第2話 疼く、この胸の奥

 地下通路に沿って並ぶ列に終わりが見えない。

 再び多忙を極める<喫茶むろらん>。マスターはサンドウィッチにゆっくり包丁を入れる。急いでも形が崩れてしまうのを知っているが、威圧にも似た人気を感じて頭をさっとあげた。

「あ、君か。いらっしゃい」

 すぐさま永久がマスターに問いかける。

「あの、透汰、出勤してますか?」

「透汰ね……」

 答えに窮する。

「何かありましたか?」

「本当は今日も来てもらう予定だったんだけど……」

 永久の表情が曇る。

「急に辞めちゃったんだ」

「え」

 マスターはサンドウィッチを運ぼうとすると、永久が受け取った。

「僕が持っていきますよ」

「あ、ありがとう」

 この忙しさだから助けを借りることにマスターも異論はなかった。手を洗って「辞めたというよりも、急に来なくなってしまって。せっかくいい子だったのに……」

「いつからですか?」

「二日前」

 永久が最後に透汰に会ったのも二日前で、初めてこの喫茶店を訪れた時だった。連絡しても返信がないことを心配して直接勤務先を訪ねた。懸念は透汰の体調だった。本人は否定していたが病を抱えているようだった。見た限りでは日常生活は問題ないが、何かのきっかけで起こる突発性のあるものだと推測している。

「ごめん、これ持って行ってもらえるかな?」

「はい」

 仕方なく常連客三人分のホットコーヒーを運ぶ

「何だった?」

「透汰、どこか悪いとかって聞いたことないですか?」

「体が悪いってことかな?」

「そうです」

「とりわけそういう話はしなかったよ。勤務中は健康そのものだ。慣れないことをやっていたから身体的な疲労はあったにしても、常連客とも仲良くやってたし」

 マスターがカウンターに座っている常連客と目を合わせて同意を求めた。特にそれらしい話は聞いていないという。透汰の性格上、そんな話をするとは思えない。

「でもね」

 マスターが意味深に口を開く。

「でも」

「半年しか働けないって」

「半年……」

「あの子が来たのって、二ヵ月ぐらい前じゃないかな」

 常連が耳にアンテナを立てて話に入ってきた。

「そのぐらいだね」

「何か理由は言っていましたか?」

「特に何も。何か事情があるんだと思って深くは訊かなかった」

 その約束の期間を守ることなく、四ヶ月を残して出勤しなくなってしまったのか。やはり特別な事情が孕んでいるのは間違いないだろう。

「どういう経緯(いきさつ)で、透汰は働くようになったんですか?」

「ある時、閉店間際にここに来てくれたんだけど、自然と家内の話になってね」

 縋るような目で頷く。

「去年病気で亡くなってたんだけど、家内がホールの仕事をやってくれていたからね。一人やるのも寂しいし、閉めようかなっていう話をしてたら、透汰がちょうど仕事を探してるって。『ここで働いてもいいか』って」

 前職については聞いたことがない。

「透汰の年齢って分かりますか?」

「知らないな。履歴書ももらわずに採用したから、LINEしか知らないんだ」

「透汰は、ここの常連でしたか?」

「そうだったみたい」

「みたいとは?」

 曖昧な返答に即座に訊く。

「しばらくは来てなかったけど、昔はよく家族で来てくれていたみたいでね。なんとなく覚えているんだけど……」

 昔の話であれば、透汰の容姿も当時と変わっているだろうから記憶が曖昧なのは不思議じゃない。

「君も連絡が取れないの?」

「はい……この間、僕がここに来たのを覚えてますか?」

 頷く。

「それ以来、連絡を入れても返信がなくて。既読にもならないし電話も出ないんです……」

 あれが最後の透汰になるとは思ってもみなかった。

 考えたくないが、何らかの事件に巻き込まれてしまったのか。誘拐や殺人など人命を風船のように軽く扱う凄惨な事件が頻発している。変な想像が行き交う。『まさか映画じゃあるまいし』と、いつもの明るさで笑い飛ばしたいが、透汰に自動車事故から救ってもらった身だ。心臓という電池が動いている限りは何が起こるか分からないのだ。

「もう少し待ってみてもいいかもね。ひょっこり帰ってくるかもしれないから」

 マスターは言葉を絞り出した。

「そうですね」

 居場所は掴めなかったが、有益な情報が得られたと思って肯定的に捉えるしかない。それにまだ連絡が途絶えて二日だ。あまりに心配性すぎる。

 多忙なマスターを置き去りにして店内を後にするのは気が引けたが、持ち前のノリの良さで「手伝いますよ!」と軽々しく言えなかった。まずは頭を整理して、これから何ができるか考えたい……しかしできることが特にないのが実情だった。


                 1

 頭の整理はできる。しかし次の行先は分からない。

 透汰に関する情報は勤務先と過去に留学していたぐらいで、知り合いと言えばしずくぐらいだ。しずくを含めて出かけたこともあったが、警戒心が強い透汰がしずくに私生活をペラペラと話す姿が想像できない。

 頭を垂れたまま歩いていくと、張り紙を貼ろうとしていた男性とぶつかりそうになった。

「すいません」

 永久は寸前で衝突を避け、反射的に謝った。

「いえ」

 落としていた視線を吊り上げると<たまゆら>の前にいたことに気が付いた。<喫茶むろらん>は地下鉄・大通駅に直結しており、無心のまま、相当な距離を歩いてきたことになる。

 男性が落とした張り紙を拾い上げると、不意に文面が目に飛び込んできた。

「しばらくお休み……」

 明らかにこの張り紙は<たまゆら>のものだ。男性に目移りした瞬間に毒気を抜かれた。

「な、なにか」

「あ、いえ、あの、すいません」

「お客さん?」

「あ、はい。よく来ていて」

「そうなの。ありがとう」

「……店主、大丈夫ですか?」

「ああ、ちょっと体調不良でね……」

 奥歯に物が挟まったような言い方だった。

 札幌に来て知り合いが少ない永久が、仕事以外で話ができる場所だった。一回り年の離れた店主も気軽に声をかけてくれたから話が弾むのには時間は要しなかった。だから<たまゆら>は憩いの場所であり安心できる場所だ。

 店主が体調を崩した。しばらく来られないということだ。透汰の音信不通と重なり、暗闇に顔を押し付けられたような気分だった。

 男性に訊きたいことは山ほどがあるが、どこまで踏み込んでいいか。迷いながらも心配が勝った。

「あの、少し休めば復帰できそうな感じですか?」

「ああ……」

 男性は言葉の行先を見失い、不味い薬を味わうように口元を動かして言葉を必死に選んでいる。時間稼ぎをするように張り紙を見やすい場所に張り付けた。

「もしお答えできないなら大丈夫です。立ち入ったことを訊いてすいません」

「いえいえ……」

「お店の関係者の方なんですか?」

「いや、店主の旦那です」

「そうなんですね。体調を崩されたのはいつからですか?」

「二日前……」

 透汰が姿を消したのも二日前だ。

 偶然にしてはできすぎているような気がする。

 とはいえ、無理やり関連付けようとしている永久がいるのも確かだった。

 店主の旦那。

 背があっても風采が上がらないが、店主と似て温和な感じが伝わる。

 そしてもう一つ。透汰によく似ている。

 それが毒気を抜かれた理由だった。もしかしたら透汰のお父さんではないか。だとしたら、店主はお母さんということは言うまでもない。

「あの、息子さんは元気でおられますか?」

「え?」

 拍子抜けしたような声が響いた。

「ど、どうして?」

「あ、いえ……」

 どうしてと訊かれると二の句が継げなくなった。

「お母さんが体調不良だと、心配だと思いまして……」

 永久なりに自然に言えたが表情はぎこちない。

「お客さんにそんな話をしてたんだね」

 妻の意外な一面に触れるように、不思議そうに言う。

「はい……最近、結婚するとかいうお話もされてて」

「じゃあ、結構周囲とも話せるようになったんだね」

「自分のことをお話されるタイプではなかったんですか?」

「そうだね……聞こえは悪いんだけど、この店も、やりたくてやり始めたわけじゃないから。気分転換のためだったし」

 気分転換の意味が取れずに困惑した。

「家に籠城してると変なこと考えるんじゃないかって」

「……変なこと、ですか?」

 在宅中に『無謀な行動』に出るとでも言いたいのか。まったく話の筋道が見えない。

「さすがに話してないか」

「はい……」

「実は、息子が事故で亡くなってて」

「え」

 旦那の真似をするように、拍子抜けした声だった。

「二年前の話なんだけど、バス事故に巻き込まれてね」

「そういうことですね……」

 段々と霧が隠れるように話が見えてきたが、まだ真相は深海にある。

「ずっと塞ぎこんでいるから、そろそろ社会復帰というか、忘れろとまでは言わないけど、前向きに生きたらどうかって。お店を経営して毎日忙しく働いていたら変な事も起こさないだろうし、何よりも何かあったらお客さんに助けてもらえるかもしれないって思ってね……迷惑かけちゃうかもしれないのに、お客さんを目の前にして言うことじゃないな。ごめんね」

