動乱の火種

 晃仁には地統皇として全く必要のない投擲術の才能があったらしく、切っ先はまっすぐ穂叢の顔面に突き刺さるはずだった。


 圧縮された時間の中で誰もが認識を一つにした。いかな理由があろうと、晃仁が穂叢を害せば、姫巫女信仰の篤い民の信頼は大きく損なわれるだろう。


 それだけならまだしも、晃仁の即位を面白く思っていない連中には絶好の口実を与えることにもなる。晃仁は一つの暴挙ですべてを失うのだと。


 晃仁の行動があまりにも矯激すぎて、穂叢は面食らって何の行動も起こせない。一瞬後の破滅、それを覚悟して、穂叢は目を閉じたものの、いつまで経っても死を伴う痛みが訪れないことを不審に思い、恐る恐る目を開くと、驚くべき光景が眼前に広がっていた。


 誰かの腹から血刀が生えていたからである。染み一つなかった白衣は赤黒い液体に侵食されていく。自分の代わりに誰が犠牲になったのか、すぐに理解した穂叢はつい叫んでいた。


「銀鉤様!」


 名を呼ばれた銀鉤は口の端から血を滴らせながらも、温和な眼差しと微笑みを穂叢に向けた。


「お可哀想な穂叢様、いえ、この地に住まう民があのような愚物を戴かなければならないとはなんと哀れな……」


「愚物とは予のことか? 化物の分際でよくも予のことを……!」


「その化物とやらを所望したのはどなたでおいでか? 同胞のためにこの身体などいくらでもくれてやるつもりでしたが、こうなった以上、致し方ありませんね。では、地統皇とやら、このままわたくしに死なれるのも惜しいことでしょう。せめて抱擁くらいは受けられませ」


 命旦夕に迫ってなお気丈に振る舞う銀鉤の美しさは鬼気迫るものがある。腹に剣を生やしたまま、銀鉤は晃仁に抱きつこうとした。


 非現実的な光景に誰もが金縛りにあったかのように動けない。晃仁など腰を抜かすのも忘れて、破滅が向こうからやってくるのを呆然と眺めているだけだ。


 銀鉤以外は静止した世界の中、ただ一人だけ動けるものがいた。近侍はすかさず晃仁の襟首を掴むや、後方に引き、兇刃の前にその身を晒す。


 せめて近侍だけでもと思ったのだろう、銀鉤は構うことなく両手を広げ、覆い被さろうとする。近侍は小さく構えると、裂帛の気合いとともに右手を突き出した。


 掌底が銀鉤の胸に当たった瞬間、手首を捻ると、銀鉤の胸骨がまとめて折れる不快な音が響く。


 銀鉤の身体は数歩後ろによろめいたかと思うと、そのまま仰向けに倒れた。銀鉤が地に伏す音でようやく我に返った人々がそれぞれ取り押さえるも、すでにかの命は肉体にはない。


 一方で、遅れて呪縛から解き放たれた晃仁が身を挺して守った近侍を褒めなした。


「お、おお、おお、ようやった、金近かなちか。にしても、いつの間にそんなに強うなったのじゃ?」


「聖上の御為、日々密かに鍛えておりました」


 空々しく吐いた金近の言葉に真実は一片も含まれていなかった。そもそもこの金近という近侍自身、晃仁が長年つるんできた悪友ではないのだ。


 流殞が宮中に穴を開けると言ったその日から、金近は月岡衆の一人、刺刀しとうえいにすり替わっていたからである。


 では、金近はどこに消えたのか。月岡衆が拉致して、すべての情報を吐かせた上で、この世界のどこでもない彼方へと送ってしまったため、もうどこにもいない。


 元々、女を掠っては晃仁に献上してきたような外道働きをしてきたものの人権に配慮する気は流殞にも、月岡衆にもなかった。それだけにすり替えには最良の人材でもあったというわけだ。


 刺刀は晃仁が褒め囃すのを聞き流しながら、やり過ぎたことに内心で冷や汗をかいていた。いくら晃仁を守るためとはいえ、金近ごときチンピラ崩れが一朝一夕で習得できるはずもない武術を見せつけてしまったからだ。


 さらに晦人の重要人物とおぼしきものを殺してしまったことも、いずれ流殞が晦人の国に渡ろうとしていることを考えれば、明らかに失点である。そもそもそこまで考えが至っていれば、晃仁になどに剣を奪わせなかった。


 いずれ自らの命でこの失敗をあがなわなければなるまいと結論づけて、刺刀はこの場にとどまり、一部始終を観察し、委細報告することを決めた。


 ただ、後に刺刀がどこから報告すればよいのか悩むほどに事態は急速に、野火のように拡大していくことになる。


 あわや命を落としかけた晃仁は怒り狂って、捕虜を全員公開処刑するよう命じた。捕虜の中には眞人もいたが、晃仁は耳を貸さず、稲城城外で磔にされた彼らは数万発の弾丸によって、原形をとどめなくなるまで破壊された。


 処刑された眞人の遺族に一人の少女がいた。彼女は足下の石を拾うと、仰々しく守られている晃仁に向かって投げつけた。少女の力では届くこともなく、遙か手前で落ちたが、自らの敵意には敏感な晃仁はそれを見咎め、もはや発狂したかのように切り捨てるよう命じる。


 兵が逡巡するのがもどかしかったのか、自ら剣をとり、少女をかばう母親ごと切り伏せてしまった。すでに晃仁の精神は地平の彼方へと落ち、もはや善悪の別すらわからなくなっていたのかもしれない。父皇という軛から解放され、抑止力のない彼を止められるものはいなかった。


 軍が綱渡りをするかのように行っていた宣撫工作も水泡に帰したことになる。唯一の「対抗手段」たる姫巫女穂叢は眼前で殺されたことにより、一時心神衰弱に陥ってしまい、晃仁の暴挙を止める力にはなり得ないまま、大社の人間が彼女を強引に後方へと引き連れてしまった。


 さらに議会の承認も経ずに、富州全域に懲罰的課税を勝手に決めてしまう。晦人に通じていたという罪でだ。


 裏を返せば、富州の民は生まれながらにして罪人だと宣告されたも同然である。百年も放置しておいて、今更何を言うのかと憤激するも、民はまだ堪えることができた。


 危険水位は下がらぬまま、さらに一石が投じられる。今度は銀鉤の遺体を城門にさらし、これをもって肉の戦勝碑にしようとのおぞましい命が下った。


 民は恐怖した。今度の為政者は人面獣心の羅刹であり、何もしなければ、骨の髄まで食われてしまう。


 恐怖を克服する方法は二つ、一つは乗り越えることであり、もう一つは排除することだ。富州の民は後者を選んだ、というよりはそうならざるを得なかった。


 銀鉤の遺体を巡り、軍と民の間で押し問答が起こったあげく、痺れを切らした兵士たちが民に銃撃を加えた。


 威嚇射撃のつもりと後日その兵士は軍法会議で弁明したが、銃口を水平に向けて撃てばどうなるかとの判断もつかなかったらしい。民の恐慌と憤怒は一気に絶頂へと引き上げられ、彼らは一様に暴徒と化した。


 後に「富州動乱」と呼ばれる事変の始まりである。

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