晦人の商取引

 正体が露見したと戦慄した一行はほぼ同時に臨戦態勢を取る。


 黒依が短刀を逆手に持ち、刺刀も同じく人差し指と中指の間に毒針を仕込んだ。いつでも眼前の晦人を抹殺できる体勢で、主人の命を待つも、そこは堪え性のない黒依はすぐに流殞に決断を迫った。


「旦那様、あいつ、消してもいいでしょ? あたしたちの正体を知って近づいてきたんだから、きっとよからぬ目的があるに決まってるわ」


「待て。おれを殺すだけなら、もうやってるはずだ。おまえの言うよからぬ目的ってのも知りたいしな」


「知らないわよ、後悔しても」


「おれはてめえの行動を後悔したことなんて、一度もねえよ」


 あからさまな嘘だったが、黒依を退かせるためにはこうした小細工も必要だった。納得したかはともかく、黒依は流殞の横から後ろに下がると、その陰に隠れた。攻めと逃げ、どちらにも対応できるように。


 一方で流殞はすでに黒依のことは脳裏から消えていた。


 考えることはなぜ火正が近づいてきたか、その目的である。流殞の正体を知っていた、それだけで高度な情報を扱う機関に所属している、もしくは高位情報を取得できる立場にいると思って間違いないだろう。


 一介の商人ならば、通商していない以上、「国外」の情報を知ることにあまり意味はないからだ。あるとすれば、軍事情報くらいだろうか。相手が攻め寄せてくるのならば、さっさと逃げ出すか、とどまるか、その算段をしなければならないからである。


 国内に晦人の密偵が潜り込んでいる可能性に、なぜ、気づかなかったのか。知らないうちに晦人への先入観がすり込まれ、彼らを軽く見ていたのではないか。後悔が心火となって、体内を炙っているかのような熱が籠もる。


 いや、晦人らが一枚も二枚も上手だったのだ。身体的に目立つ晦人が密偵であるはずはなく、使われたのは国内の眞人だろう。彼らはおそらく密偵としての自覚もなかったに違いない。彼らが不自然な動きをすれば、蜘蛛の巣のごとき張り巡らされた月岡衆の警戒網に引っかからないはずがないからだ。


 諜報活動は何も国家、あるいは産業の機密を盗んだり、内部を攪乱するだけではない。新聞雑誌、噂話、農作物のでき、天候、こういった何でもない情報でも、ある程度は敵情を推測することができるのだ。


 小金をもらって、まんまと密偵に仕立て上げられた間抜けはそうとも知らず、今日もせっせと利敵行為を繰り返しているというわけだ。


 その間抜けの中でも最たるものが自分だと、流殞は苦々しく思わざるを得ない。新聞雑誌にあれだけ大きく顔を出せば、否が応でも目立つし、それ故に複数の密偵が同じような情報を送ったのは間違いないだろう。


 晦人にも自らの名が届いていたとも知らず、火正に「本名」を名乗ったのは迂闊としか言いようがない。しかも病気療養として、長期入院という報道の後で、この地にいるという不都合な事実がより立場を難しいものにさせている。


 流殞は大きく息を吐いた。できるだけ火正から情報を引き出させ、疑い、精査せねばならない。この国の中枢に近い立場にいるというのならば、また別のものが見えてこよう。


「さて、火正様、いろいろとお話を伺いたいところですね。わたしが代価をきっちり取り立てることもご承知のはずですから、快く答えていただけると嬉しいのですが」


「そう身構えないでください。順を追って話しましょう。ですが、立ち話ですませられるものでもありませんので、どうでしょう、落ち着いて、一杯飲めるところでも?」


「いいですね。お供します」


 承諾しつつ、流殞は指で後ろにいる二人に合図を送った。黒依はそのままついてくること、刺刀は車を守ること、その二つだ。


 刺刀はやや不満そうな表情を浮かべたが、火正の接近を容易く許したことと晦人が構築した諜報網を察知できなかった、この二点において、主人の叱責どころか、月岡衆の信用を問われかねない状況の中、さらなる失点を避けるためにも今は黙って従うほかない。


 刺刀を置いて、流殞は黒依を伴い、火正に続いて、八辻の町を歩き始めた。雑然と渾然が奇妙に同居している雰囲気の中、流殞はそれとなく周囲を監察し続ける。街を構成する人口比は晦人、いや、万朶の民一に対し、眞人は九と言ったところか。


「一体こいつらをどうするつもりなんだ?」


 流殞がまだ「向こうの世界」にいた頃、すでに難民は社会問題化していた。難民が入ってきた国は例外なく混乱し、政情や治安も悪化した。


 国民に対する難民の比率が少数でさえ、こうなのだから、圧倒的に少ない万朶の民の国はもっと混乱するのではないか。


 今は牛馬のごとくおとなしくしている眞人だが、とかく不満をためやすい人種であり、いつかは牙を剥こう。流殞はそれを肌で知っていたから、他人事ながら、つい気になってしまうのだ。


 自分には関係ない話だと思いながらも、施政について問われたのなら、腹蔵なく答えたほうが好感度は上がるかもしれない。


 しかし、まずは目の前のことに傾注しなければならない。選択を一つ間違えたら、死に直結するくらいの覚悟で臨んだほうがいいやもしれぬ。心地よい緊張感が流殞の体内を奔り、口角は知らないうちに大きくつり上がる。


 流殞の覚悟が決まったのと気を同じくして、火正は町の中央広場沿いにある天幕の前で止まった。小さなサーカス団程度の大きさがありそうなテントは前面が解放され、入りやすくなっている。逆に逃げられやすくもあろうが、そこは食い逃げを捕まえる達人でもいるのかもしれない。


「ここなんかどうでしょう? 大丈夫ですよ、わたしも初めて入る店ですから」


 今更火正の言葉に信用もないので、黒依に探らせると、すぐに耳元に返答が来た。


「どいつもこいつも弱そう……残念」


 こいつは何を探してたんだと流殞は頭が痛くなる思いだったが、裏を返せば、護衛は黒依で十分ということでもある。ただ、火正がどの程度の実力を秘めているのか、それがわからないだけに緊張の糸を切るべきではないだろう。


 流殞は火正とともに奥の席に陣取り、適当に注文して、食事が供される間、急に火正があたりを気にしだした。


「はて? 先ほどまであなたと一緒にいたあの美しい女性は一体どこへ行ったのです?」


 一瞬、火正の言う「美しい女性」とやらが本気でわからなかったので、流殞は首をかしげたが、突然背中に激痛が走る。


 つねられたと思い、後ろを向いたときにはすでに黒依は流殞と火正の間に着座していた。すました顔がまたなんとも憎たらしいが、流殞は苦虫をまとめて噛み潰したかのような表情で皮肉を言うのがやっとだった。


「ご指名だ。せいぜい派手に花代を稼いでくれよ」


「女衒なぞに落ちぶれてしまった旦那様がそうおっしゃるなら」


 傍目から見れば、そう見えなくもない立場関係が、さらに流殞の癇に障った。舌打ちしたいのを堪えるのに、全身全霊の力をもってしなければ抑えられないほどだ。


 火正の前で醜態をさらして、交渉相手としての価値なしと断ぜられれば、機を逸するかもしれない。そう思うと、これ以上迂闊なことができず、ストレスはたまる一方だ。


 テーブルの上には次々と料理と酒が並んでいく。乾杯の挨拶もなしに黒依と火正は出された料理に手をつけていくも、彼らほどに食欲のない流殞は自分の皿をそっと黒依に押しつけると、表情を改めて、火正に対した。


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