「いえ……」

 要するに後追い自殺をする可能性があったということか。すると体調不良というのは表向きで、自殺未遂をしたのだと推測できる。それで男性が長期休みを伝える手筈をしたという流れか。それなら復帰時期など明言できるわけもない。

 そうなれば、この男性は透汰の父親ではないだろう。しかし二度見してしまうほど似ている。特に、苦笑した時の表情の崩れがそっくりだ。

 まとめると、店主は自殺未遂を犯した。透汰によく似た店主の旦那。最愛の息子をバス事故で亡くして、事件のことを無意味に回想しないように<たまゆら>を営業していたのだ。

 殴打されるように断続的に入ってくる情報に今はなす術がなかった。

「あの、お大事にしてくださいと、店主にお伝えください」

「ありがとう。また復帰できたら来てあげてください。きっと喜ぶと思います」

「分かりました。もしよろしかったら、連絡先、伺ってもいいですか?」

「いいですよ。再開できるようになったら連絡するね」

「はい、ありがとうございます」

 真相が分かったのに、この胸のざわつきは何だろう。

 今はただ、店主の回復を待つほかなかった。


                 2

 夜の大通公園。

 ちょうど昨日からライトアップが始まった。

 いちゃつくカップルがいても、女子同士で自撮りをしていても、子供の声が聞こえても、とにかく人混みに紛れさせてほしい。

 永久は、どこか友達を失ったような気持ちだった。

 決して深い関係ではないが命を救ってくれた人だ。

 なかなか心を開いてくれず距離を感じることもあったが、素直な時は素直だった。時折見せる笑顔も透汰の魅力だ。

 スマホが揺れた。画面を見るとしずくだった。

「今どこにいる?」

 いつになく切迫した声が聞こえてくる。

「どうした?」

「すすきの来られる?」

「行けるよ」

「変な人がついてきてて」

「分かった」

 永久は即答してしずくが一時避難しているコンビニに向かう。

 駆け足で五分ほど。店外を窺うしずくがいた。永久を見た瞬間、表情が一瞬で変わった。

「大丈夫?」

 入店して名を呼びかけることなく、しずくに近づいて行った。

「ありがとう、急に来てもらって」

「いいよ。良かったら送ってくよ」

「ほんと? 嬉しい」

「飲んでたの?」

「ああ……そうそう、チアメンバーと」

「そうなんだ。しずく、お酒強いの?」

「そんなに。ていうか、お酒飲みに行く機会がないから。ほら、ナイターだとお昼ぐらいから球場行って合わせとか色々やることがあって」

 恐る恐るコンビニを出て、地下歩行空間に入った。あれこれ話しているうちに札幌駅周辺に差し掛かっていた。

「永久君、ありがとう。もうここでいいよ」

「家まで行けるけど」

「でも……」

 家まで知られたくない。その気配を感じた。

「分かった。じゃあ、気を付けて。何かあったら連絡していいからね!」

 しずくはステージ上での笑顔を見せて頷いた。

「しずく……ありがとう」

「え? なんでお礼言うの? 言うのは私じゃない?」

「実は、話し相手が欲しかったから……」

 ストレスを少しずつ吹き出すように言った。

「……なんかあった?」

 話すべきか迷った。話したら不満をぶちまけるように言い募ってしまうような気がした。

「何でもない。気を付けてね」

 背を向けて去っていく永久を、しずくは呼び止めた。

「いつもの元気で優しい背中が寂しいぞ」

「え?」

「チアの仲間がそんな感じで歩いていたら、放っておけないって」

 永久に歩み寄った。

「そんな寂しそうだった?」

「うん。そんな後味の悪い別れ方ある」

「ああ……」

「言ってよ」

「……」

「できることがあったらしたい」

 しずくは目を合わすと、少しだけ頬を上げて微笑んだ。

「……透汰」

「ああ……」

 思わず目を逸らす。

「透汰と連絡が取れなくて」

 目のやり場が分からない。

 街の喧騒が、二人の間に流れ込む。

「……何も聞いてないよね?」

「うん……」

 沈黙の永久をチラッと見る。しずくが考えているより深刻だった。

「永久」

 すっと頭を上げた。

「きっと、何か事情があるんだよ。もう少し待ってみたら」

 しずくは宥めすかすように言った。

「だよね……ていうか、まだ二日しか経ってないし」

 永久は苦笑して頭を掻いた。

「心配性?」

「普段はそんなことないんだけど、知り合いも少ないし、一人でも欠けてしまうと寂しんだろうね。もっと楽観的な性格だと思ってたんだけど、そうじゃなかった。札幌に来て分かったことかな」

「そっか。でも永久のそういう優しいところ好きだよ。変化があるとすぐに気づいて連絡くれそう」

「ありがとう。少しぐらいは消えた? 哀愁のある背中」

 しずくに背中を向けて言う。

 よく観察して、「さっきよりはマシかな」とおどけた。

「しずく、そういう冗談も言うんだね」

「全然言うよ……あのさ」

「どうした?」

「もしよかったら、今度一緒に遠出しない?」

「遠出?」

「ほら、一人でいると透汰のこと考えそうだし。私が一緒にいるよ」

「例えば?」

「鎌倉に行きたい」

 永久は何の異論もなく承諾してくれた。


 しずくは住処に戻った。

 電灯はつけずに、アロマキャンドルに火を灯す。まずは気持ちを落ち着かせるのが先決だ。小さな炎は、しずくの心情を映し出すようだった。


 ――永久の表情を見ていられない。


 透汰の失踪の理由を知りながら、永久を安心させることができない。

 あのまま時間を共にするのは辛い。

 その反面、嫉妬心もあった。


 ――永久にとって透汰が特別な存在であることに。


 それでも、透汰を恨む気持ちにはならない。

 相反する気持ちがぶつかり合う。


 ――それでも、弱みを見せてくれたことは、嬉しかった。

 

 いくつもの感情がせめぎ合う。

 せっかくの炎を消す。暗闇が部屋を満たしていく。

 しばらくして、しずくは立ちあがった。

 住処を飛び出して、もう一つの住処をノックした。

「はい」

 扉が開くと、出てきたのはユニだった。

「こんな遅くにすいません」

「いえ。どうかされました?」

 しずくは俯いた。

 ここで相談しても良いものか。

「黙っていては分かりません」

「はい……透汰のことで」

 ユニは黙って部屋に誘導した。

「チアの仕事はいかがですか?」

「え」

「チアの仕事は楽しんでいますか?」

「はい……」

 ユニが間を置いた。意外で変な声を出してしまった。

「あの、夢みたいで現実なのか、何度も疑ってみるんですけど、現実なんですよね」

「その通りです。うまくやっているので安心しています。実は、この間こっそりステージを観に行きました。曲数が多くて、まるでプロのダンスを見ているようでした」

 終始あどけない笑顔で言う。

 口数の少ない人だと思っていたから、長々と話す姿が新鮮に映る。

 透汰への態度は、きっとやむを得なかったのだろう。

「ありがとうございます。全然気が付きませんでした」

「遠くから眺めていましたからね。人知れず誰かを観察するのは得意でして」

 あまりにリアリティのある返事で言葉を失った。

「さぁ、本題に入りましょう」

 ユニは正座をし直すと、しずくも自然と背筋が伸びた。

「透汰のことを、心配している人がいます」

「どなたですか?」

「札幌で知り合った子なんですけど……迷惑をかけたくないので名前は伏せます。連絡が取れなくなって、不審に思っています」

「大丈夫じゃないですか」

「そうでしょうか」

「日々に忙殺されてきっと忘れると思いますよ。知り合いと言っても、付き合いが深いわけではないでしょう。他人に興味のない、恐ろしく狭い世界で生きている人間が多い。そのうち忘れますよ」

