をしたのか」
「それは……」
突然、茶室の空気が変わった。窓から見える景色が統一感を失い、壁に亀裂が走る。ツクヨミの感情が空間に影響しているようだった。
彼女が鋭く尋ねた。
「あなたは彼の敵?」
「彼に裏切られた」
焔は、ここまでの出来事をツクヨミに伝えた。
ツクヨミは、大きく息を吐き出した。
「私もです」
その言葉で、空間が再び安定した。ツクヨミは深く息を吸い、続けた。
「私は現実世界では倉橋というVR空間設計の専門家です。オモタルは私のスキルを利用しようとしました。『特殊な心理空間』の設計を依頼されたのです」
焔は身を乗り出した。
「どんな空間だ?」
「心理誘導と洗脳のための空間。人々の潜在意識に働きかけ、特定の考えや記憶を植え付けることができるもの」
それは神崎の技術と組み合わせれば、完璧な洗脳システムになる。
「断ったのか?」
「はい。そして報復として、現実世界での私の評判を徹底的に貶められました。仕事も失い、友人も離れ……今では外に出ていません」
彼女の声には苦痛が滲んでいた。
「彼の計画は今も進行中だ。そして今度は国家レベルへの拡張を目指している」
「知っています。だから私はここで抵抗しているのです。彼らが支配できない場所を作り続けることで」
ツクヨミの目には強い決意が宿っていた。彼女は立ち上がり、茶室から外へと歩き出した。焔もそれに従う。
外の景色は変わっていた。今や庭園は、ベンチが置かれたイチョウ並木になっている。道を歩く彼女のうしろから、焔は質問を続けた。
「オモタルは他に何を計画している?」
「『統制』と彼は呼んでいました。政治、経済、文化のすべての領域で、『正しい記憶』を人々に植え付けるのです」
恐ろしい計画だ。そして、それは神崎の技術なしには不可能なものだった。
二人が巨大な鳥居の前に立ったとき、ツクヨミは振り返った。
「あなたは……神崎悠翔ですね?」
焔は凍りついた。
「何を言っている。神崎悠翔は死んだ」
「この庭は嘘をつけない場所です。あなたの中に、まだ彼の痕跡を感じます」
彼女は優しく言った。
危険だ。焔のアイデンティティが揺らぐ。
「私は焔だ」
「では、焔さん。あなたの目的は?」
「復讐だ」
「それだけ?」
その問いが胸にちくりと刺さった。復讐だけでいいのか? 神崎悠翔が守りたかったものは?
「私はただ……奪われたものを取り戻したい」
「理解できます。私もこの空間を守るために戦っています。彼らのような人間に、心の自由まで奪わせたくない」
鳥居の向こうにはクロカゲの姿が見えた。別れ際、ツクヨミは焔の手を取った。仮想空間なのに、温かさを感じる。
「また来てください。あなたの戦いを手伝えるかもしれません」
「手伝う? なぜだ?」
「直感です。あなたの中に、まだ光を感じるから」
彼女は微笑んで、手を離した。
クロカゲのところに戻ると、彼は不機嫌そうに言った。
「予定より長かったな。何があった?」
「彼女は……味方になってくれるかもしれない」
「気をつけろ。感情的な繋がりは任務の妨げになる」
焔は黙って頷いた。しかし内心では、ツクヨミとの会話が自分の心に残した波紋を感じていた。復讐だけが目的なのか。それとも、もっと大きな何かのために戦うべきなのか。
VRヘッドセットを外した後も、その問いは消えなかった。廃ビルのガラスに映る顔―—神崎悠翔の顔を見つめながら、彼は呟いた。
「私は焔だ」
しかし、その言葉の重みが、少しだけ変わっていた気がした。
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