羅喉国縦断記
宇迦国に降り立ったとき、そこが異世界との認識は薄かった。悄然とするほどに人種、生活様式、気候、生態系、植生、そのいずれもが故郷のものと酷似していたからだ。
その一方で、晦人の国、
辺境の難民街八辻から首都八十雲井までの七ヶ月間、印象に残らなかった景色は一つもなかった。青金石の砂漠「
流殞が見てきたのはいずれも不毛の大地である。生命の営みを拒絶する死の美しさと置き換えてもいい。だからこそ、恐ろしくも、強く胸打たれるのだ。
ただ、打算的なことを述べれば、これらすべてが資源の山である。以前の流殞ならこれらの価値に頭を巡らせただろうが、今となってはこの手つかずの自然に人の手が入ることに嫌悪感を覚えている。
その上、旅がもうすぐ終わろうとしているのを肌で感じていた。羅喉国縦断のことではない。この世界との決着をつけるときがもう手の届くところまで来ていることだ。
もう商人としての役割も終わる。そう思うと、感慨深いものがあったが、最後で躓くのもよくあることである。王との謁見、決して失敗するわけにはいかないのだった。
八十雲井に入った流殞は例のごとく観察を始めた。火正の話では、山の上に築かれた都は朝になると、麓に霧がかかり、雲に浮いているかのようだという。実際、都の手前で野営したとき、彼方に見える八十雲井が神々しく見えたものだ。
その実情はといえば、見た目ほど豊かではなかった。さすがに都だけあって、様々な種族が往来を行き来しているが、いずれも活気に欠けているような印象を受ける。
露店に並べられた商品も数が少ない。おそらく富州が陥落したことで、あらゆる物品が不足しているのだ。今は大丈夫でも、いずれ深刻な食糧危機を迎えるかもしれない。
百年前、富州を奪われた眞人らも同様の目に遭ったという。戦乱の時以上に人死にが出て、ついには総人口の三分の一が失われた。
この状況を打開したのはやはり齋送者だった。当時の齋送者、
横山は最初こそ感謝されたものの、喉元を通る前に熱さを忘れる民度しか持ち合わせない眞人らは技術が伝播されるやいなや、用済みとばかり見向きもしなくなったのである。
齋送者に仕える当時の姫巫女も早々に亡くなり、晩年は誰も訪れることなく一人で過ごし、そして、誰にも看取られることなく、この世界を去って行った。
横山の事績がまとめられた書物を読んだ流殞は怒りに打ち震えた。功績に対する正当な報酬も与えず、ただ実った果実だけを貪るこの連中の度しがたさはどう表現すればいいのだろうか。
このとき、流殞の中にあったわずかばかりの慈悲は跡形もなく消え失せ、自分がこれからやろうとしていることは正義だとの思いを強くしたのである。
そのために万朶の民の力がいる。彼らが弱くなっても困るのだ。食糧支援、これが王との交渉に臨んでは、流殞の持つ最強の手札となろう。
とはいえ、王に会う前に旅の汚れを落とさねばなるまい。火正は定宿にしている宿場まで流殞を案内すると、そのまままた北へと戻っていった。
てっきり王の下まで案内してくれるものかと思っていたが、火正が言うには王城への連絡はすでにつけてあり、いずれ迎えのものが来るだろうとのことだった。それまで都見物でもと、これまでの旅路で働いた分の給金を渡してくれた。
ひとまず時間的猶予が手に入ったと思った流殞だったが、すぐに宿の主人が来客を告げてきた。身を清めようと服を脱ぎかけたところだったので、やむなく着替え直して、対応することにした。
「こっちの連中も無粋なのねえ。ようやく二人きりになった旦那様と愛を育もうと思ったのに」
黒依がそう愚痴るが、行為をするために身体を洗おうとしたわけではないと反論しかけて、流殞はその馬鹿らしさに一度は開きかけた口を閉ざした。
来客を迎えるために階下に降りると、予想通り、来客は王城からの使者だった。この国の王様はずいぶんとせわしないことだと苦笑しつつ、用件を聞く。
これまた予想通りに至急参内するようとのことだった。急いで部屋に戻り、身なりを整え、ここまで持ってきた一張羅のスーツに袖を通す。
使者に待たせたことへの非礼をわびると、その後に続こうとしたが、黒依が一緒について来ようとするのに気づいた使者は、同行者は遠慮するよう申しつけた。
一時的にでも黒依から解放されることに清清とした流殞は後ろにいる黒依に向かって偽悪的な笑顔を向けた。
「だとよ。おれの金やるから、少しここで遊んでろ」
「あら、あたしがいなくて、誰が自分の身すら守れない旦那様を守るというのかしら?」
面憎いほど不遜な笑顔を返す黒依に、流殞は表情を改めて、密着するほど近くに寄り、その耳に口を近づけた。
「いいか? 王様が一人で来いって言ってんのは、おれを試してるからだ。おれの信用が王様に得られるかどうかはそこにかかってんだよ。てめえの軽はずみな行動ですべてを台無しにしやがったら、てめえとの契約もなしだ。もう一度言うぞ。ここで待ってろ。刺刀さんが来るかもしれないしな」
刺刀とは八辻で分かれ、以後別行動をとっている。刺刀は羅喉国に潜り込んだ月岡衆の指揮を執りつつ、地図を作成しながら、流殞たちの背中を追っているはずだ。
今どこにいるのかはわからないが、入れ違いになっても困る。受け入れのためにも黒依には残ってもらわなければならないのだ。
「そう? なら、ご勝手に」
いやにあっさりと退いた黒依に、流殞は一抹の不安を覚えたが、いつまでも拘泥しているというわけにもいかない。だから、気持ちを切り替えた流殞には黒依がつぶやいた独白に気づかなかった。
「あたしも勝手にさせてもらうけど」
黒依はそうつぶやくと、宿屋の壁に月岡衆だけがわかる目印を素早く書きつけ、陰形の法を用いて姿を隠す。
傍目から見たら、彼女の姿はまるで煙のように消えたように映ったはずで、現に近くを歩いていた通行人がいきなり女が消えたことで腰を抜かしていた。
そんな小さな事件が都の一角で起こっていたとも知らず、流殞はただ使者の背中を追って、都の最奥に見える宮殿らしき建物へと向かっていく。
「こういうときって、普通、馬車とか用意するもんじゃねえのか? それとも賓客扱いされてないとか」
つい否定的な方向へと思考が傾くが、よくよく見てみると、どうも町中で車輪らしきものが見当たらないのに気づいた。荷は大多数が肩に担いで、持って行くという次第だ。
身分が高そうなものが輿にも乗らないのは、おそらく彼らの中では自力こそが至高の価値を持つからなのだろう。
「要するにそういう文化ってことなんだよな。だけど、まずいな、これ。技術レベルが違いすぎる。少しやり過ぎたか」
実際を目にして、よもやここまで差があるとは思わず、流殞としては危機感を抱かざるを得ない。覆すことが不可能ではないにせよ、万朶の民にかかる負担は大きくなることは明白である。
王がどこまで現状を把握し、流殞の言葉にどれだけ真摯に耳を傾けてくれるか。
流殞の息も切れ始めた頃になって、ようやく王城の姿がその全容を現した。
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