 

 ――逆だと思う。


 永久はそんな人間じゃない。自動車事故から救ったのは透汰だ。何よりも、永久が人を大切にする人だから。

「決して口外してはいけませんよ。しずくさんなら、分かっていると思いますが」

 ユニには、本心が透けて見えている。相談しなくても、どこかでユニに何か言われたに違いない。

「もちろんです。打ち明けるつもりはありません。ただ、彼が苦しんでいる姿を見るのが辛いだけです」

 沈黙になるが、ユニがこう切り出す。

「もしくは……」

 しずくは顔を上げた。いつの間にか俯いていたことに気付いた。

「とことんそばにいてあげたらいかがですか?」 

 しずくは頷きも何もしない。もっと言葉が欲しい。

「そういう方に知り合ったのも運命だと受け入れて、そばにいてあげたらいいんじゃないですか? もちろん苦しいでしょう。真実を伝えられないのですから。しかし言うまでもありませんが、生きていれば苦しいことばかりです」

 厳しくも温かい言葉だと、しずくは思った。

 ユニは根っからの悪人ではないのだろう。

 腑に落ちて、

「そうですね。私がそばにいて、笑顔にしてあげればいいんですよね」

「念のため申し上げておきます」

 緩んでいた表情を引き締めてユニを見た。

「深入りはしないように」

 きっと、永久への恋心を見透かされている。

「はい」

 我が子の秀才さを噛みしめるようにユニは微笑む。

「他に懸念等はございますか?」

「大丈夫です」

「また明日もステージで頑張ってくださいね」

 しずくは深く頭を下げた。

 また住処に戻って深呼吸をする。

 胸を抑える。心臓が動いている。こんなにも当たり前のことに驚かされ、実に久しぶりに感じる胸の痛み。疼く。永久を思えば思うほど。


                 3

 JR帯広駅のロータリー。

 永久の父が手を振って居場所を知らせる。LINEを見ると、十分前には到着していたらしい。時間に正確というよりかはせっかちだ。

 三か月ぶりの帰省。言っても見慣れた風景を懐かしむことなく、ちょっとした長旅から帰ってきたような気分だ。

 十五分ほど車を走らせると、集合墓地の近くに止まった。

 墓花を変えて、ステンレスの花活けを磨いて墓石を拭く。緑藻が顔を出すようになってから除去もしている。岩手県・毛越寺で購入した線香を使うのがこだわり。値は張ったが火に覆われた瞬間にいい香りがする。

 両親の不仲が浮き彫りとなり、永久は母の実家に身を置くことになった。そこで時間を共有したのがおばあちゃんだった。

 いくら時間があっても語り尽せないほど愛情を注いでもらった。

 使い道を失ったお金を渡される毎日。

 進学、受験、アルバイト。事あるごとに口うるさく話しに首を突っ込んできた。

 疎ましいと感じることもあったが、見るもの全てをオレンジに変えるような優しい表情や、年齢にそぐわぬ力強い手は忘れられない。

 あんぱんと黒飴が好きで、部屋には常にストックがあった。

 墓の管理をするようになったのは、おばあちゃんが体力的に墓地に通うのが難しくなり、認知症を患ってしまったからだった。

 ある時、白内障で片目が見えない中、おばあちゃんはじっと永久を見つめてきた。特に何かを発したわけではない。視線は、先にあるものをぼんやりと見ているだけだった。

「あんたが、墓参りしてくれる?」

 永久はよく聞こえず、顔を近づける。

「あんたにな、墓守してほしいんや」

 

 ――悟った。もう、長くないのだと。


「分かった」

 永久は耳元で聞こえるように、はっきりと言った。

 表情に薄っすらと安堵が広がり、おばあちゃんはそのまま目を閉じた。安らかに眠る様子は今でも体に刻むように覚えている。

 そんな流れで続けてきた墓の管理も、札幌に移住してからはできていない。

 学生時代は毎月行っていたが、今はそうはいかない。片道三時間かけて帯広に戻るわけにもいかず、両親に任せっきりになっている。しかし何かにかまげて『忙しい』と言って、永久がしていたころのような管理はできていない。

 墓石に威厳を与えるように、腰を落として目を閉じる。

 数秒間、数珠を手に絡ませて思いを馳せる。

 独特の静けさが身震いさせる。

 線香の香りは風がさらう。


 ――おばあちゃん、ごめんね。


 涙が絡んでくるからしっかり声が張れない。

 灰が落ちて風に髪の毛を揺らされてもその場をしばらく動かない。

 すると、人の気配を感じて永久は体を捻った。しずくだった。

「誰のお墓?」

「おばあちゃん」

 しずくは墓石を見つめる。

「優しいおばあちゃんだった?」

「うん。一緒に住んでたから思い出も多くて」

「そっか」

「僕にとっては、この上ないおばあちゃんだった。しずくの祖父母はまだ元気なの?」

「うーん……しばらく会ってないから分からない」

「会える時に会っておいた方がいいよ。ある日突然……どうなるか分からないから」

「確かに……」

 物思いに沈むように黙り込み、手を合わせた。

「しずく」

「え」

「帯広まで来てくれてありがとう。何もなかったでしょ」

「生まれ故郷をそんな風に言わない方がいいよ。友達はたくさんいるでしょ?」

「いるけど、みんな都会に出て行ったし……住み慣れた街で安心はするけど、その分辛いこともある」

「それでも、永久にとっては大切な場所でしょ」

 永久は頷く。

「私は来られて嬉しいよ。永久の思い出の地だったら尚更ね」

 どこか、透汰のことを考えてしまう永久がいるようだ。言葉をかけても、次々に否定するからやるせない。

「そうやって素直に気持ちを言葉にするところ、好きだよ」

 好きという言葉を、あまりに平然と言われると思映ゆい。

「それってどういう意味? 口説かれてるの?」

 せっつくように言う。

「素直だからいいねって、言ってるだけでしょ」

「なんだ、残念」

 永久が立ち上がって、

「さぁ、行こうか」

「もういいの? まだいいよ。気軽に来られないでしょ」

「大丈夫。これも持ってるから」

 永久が水色のお守りを取り出した。年季が入っていて中身が少しだけ見えてしまっている。もともと青色で、褪色して水色になった。

「おばあちゃんにもらったやつ?」

「僕が渡そうと思って買ったお守り」

「ああ……渡せなかったってこと?」

 永久は頷いて、

「亡くなる直前に、おばあちゃんをショートステイに預けて旅行に出かけてたんだけど、その途中で亡くなったんだ……旅先で買ったんだけど、行き場がなくなっちゃった……」

 しずくは視線を落とし、そっと呟いた。

「行こうか。次は鎌倉だね」

 


                 4

 しずくは興奮を隠せないのか、足をブラブラさせている。

 JR横須賀線に揺られて二十分。鎌倉が近づいてくると、緊張感にも包まれた。

「なんかあるの?」

「別に何もない」

 しずくは座り直した。

「来たかった場所なんだよね? 楽しもう! 僕もテンション上がってきた!」

 しずくは笑顔で頷く。

 鎌倉駅に降り立つ。木材の香り、英語、中国語が飛び交い独特のブレンド。

 しずくは絵画を嗜むように、優しい足音を鳴らして歩く。チアとしてグラウンドを駆け回っている時の機敏な動きはない。オフのしずくを見ていると新鮮でならない。

 遅刻しそうなのか、鎌倉高校の制服に身に着けた男女が人々をすり抜けていく。風情と歴史を感じる駅に、若さもあって微笑ましい。

 西口を出ると、快晴の空が多くの観光客を溶かすように照らす。

 バスを降りる観光客を横目に、鶴岡八幡宮へとつながる道に出た。周辺地図を調べてきたのか、しずくの足取りに迷いがない。行先だけを告げられて、しずくの後ろを歩く永久は、少しばかり申し訳なく思った。

 不意にしずくが立ち止まる。

 そばには小ぢんまりとした土産屋。手書きの値段が貼られ、家族経営の老夫婦を思わせる。長蛇の列を作るわけでもなく、目立った看板があるわけでもない。

「ギフトショップ?」

「ここレストランなんだ」

「そうなんだ」

 商品が陳列されているスタンドの横をたどっていくと、奥にテーブルが見える。エプロンをして眼鏡をかけた女性店員も確認できた。

「見た目は分かりにくいけど」

「有名なとこ?」

「ああ……インスタに載ってた」

「そっか。ここでお昼食べるの?」

「別のところがいいな。他にも、調べてきたから」

 しずくは先を行くと、永久も従う。

 目と鼻の先にある鶴岡八幡宮へと足先を向けた。

 入り口前で無数のシャッター音。有名人になった気分で門をくぐった。

 永久も同様にカメラを向ける。しずくの後ろ姿が中心にいる。

 カシャ。

 日差しを避けるように、しずくは手を額に持ってくる。目を細めながら天を仰ぐように上空を見つめ日差しを真っ向から受け止める。まるでダンスの決めポーズのようだ。

 再びシャッターを切った。

 しずくは後ろを振り返って、

「盗撮しないでよ!」

「ごめん。でもほら」

 写真の完成度で許しを請う。

「なかなかうまく撮れてるね」

「でしょ?」

 しずくは内側にカメラを向けた。スクリーンにはしずくと永久。連写した。

 本堂を参拝してから売店に立ち寄る。

「お守り、買う?」

「おばあちゃんにってこと?」

「うん。結構年季入ってたよね? 新しく買ってもいいかなって」

「でももう渡せないし」

「あまりにもみすぼらしくない? 見てるのも可哀そう」

「別に要らないかな」

「買いなよ。買ってあげるから」

「買うなら自分で買う」

「これは?」

 しずくが手にしたのは赤いお守りだった。威厳を示すように<病気平穏>と丁寧に縫われている。

「このままじゃ、おばあちゃんが可哀そうだよ」

「本当に嬉しいのかな」

「え」

「おばあちゃんは、新品よりも思い出の詰まった古い物の方がいいんじゃないかって思って……物欲もほとんどなかったからな……」

 おばあちゃんの話になると、こだわりが強くなって意志の強さが見える。どんな人だったかを知っているからこその行動なんだろう。

「女性は何でもきれいなものを眺めていた方がいいと思うんだけどな」

「いいの。きっとおばあちゃんは要らないって言うから」

「そっか」

 永久は逃げるようにお手洗いに駆け込む。

 しずくは赤いお守りを購入した。

 しばらく鶴岡八幡宮で時間を過ごしてから、いくつもの店が居並ぶ道に入った。

「結構調べてきてくれたよね?」

「え」

「だって、地図とかも見ずに迷わず来られたよね?」

「え、ああ、まぁ……」

「ありがとう」

「私が行きたいって言ったんだし、当然だよ!」

「そっか」

「それに、一緒に行きたかったから……」

 そう言ってしずくが一人先を行く。

 この間から素直に気持ちを言葉にする。好意を伝えられているのか思わせぶりな発言なのか。人と平等に接したい永久にとって恋愛は苦手分野だ。

 これまでに交際した女性はいるが、特定の相手に特別な愛情を注ぐのが恥ずかしい。格好つけるのが苦手で、どんな時でも等身大の自分でいたい。今までも交際寸前まで発展しても、レールを飛び越えることができなかった。

 しずくが蜂蜜店に入った。種類が豊富で地方にも多数店舗を構えている。

「永久、これとこれ、どっちがいいと思う?」

 候補に挙がっているのは、みかん蜂蜜とレンゲ蜂蜜だ。

「ああ……」

 永久としては、棚の端にある北海道産のシナノキ蜂蜜が好みだ。

「みかんかな」

「おお! これが良いなって思ってたの! よく分かったね」

 漂う恋愛色をかき消すようにしずくが言っているような気がする。

 お願いだから普段のしずくでいてほしい。過度に気にしてせっかくの鎌倉が楽しめなくなってしまう。

「しずくの目線がこれにあったから」

 みかん蜂蜜に決まり購入を済ませると、再び鎌倉駅に戻って江ノ電に乗った。

 七里ヶ浜駅で降りて、海岸沿いを江の島方面に向かって歩く。

 相模湾から押し出される波音と、何度も行き来する江ノ電の走行音が絶妙にマッチしている。

 しずくの長髪が空に翳(かざ)されるようにして靡(なび)く。その姿があまりにも美しい。時折見せるうなじも彩りを与える。

 永久は砂浜に下りて海沿いを歩きたかったが、今日はしずくの旅だ。

 次に訪れたのは満福寺だった。

「ここって義経で有名な場所だよね?」

「あ、知ってるんだ」

 源義経が、腰越状を書いた場所として知られる。階段を上がると腰越状を認める(したためる)銅像が見える。派手さも大きさもないがどこか圧倒される。振り返れば相模湾と、それを折々遮るように江ノ電が行く。

 お昼ご飯は満福寺のすぐそばにある小さなレストラン。

 立錐(りっすい)の余地がないほど狭い階段を上がり、中に入ると客は一人もいなかった。いかにも知る人ぞ知るレストランという感じで静まり返っている。

 窓際のテーブル席に着いた。

 無数の歓声を送る野球ファンと関わっていることを考えれば、しずくはこじんまりとした場所が好きなのかもしれない。

 新鮮なしらすが散らばる丼とお味噌汁に漬物。

 しずくはゆっくりと噛みしめるのに対して、永久は掻きこむように食べている。

「美味しい?」

 しずくが訊く。

 永久の子供のような無邪気な笑顔が答えだ。

 しずくが残った丼を差し出す。

「え?」

「私のも食べていいよ」

「いいよ。足らなかったらもう一つ頼むから」

「いいの。小さい……」

 声が奥歯に引っかかる。

「小さい?」

「もっと、なんていうか、小さい器だと思ってたから、少し多いかな」

 しずくは果てなく広がる海に視線を固定した。

 

 ――訊いてまずいことでもあっただろうか。

 

 余計なことは気にしない。

 分からないことを気にしても仕方のないのだ。

 透汰のことも然りだ。


 食べ終わると、波が砂上を洗う海岸に向かう。

 永久も行きたいと思っていたからしずくについて行く。

 北海道の海沿いは寒い。滔々(とうとう)と風も吹き抜けて長く居座ることはできない。でもここは違う。いつまでも潮風を浴びていたいと思える。

「今日、何日だっけ?」

 俄にしずくが立ち止まってしゃがむ。

「六月十二日」

 近くにあった枝を拾い上げて、砂上のノートに日付を書く。

「鎌倉記念日」

「うん」

 しずくは写真を撮る。

 波の音だけになる。

 永久も敢えて口は挟まない。

「ありがとう」

「え」

「一緒に来てくれて」

 目を合わさないしずく。

「実は、一人で来るのが怖かったんだ……」

「どういう意味?」

 なんとなくそう感じていたが、まさか本当だったとは。

「……」

 鎌倉旅行を楽しむしずくとは打って変わって、凛々しくも寂し気な空気を醸し出している。体を丸めて言葉を選んでいる様子を見ると、出会った時に似ている。振付が体に馴染まずチアのステージに向かう恐怖と闘っていたしずくだ。滴という名の涙が落ちれば完全再現される。

「だから、どうしても永久と一緒に来たかったんだ」

 質問に答えていないことに、しずくは気が付いているのだろうか。

 ここは空気を読んで、そのまま肩を抱いてあげた方がいいのか。

 それとも吐露させて、心的負荷を軽減させてあげた方がいいのか。

 永久なら後者を選ぶ。しずくの場合はどうなのか。

「じゃあ、僕はしずくに選ばれた男なんだね。なんだか嬉しいな」

 目線は合わせないが、しずくはクスっと笑う。

「何?」

「訳、訊かないんだ」

「訊いても答えないでしょ」

「……」

 さっきよりも強く、しずくが口を紡いだのが分かった。

「言いたくないなら言わなくていい。誰にだって言えないことあるよ。透汰も、そうだったのかもしれない……」


 永久の顔を見下ろす。

 体感的には短く感じたのだ。しかし、一時間以上はいたことになる。

 草臥れてしまった永久は寝息を立てていた。

 仕事でもまだまだ気を遣うから、心の疲れも手伝っている。

 帯広でもゆっくりできなかったようだ。

 しずくは申し訳なく思った。

 好き勝手に歩きすぎてしまった。それでも、永久は嫌な顔せずについてきてくれたのだ。しずくの膝の上で眠る表情を撫でる。こうやって、じっくり表情の仔細を確認できるのは今ぐらいだろう。だから時間を引き延ばして砂浜に居座るんだ。


 誰かが人生の幕を閉じる時は、こんな感じなんだろうか。

 心配になって永久の脈に触れる。ちゃんと動いている。勝手に胸を撫で下ろす。

 

 ――胸に温めている気持ちを伝えたい。


 知り合って間もないうちに伝えてもいいものか。

 そんな悠長に構えていていいものかと、身の上を自覚する自分もいる。

 あのことがなければ、永久が告白するのを待っていただろう。

「すきだよ、とわ」

 聞こえてない。口パクで告げるズルい告白。

「やさしいとわがすき」

 少しだけ声量を加えた。

 永久に気付いてほしいと思う反面、開眼されたらどんな表情をすればいいのか分からない。まさに見切り発車だ。

「ステージでおどれているのは、とわのおかげ」

 何も起こらない。

「でも、だれとでもすぐなかよくなるから、しんぱいだよ。おんなのことは、ほどほどにしてほしい」

 眠り続ける。勇気を出して告白しているのに、何の音沙汰もなく流れていく。そこに波の音が埋め込まれても起きない。

 永久が寝返って砂浜に頭を落とした。

 しずくの心臓がえぐられた。起きたかと思った。

 砂浜の布団から抱き上げようとする。頭と上半身だけでも重い。深い眠りを物語るようにずっしりしている。

「そんなところで寝たら痛いよ」

 流れた着いた木の枝や砂利もあるのだ。

「波にさらわれちゃうよ」

 それでも起きない。ふつふつと勇気が湧いてくる。

 顔を近づける。キスをした。唇の震えを閉眼して抑える。

 でも目を覚まされたら言い訳できない……別にいい。バレてもいい。

 気持ちは本気だから。体を震わせながらもしばらく唇を重ねていた。

 その時だった。永久の黒い眼球が見えた。

「あ」

「あ、ごめん」

「あ、ううん」

 しずくは背を向けて、

「疲れちゃったよね。歩きすぎたし。ごめん」

 とにかく言葉を発していないと気まずい。

「時間、大丈夫?」

「大丈夫」

 冷たい口調だったが許してほしい。

「まだ行きたいところあるよね?」

 砂を払いながら言う永久。

「ないよ」

「そっか。もし気になるとこあったら、教えて」

「……ありがとう」

 キスされたことには気が付いていないようだ。徐々にしずくは永久に体を向ける。

「海の音を聞きながら寝るって、最高だね」

 言下に頷く。

「近くに住んでたら、毎日でもここで昼寝したいな」

 しずくは何も言わず頷くだけ。

「どうした?」

 頷いた時に何かが飛んだ。

 しずくは首を横に振るだけ。

 永久は肩を抱く。しずくは抵抗も何もしない。

「泣いてるよね。何かあった?」

 しずくは、再度首を振る。

「じゃあ、嬉しくて泣いてるってことでいいの?」

 しずくは深く頷く。

「ならいいんだけど……」

 永久も無言になり、自然がもたらす環境音だけになる。

 変わらず肩を抱いてくれている。この時間をどう捉えたらいいのだろう。

 もう一度告白なんてできない。ましてやキスなんて。焦りとささやかな幸福が混在している。きっと、多くを望んではいけない。今の幸福で十分だと思えないから、不幸になる。

「しずく」

 身体が弾んだ。

「キスした?」

 硬直する。永久も気付いたはずだ。

「したよね?」

 返事なし。

「付き合ってないのに、キスは大丈夫な人?」

 平然と言う永久をどう捉えたらいいのか。

 答えは相手による。永久なら大丈夫だ。

 しかしそれを聞いて、どんな反応をするか。

 軽薄な女だって思われたくない。怖い。

「どんな答えでも、嫌いになったら嫌だよ」

 日陰に隠れて必死に身を守る女の言葉だ。

「しずくの本心でいい」

「永久なら大丈夫」

 これが最後の告白にさせてほしい。

「永久はどうなの?」

「しずくが好きだよ」

 キスがありかどうかではなく、もう一つ飛び越えていた。

「本当?」

「うん」

「色々迷惑かけちゃうかもしれないよ」

「いいよ」

「信じていいの?」

 永久の視線を感じた。ゆっくりと横を向く。

 無邪気な笑顔がある。それが答えだった。

「お腹空いた。どこかいいことある?」

「ちゃっと調べたから任せて。とりあえず、鎌倉駅に戻ろう」

「うん」

 鎌倉駅に到着して改札を通る前に、永久が駅員に話しかける。

「切符を持ち帰ってもいいですか?」

「いいですよ」

 言下に承諾して日付が記載された円形の判を押した。

「気軽に来られる場所じゃないから」

「鎌倉、楽しかった?」

「もちろん。しずくとも付き合うこともできたしね」

 溢れんばかりにこぼれる笑顔が眩しい。日が暮れても常に光に当たっていられる。永久と交際する上での特権だ。


                 5

 札幌へ戻ってきた。

 永久との交際が始まった。

 旅行中に気持ちを伝えるつもりはなかったが破竹の勢いだった。

 記憶は曖昧だ。羞恥心や自尊心で口にできないことも、永久なら訳無かった。それが不思議でならない。

 自然に足元が弾んで、グラウンドに駆け出していきたくなるぐらい気分は高揚している。チアメンバーに、片っ端から鎌倉での出来事を話し尽くしたい。試合では新しい笑顔を観客に届けられる。

 しかしそんな風船のように浮ついた気分は、住処が近づいてくるにつれて重くなる。

 今にもユニが藪の中から飛び出してきそうで身が小さくなる。赤点を気にして帰り道が憂鬱な中学生みたいだ。勢いだったとはいえ後ろめたい。

 学生時代から、優等生として通ってきたのも影響している。そんな真面目さを内側から破壊しようと、煙草に吸ったことがあった。白い煙を吹いている自分に違和感しかなく、習慣もなかったからデスクの引き出しに追いやるしかなかった。誰にも見つかることがなかったおかげで、優等生の地位は守られた。

 高校生の時、プロ球団のチアチームのダンスパフォーマンスに魅せられた。そこからダンス動画を漁り、様々なジャンルに手を伸ばしたが、落ち着いたのはプロ球団のチアチームだった。手を伸ばせば、手を差し出してくれる。その距離の近さ。近づくことさえも許されないパフォーマーよりも、応援してくれる人のそばにいたい。そう思った。

 しずくの推しは、「なつき」というパフォーマーで、小柄な女性だった。力強くも俊敏なダンスに笑顔が加わり、一気に心を掴まれた。

 ステージ終わりに名前を呼んで、ファンをアピールする。無数の声援が飛び交う中でも、なつきは声を拾い上げてくれたのだ。それで気持ちは固まっていった。

 クラスメイトがいるダンス部は恥ずかしくて気が進まず、県外にあるダンス教室に通った。週三回、約一時間かけて通っても嫌にならなかったのは本気だったという証明だ。

 馬鹿にならない受講代もなるべく稼ごうと、コンビニで働き始めた。それでも学業を疎かにするのは悔しくて、通学時間とダンスの休憩時間は教科書を開いた。

 制限時間があると、最低ラインを決めて学習し、勉強が捗っていることが分かり、時間がないという意識は薄れた。

 なんとかなる。

 ダンスの汗を滲ませながら学業に励む自分が少しだけ好きだった。踊れて成績も良ければ格好がつく。やりたいことであれば、突っ走るだけの根性もあるんだと、意外な一面にも驚いた。そんなしずくを周囲も応援してくれた。背中を押されてダンスの腕が伸び、成績も維持された。

 そんな優等生が、永久との交際を始めた。

 禁断の愛。そんな言葉は、もう時代遅れかもしれない。

 でも、それは自分を納得させるための言葉だった。

 本当に大切に思うなら、気持ちは胸の奥にしまっておくべきだった。

 けれど、もう伝えてしまった。もう戻れない。後悔よりも覚悟を選びたい。

 開き直るわけではない。ただ、前を向いて歩こうと思った。

 住処に到着するとユニと遭遇した。前向きに歩いたのも束の間だった。空気が一気に張りつめ、体が硬直した。

「今日もお疲れさまでした」

「お疲れ様です……」

「遅かったですね? 夜道ですから気を付けてください」

 いかにもしずくの身を心配しているように聞こえるが、実際はそうじゃないだろう。やましいことがあると疑い深くなる。新千歳空港に着いたのは、午後九時ごろだ。そこからすぐに札幌に出向いた。決して寄り道していたわけではない。

「すいません」

 ひとまず謝っておく。

「この間、お話していた子は、その後、何か変化はありますか?」

 やはり知っているのか。

「特に何も……大丈夫だと思います」

「大丈夫とは何でしょう?」

 じわりじわりと主旨に迫る。息を飲んでから答える。

「透汰の話題は出なかったということです。気にしないようにしてる様子はありましたが。気にしても仕方ないと、彼自身も思ったんだと思います……」

「話しても着地点がありませんからね。分からないことに水を向けて、時間を無駄にするほど馬鹿げたことはない。心底嫌っている相手と、時間を共にするようなものです」

「ええ……」

 前回の優しい口調とは大きく異なる。根っからの冷徹さではないと感じたのは、早計だった。

「彼の話題はなるべく出さないようにしてください」

「はい……」

 もちろんだ。永久の寂しそうな顔なんて見たくない。満足のいく答えも出せないのに無責任だ。

 共に無言になる。

 喉を力づくで突かれたような空気が漂う。苦手な人とエレベーターの密閉空間に押し込まれたようで冷汗が出る。そのせいで心地良いはずのそよ風が冷たい。

「あの……」

 耐えられなくなった。隠し事はできない。

「実はその彼と、お付き合いすることになりました……」

 優等生に嘘を突き通すのは無理だ。

「存じ上げていますよ」

 何も言えなかった。心臓が掴み取り出されそうな気分だ。

「いいんじゃないですか」

 目を剥いた。

「なぜですか?」

「前にも言った通り、あなたのことはとりわけ心配していません。最後にはちゃんと落とし前をつけると思っています」

 婉曲的な言い方で、尚且つ圧力も含んでいる。

「信用というやつです」

 返す言葉がなくて、「失礼します」と言うに留めた。もう聞いていられなくて住処へ消えた。最後までユニの視線をべったりと感じている。

 その『落とし前』の意味は、いつか分かる気がした。


 ――まさしく永久との別れだ。


 分かっていたことだ。今更驚くことでも動揺する話でもない。それでも一緒にいたかったということだ。わがままだろうか。いや、今は考える必要ない。今日交際がスタートしたばかりだ。限りがあればこの時間を楽しめるようになる。笑顔のそばにいることができる。それだけが、不安定な心を支えていた。


                 6

 久しぶりにできた彼女らしい。永久の表情はどこまでも明るい。

 その気持ちを包み隠さず表現するから、しずくもそばにいることの意味を見出している。

 水を差したくないが、プロ野球チームのチアをやっていることは内密にしてほしいと頼んだ。球団の一社員であるのだから、口止めする必要もないが念のためだった。

 永久と時間を共にしていると、自ずと会話をする機会が多くなった。

 店やレストランの店員と知らぬ間に仲良くなっている。他愛無い世間話や、商品知識を身につけるような質問が滑り落ちる。それが実に自然だから、相手も心を開いて会話が弾む。

 しかし、適度に距離を置くこともしている。

 相手の心の開き具合を瞬時に察知して立ち位置を変える。その時の寂しそうな表情が心を擽る。そうなったのは、中学時代にちらほら陰口を聞くようになったからだった。

「馴れ馴れしい」

「どうせ女子と絡みたいだけ」

「女好き」

「マジ寄ってくんな」

 鉄棒で胸を破壊されるような感覚に襲われた。

 それ以来、周囲の目を気にして本来の姿を出せなくなった。

 永久には、様々な笑みがある。

 時折見せる場を取り繕うような愛想笑い。

 相手の懐に慎重に入り込むように見せる優しい笑み。

 心許せる相手に見せる心底の笑顔。

 好奇心が跳ねる笑顔。

 気持ちを引っ張り上げるような笑顔だ。

 ある時、ふと永久が言った。

「しずくの笑顔が、どれだけ人の戸惑いや不安を取り除いてくれているか。チアが天職だね」

 人間関係を通して傷を抱えた永久だからこそ言えたことかもしれない。

 もしも心の切り傷が少しでも癒せるなら、涙一つでも落として治してあげたい。

 新しいダンスに怯えて、泣き蹲っていたしずくにかけた励ましも、そこらに転がっている安易な激励ではなく、本心から伝えてくれたのだ。だから恐怖を潜り抜けて前を向けたのだ。


 永久の視線は、スマホから離れなかった。

 時間が経っても、<たまゆら>の店主の旦那から連絡はない。

 店舗にも出向いていない。透汰をどうしても思い出してしまうからだ。

 忘れようとしても透汰の名が木霊する。もう待つしかない。

 店主も元気になったら、しずくも連れて行きたい。

「透汰のこと考えてた?」

「え」

「図星でしょ?」

「いや」

「デート中に他の人の事考えてるの? 女の子のことじゃないからいいけど」

「ごめん……」

「いいけどさ」

「分かってるよ。気にしても仕方ないってことは」

 透汰のLINEも既読になっていなかった。

「永久にとって大切な人だって分かってるから。でも、ずっと考えてると辛くなるよ」

 しずくなりに言葉を選んで伝えた。永久を責めるような言い方はしたくない。ただ大切な友達を案じているだけだから。

「でも仕事も忙しいし、いつも考えてるわけじゃないから大丈夫」

 そうは言っても腑に落ちていないのは見るに明らかだ。

 このままだと本当に気が滅入ってしまう。

「大丈夫」

 永久に似合わぬ無理に作った笑顔だった。これも数ある笑顔の一つだ。

「今はデート中だからね!」

「分かってるよ!」

 その時、スマホが震えた。すぐに画面を見たかったが今は止めておく。しずくの言うように透汰のことで気を取られてしまってはデートどころではなくなる。しずくという素敵な彼女がいるにも関わらず、他の誰かにうつつを抜かすような真似は失礼だ。楽しむしかない。そう何度も心の中で繰り返しているのに、どうしても行動が伴わなかった。

「しずくは札幌生まれ?」

「石川かな」

「かなって?」

「お父さんの転勤が多かったから生まれは石川だったかな……」

「そうなんだ」

「育ちは色んなとこ行ってからよく分からないな」

「そっか。じゃあ、代表して石川も行ってみたい」

「いいよ……でもディズニーとかも行きたいな」

「行こうよ! 実はまだ行ったことなくて」

「絶対行こう!」


 夜になり改札内に消えていくしずくを見送る。

 自宅まで送り届けるつもりだったが、「明日も仕事だからここでいいよ」と言って足早に行ってしまった。以前もそうだった。今は恋人同士なのだから、家を知られてもおかしくはない。それでも、彼女の背を追いかける気にはなれなかった。

 親と鉢合わせする可能性があるから嫌なのだろうか。

 それとも本心で永久の帰りが遅くなることを気にしたのか……。

 また分からないことを気にしている。

 しずくが言ったことを信じるしかない。変な勘ぐりは交際関係に影響を与えかねない。とにかく信じることだ。

 永久も帰路につく。ふと思い出す。通知がいくつか来ていたことを。

 案の定、透汰からではなかった。期待した自分が馬鹿だった。

 しかし見慣れないアイコンが存在感を放つ。店主の旦那からだった。

「体調も落ち着いたので、夜だけ店を再開します」

 そんな簡潔な文面だったが、胸の奥の石がひとつ外れたように感じた。


 時刻は午後八時過ぎ。

 <たまゆら>は九時までだ。行けばきっと喜んで出迎えてくれるだろうが、閉店前は行くのは気が引ける。自殺未遂が引き金だからどんな顔をして会えばいいか。思案顔が続く。

 気が付けば、<たまゆら>の前に影を落としていた。

 鼓動を聞きながら店内を覗き込む。まだ営業を再開したばかりで、客足はまばらだった。最初はこんな感じの方がいいだろう。丹念にテーブルを拭いている店主がいる。

「こんばんわ」

 普段通りを心がけた。

「あ、いらっしゃい」

 ひとまわり小さくなった店主の姿だった。相当な精神的ダメージを思わせた。営業再開という選択肢が本当に正しいのか分からなかった。

「おひとり?」

「えっと、今日は様子を見に来たというか……旦那さんからLINEを頂いたので」

「あ、ありがとう。心配してくれてたって聞いたわ。本当にごめんしてね」

「いえ。あの、無理しないで下さい」

「ありがとう。でも、ずっと寝てるのもよくないと思ってね」

 店主もふと考えてしまうのか。特に不慮の事故で息子を亡くしたのだ。考えるなという方が難しい。永久の関係性の浅い友人関係とは訳が違うのだ。

「何か食べてく?」

「いえ。今日は帰ります」

「気にしなくていいのよ、私のことは」

 そう言って自ら負担をかけているのだろう。客に真摯に向き合うのはいいが、今は店主自身のことを優先した方がいい。

「本当に大丈夫です。実は、もう食べてきたので」

「そうなの」

 気が楽になるように声をかけたいが、どう言えばいいか分からなかった。明るく笑い飛ばすこともできず、沈痛な顔をしても相手を暗くしてしまう。ここまで来たのはいいものの、細かいところまで配慮できない。永久の長所である行動力は裏目に出てしまっている。

「こっちの生活は慣れた?」

「あ、はい。この間、実家に帰ってお墓参りにも行ってきました」

「そうなの。帯広だったわね?」

「はい」

「ご両親は息災だった?」

「はい。相変わらずでした」

 店主はにっこり笑う。その後、立て続けに三つ質問が飛ぶ。どうやら話し相手が欲しいようだ。それなら得意分野だ。店主が気の済むまでここに居続けよう。

「最近、彼女もできたんです」

「そう。最初のことを考えると、ガラッと変わったわね」

「はい。僕も驚いています」

「また彼女も連れてきてちょうだい。こんなとりわけ有名でもないけど、気に入ってもらえるように頑張って作るわよ」

「きっと喜んでくれると思います」

 とことん付き合おうと思ったが、だんだん気まずくなってくる。どんなに人と話すのが得意でも、本当に必要な時には、言葉が見つからないものだ。それが今の自分なのだと思った。

「あの……」

 店主は軽く頷く。

「あの、僕がここに初めて来た時、心細くて脆弱な気持ちを、店主に救ってもらったので、無理せずに……あの……」

 店主は意図を汲み取ったのか、笑顔で頷いた。そのまま笑みが消えぬまま永久を見つめている。しかし視線は虚ろだった。辛うじて足元を支えるような不安定な胸中が透けて見えるようで辛い。見ていられなくてこう言う。

「座りませんか。久しぶりで、もうお疲れなんじゃないですか」

 店主は何も返事をしなかった。

「とた」

「え」

 虚ろな視線は貫通してどこか遠い場所を見ているようだった。

「会いに来てくれたの」

 成立しない会話。

 どう反応していいか分からず立ち尽くす。どうやら永久を誰かと勘違いしている。弱々しくもはっきり聞こえた。

「ごめんね、とた」

 店主は涙腺が崩壊している。

 呆然をしていると一つの可能性が浮き彫りになる。

 しかしはっきり理解しているわけではない。ただ漠然と底知れぬ帯広の大地を見るような感覚と似ていた。

 簡易椅子を用意して、今にも崩れ落ちそうな店主を着座させた。


 四ヵ月が過ぎた。

 しずくとの日々は、穏やかで幸せだった。

 この間、二人でディズニーランドへ行った。平日を選んだのに、園内はどこも人の波であふれていた。それでも、うまく時間を使って多くのアトラクションを楽しめた。

 夜のパレードは、遠くからでも息をのむほど美しかった。周囲の人々がスマホを構える中、永久はただ見惚れるだけだった。その光を、目に心に焼き付けておきたかった。

 花火が上がり、シンデレラ城を照らした夜。

 あの光の余韻の奥で、永久の胸にはひとつだけ、拭えぬ影が残っていた。

 店主と再会して以来、心の中でいくつもの憶測が交錯している。

 虚ろな目。焦点の定まらない視線。まるで現実から切り離されてしまったようだった。その姿を思い出すたびに、胸の奥がひやりとした。


「とた」

 あの一言が耳から離れない。ただの発音の乱れかもしれない。けれど、どうしても「とうた」と聞こえた。

 透汰の行方が知れない今、自分の中で、無理に彼へと結びつけようとしていないか。そんなつもりはない。それは店主の旦那の存在だった。

 店主の口ぶりでは、まるでバス事故で亡くなったのが透汰であるかのようだった。だが、そんなはずはない。確かに、彼は生きていた。事故が起きたのは二年前で時系列がまるで合わない。

 それ以来、〈たまゆら〉には足が向かなかった。怖い。

 店主の口から、もう二度と「とうた」という名を聞きたくない。

 そんなことあるはずがない。しかし疑ってしまう自分がいる。

 自己嫌悪に陥る。店主を変人扱いしているのはのほうだ。不幸に直面したことのない人間に、あの痛みを理解できるわけがない。

 思えば中学の頃もそうだった。「馴れ馴れしい」と陰口を言われ、距離を置かれた。あの頃と同じだ。今度は、自分が誰かを拒んでいる。

 皮肉なものだ。そして気づく。結局、人は誰かの痛みに、何ひとつしてあげられない。無力なのだ。

「永久」

「え」

 素っ頓狂な声がアパートに響く。ワンルームだから耳を突いた。

「どうしたの?」

 またか、というような口調でしずくが言う。

「何も」

 しずくは深くため息をつく。

「本当に?」

 呆れているのだ。何度同じこと注意しても変わらない小学生を相手にしている教師のような気持ちだろうか。

「どうしたらいいかな」

 出口のない迷路でなす術がないといった口調になる。

「永久」

 知らぬ間に落としていた視線を吊り上げる。

「いい加減、忘れたら」

 キッチンの流し台に身を任せて言う姿がどこか冷ややかだ。

「こんなこと言いたくないけど、いなくなった人のことを気にしているほど、永久の人生は長くないよ」

 空気が変わった。

「これだけ時間が経っても連絡がないってことは……」

 一拍置いて、しずくは言葉を選ぶ。

「透汰にとってはそれほど大事な人ではなかったんじゃないかな」

 永久の胸に、何か鋭いものが突き刺さった。血が出るわけでもないのに、確かに痛みだけが残る。

「なんていうか、誠実な人がすることじゃないと思う」

 永久はいた堪れない様子で目の前のお茶を全て飲み干した。直後に視線を落としてどこか一点を見つめている。

 言葉を選んでいるようにも見えるが、しずくには分かっていた。永久は怒っているのだ。最近になって分かってきた。

「今日のしずくは冷たい」

 何も言えなかった。自分自身でもそう感じたからだ。

「どうしてそんな冷たいことを言うのか、分からない。確かに、いつまでも透汰のことを気にしているのは理解しづらいかもしれないけど……」


 ――しずくにとっては、どうでもいい人なのか。


 唇の先まで出かかった言葉を、どうにか飲み込んだ。

 やっぱりおかしいのだろうか。一人の相手に、ここまで肩入れすることは。

 昔からそうだった。相手の気持ちを考えず、誰彼かまわず話しかけて、「馴れ馴れしい」「八方美人」と言われた。変人だと笑われて、心臓がひしゃげるほど傷ついた。

 心のどこかに線を引いた。本当の自分を出すのは怖かった。それでも少しずつ殻を破って、それでも受け入れてくれる人を、大切にしようと思った。

 その一部が浅くてもいい。理解してくれる友達を大事にするということだった。そう思えば、僕はただ“認められたかった”だけなのかもしれない。

 惨めだった。果てしなく。

「もう、忘れよう」

 しずくの声が刺さる。

 実際に見なくても、その目が何を語っているのか分かる。

「苦しい思いをし……」

 聞いていられなかった。最後まで言葉を聞く前に、永久はドアを開けて外に出た。

 それができるなら苦労はしない。忘れることなんてできない。変人だって笑われたっていい。それが自分なのだから。


 雫が落ちる。

 出て行った永久の名を呼びかけ追いかけることもしなかった。もう嫌われてしまっただろうか。永久はきっと、また話をしてくれる。こんなことで、人を突き放したりしない。だから追いかけなかった……。

 いや、違う。

 もうそろそろ、別れの準備に入るからだ。

 そう思うと、胸を踏みにじられるような思いがする。こんなことなら、最初から交際関係にならなければよかったのだ。先が分かっていても行動に移した。結局は愚かだった。

 別れを告げたら、永久はどうなるだろうか。

 きっと理由を訊ねてくるだろう。

 「別れたくない」とすがってくるだろう。

 「納得がいかない」と手を離してくれない。

 待て。

 そんなことない。

 そんな高貴な女性じゃない。

 しずくは永久にとって特別な存在だと、たかを括っていた。永久と縁があるのが、しずくじゃないだけだ。

 涙が溢れた。

 手で拭う。もう誰も助けてくれない。

 この先どんなことがあったとしても、永久には幸せになってほしい。

 ふと顔を上げると、複数の写真立てが目に入る。家族と一緒に撮影した写真。永久の性格は父親譲りなのだろう、明朗快活な笑顔が弾けている。お母さんは二人につられるように少しだけ笑う。微笑ましい家族だ。

 もう一つは、野球場のグラウンドでタオルを広げている写真だ。現地で仲良くなったのか老夫婦と写っている。ここでも永久の社交性が活かされたようだ。

 最後は車いすに乗ったおばあちゃん写真だった。お墓参りをしているのはこの人の為だ。

 そっと手を伸ばして触れる。車いすのそばで破顔一笑の永久。祖母は特に表情を作ることもなく、カメラ目線でもない。写真撮影していることさえ気が付いていない。白髪。小顔。小粒のような目。死が近づいてきている様子が見て取れた。

 しばらく眺めてから戻す。埃ひとつつけぬように慎重を期した。

 その時、ドアが開いた。

 しずくは息を飲んで振り返る。ここに戻る人間は永久しかいない。

「寒さには慣れてるけど、さすがにこの格好では寒いよね」

 頭を掻きながら苦笑いをする。

「うん……」

 半袖半ズボンのラフな格好。札幌は夏場でも夜の極端な薄着は禁物だ。

「しずくの言うとおりだね。何度も何度もごめん」

 頭を左右に振る。

「少なくともしずくと会っている時は考えないようにする」

「それ意味なくない?」

「でも気になるから」

「全然分かってない」

「そういう性格だから仕方ないよ」

 あはは、と笑い飛ばす。

 しずくは永久に抱きつく。

 もうこれが最後になるだろう。永久の体温を十分に感じることができるのは。

 どんな表情をしているだろうか。

 笑顔を見せてくれるだろうか。

 怖くて顔を上げられなかった。


 この住処に身を寄せるのも終わりが近づく。

 森々と冷え込む部屋は静寂だけが居座る。

 何の取り柄のない住処でも、身を寄せれば居心地がよくなるものだ。住めば都というやつか。

 もう別れを切り出してもいい頃合いなのに、結局は何も伝えていない。最後の最後まで抵抗するしずくがいる。まだまだこれからの男女の交際を安易と終わらせることができなかった。

 ユニの言葉を思い出す。

 嫌でも伝えないといけないのだ。

 それは分かっていたことだ。

 いまさら迷いがあるなんて無責任なのだ。

 会わない方がいい。そう結論付ける。

 LINEで伝える。

 うまく書けない。伝えたいことが多い。溢れかえる想いを漠然と並べていては理解ができないだろう。文章力の無さを思い知る。優等生の肩書が泣いてしまう。

 会いたい。

 文面が打てないのは、最後に顔が見たいのだ。

 LINEで別れを済ますような相手じゃない。

 よく考えるんだ。

 面と向かって、冷静に別れを伝えられるのか。

 泣いて永久に優しくされるだけだ。

 一方的に去ろうとしているのに、ここでも永久の優しさを享受するのか。

 芯がブレて定まらない。

 情けなくて泣ける。

 沈黙に沈黙を重ねる

 この世にLINEがなければ、すぐに会いに行くことを選択できた・・・・・・。

 今すぐ永久に会いたくなった。

 操られるように住処を出た瞬間に慌てふためく。ユニが目の前に立ちはだかったからだ。微動だにしない鉄壁のようだった。

「どこに行かれるんですか?」

「あの……」

「会いに行くんですか?」

「お別れです」

「お別れ? まだ伝えてなかったんですね」

 何も言えずに黙る。

 ユニはどこを刺激すれば容易に操れるのか知っている。把握されている自分が腹立たしい。

「仕方ないですね。LINEで伝えたらいかがですか? 時代は便利になりました。私たちの頃に比べたら考えられません」

 嫌だ。

「下手に会っても、相手に余計な負担をかけてしまうだけだと思いますが」

「でも」

「でも何ですか?」

 鉄壁が若干近くなったような気がした。

「……あまりにも素っ気なくて」

「別れというものは、いつだって素っ気ないものですよ」

 言い返せない。

「下手な気遣いは必要ありません」

 ユニの言うことは冷徹であっても決して間違いではない。

「どう話そうが離れていくことに変わりはないですからね」

 それでも最後に会いたい。

 この間、仲直りした時に見上げればよかった。永久の笑顔を見ておけばよかった。どこまでも覚束ない行動で自嘲してしまう。

「スマホを出してください」

「え」

「もしできないなら、私がやりましょう。あの方みたいに、面倒なことになっても困りますので」

 逡巡とする。

 ユニが堪らず手を差し出してきた。

 頬に雫が落ちた。

 ユニは表情一つ変えず歯牙にもかけない。さすがの鉄面皮だ。

 しずくはスマホを差し出す他なかった。

「仕方ないですね」

 かったるそうにしている。

「永久、ごめん……」

「落とし前をつけると思っていたのに、ガッカリです」

 しばらく操作している。慣れていないため動きは鈍いが、着実に別れに近づいている。

「打てました。送ってもよろしいですね」

 しずくは頬で濡らした顔をユニに晒した。女性の涙は少しでも躊躇を与えるのか。

 タップする鈍い音が聞こえた。何も言わずスマホを返してくる。

「これで終わったのです」

 せめて文面ぐらい見せて欲しかった。しかし、それをしたところでどうにかなるわけではないと、突っぱねられるのは見え見えだ。

 無力なのだ。人はどこまでも無力なのだ。

 虚しく湿った声が漂う。

「ありがとう。さよなら、永久」








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