番頭会議・前編
肆之原商事における最高意思決定機関は「取締役会」、通称「番頭会議」である。
番頭会議には大まかに二種類あり、一つは定例会であり、もう一つは「番頭」こと取締役の一人、もしくは複数からの呼びかけにより開催されるものだ。今回は後者であり、大抵緊急動議である。
招集したは「大番頭」こと最高執行責任者、
今の肆之原商事があるのも、この男一人の功績と言っても過言ではなく、五島がいなければ、流殞の構想も画餅で終わったに違いない。
それほどまでに五島の企画力と実行力は群を抜いていた。その上、創業時のメンバーでもあり、どの社員よりも流殞と接している時間が長いという、腹心中の腹心といってもいい存在でもあった。
そんな五島が緊急招集までしたのは、流殞が取締役会に諮らずに十商会合の中で「株式の信用売買」について言及したことに対する糾弾の意味があってのことだろう。
それがわかるだけに流殞も出席したくはなかったが、理由もなく欠席すると、次の取締役会で解任動議を出されることにもなりかねない。もっとも、今の流殞を解任しようとするほどの気概を持つものなど、五島ですらないだろうが、目的を果たすまで取締役や社員の信任を獲得し続けなければならない。
ただ、流殞の執務室から同階の第一会議室徒歩三十歩にも満たない距離であるにもかかわらず、取締役会の開催時間から大幅に遅れてやってきたとなれば、さすがに信任どうのとは言っていられない。
確かに陽輝が突然アポも取らずに来訪したという理由があるが、十商会合が終わって、自社に戻ったと思ったら、また呼び出されることになった「海番頭」こと榁戸海商の榁戸嘉彦などにしてみれば、そんな都合知ったことではないだろう。
かつて、榁戸は自社である榁戸海商の経営権を巡って、敵対的買収を試みる肆之原商事に全面的に抵抗していた。
その頑強な抗戦に流殞も舌を巻くほど感歎したが、結局は時流の波に乗り、業績を拡大させ続けた肆之原商事の資金力の前に屈したのである。
肆之原商事といえども、無傷というわけにはいかず、流殞は榁戸に礼を尽くして、これまで通り、榁戸海商の「大船頭」として委任し、さらに「本社」となった肆之原商事の常任取締役の地位も与えた。
その経緯があるから、流殞としては五島と同等、いや、それ以上に手綱を締めておかないといけない。
五島はいつでも流殞と袂を分かち、独立、あるいは流殞を蹴落とし、その地位に就くなどの選択肢があるにもかかわらず、流殞の下に甘んじるだけの「忠誠心」が存在するが、外様の榁戸にそのようなものを求めようはずもないからだ。
しかも、榁戸は普段仏頂面で会議の席でも「諾」か、「否」かぐらいしか発言せず、その真意がどこにあるのか、量りかねるのだ。
今でこそ「よき敗北者」を装っている榁戸がいつ何時牙をむくか、わかったものではない。馴れ合いではない緊張感は嫌いではないが、こう続くと辟易の一つもしたくなるというものだ。
他の取締役も、流殞と五島が厳選しただけあって、能力的には秀でているものの、一癖も二癖もあるものばかりで、心安まる相手がいないのも難点だ。
擁護してくれるのは「女番頭」加登寧くらいだろうか。それでも、彼女が向けてくるまなざしに崇拝のようなものがあるのは鬱陶しいかぎりだ。
第一会議室と廊下を隔てる大きく分厚い扉の前で、一つ深呼吸する間に出した結論はたった一つだった。
「仕方ない。怒られるか」
まだまだ先の長い道程の途中、道化役を演じるのも悪くはないだろう。意を決して、ノブに手をかけると、そのままの勢いで扉を開けた。
「いや、皆さん、お待たせして、申し訳ありません」
この手の科白を先ほども陽輝に対していったことを思い出し、流殞は内心で苦笑した。
平行して、その目は会議室をくまなく探る。第一会議室の机は馬蹄のように扉に面した部分が開き、対面する上座に普段は流殞が着席する。
その椅子のやや左後方に五島が後ろで手を組みつつ、直立不動の姿勢で立っており、流殞が入ってくるのを認めた途端、眉間にはかすかに縦皺が寄った。やはりというべきか、彼の機嫌は斜めを通り越して、ほぼ倒れつつあるらしい。
流殞の席を中心として、向かって右側に空席の五島の席と「女番頭」こと最高財務責任者兼最高法務責任者、加登寧が陣取り、向かって左側に「陸番頭」こと陸運総轄責任者兼最高技術責任者の
流殞を含め、この五人が今や巨大コングロマリットに成長した肆之原商事のすべてを運営しているというわけである。
この下に「理事会」があり、さらに五人の理事が追加されるが、彼らはあくまでも法で定められた人員を埋めるだけ要因であり、経営の核はあくまでもこの取締役たちの手に握られている。
そんな彼らの雰囲気は加登寧を除いて、敵意とまではいかずとも、十分に非友好的な粒子が飛び交っていた。
確かに流殞の事情は察するが、彼らもまた時間に追われる身であり、一分一秒が惜しいのだ。無駄な時間を過ごすなら、案件の一つでも解決した方がいいと思っているのだろう。
ついでに、彼らの間に友誼もまた存在しなかったので、語り合うべき相手もいない苦痛な時間は非常に長く感じられたことだろう。
流殞は刺々しい雰囲気の中、自席に着きながら、こう思った。
「こりゃ、荒れるな」
うんざりするが、流殞は一つ誤認していた。今まで取締役会が終始和やかな雰囲気のまま、終わった試しなど一度もなかったのだ。流殞は忘れていたのではなく、今日まで追及されることが一度もなかったから、覚えがないだけである。
「では、これより、緊急取締役会を始めます。まずは私から」
流殞が着座するやいなや、無駄なことを嫌う合理主義者である五島が挨拶もなく、口火を切った。彼は左斜め前に座る流殞の後頭部をにらみつけた。
「先刻の十商会合で、社長は株券の信用売買を口にされたと聞きました。それは本当ですか?」
「本当です。どうも彼らは緩みきっているようなので、今が仕掛ける行為だと思ったんですよ。騙し討ちのようなまねをして、榁戸さんには申し訳ないと思ってますが」
流殞の謝罪に、榁戸はただ首を横に振った。謝罪を受け入れたのか、あるいはあきれたのか、表情を見ると、どちらともつかない。流殞は前者であると強引に思い込み、ともかく今は五島の追及を凌ぐことだけを考えた。
しかし、五島は流殞の語尾にかぶせるように言葉を継いでくるため、考えがまとまらない。
「なるほど。我々には弁明する必要すらないと? 確か前回の定例会では、信用売買については時期尚早と意見がまとまっていたはずですが?」
「決して取締役会を蔑ろにしているわけではありませんが、事後承諾になったことはお詫びします。申し訳ありませんでした」
唯一の上司である流殞に深々と頭を下げられると、さすがの五島も鼻白んだ。これから長々と「お説教」を食らわせたかったのに、先を制せられた形で、消化不良と言いたげに口をゆがめた。
流殞は五島という男のことをよく知悉していた。何しろこの世界に「落とされて」からというもの、最も多くの時間ともにいたのだから。
五島はある小さな飛脚問屋の丁稚でしかなかったが、巨大な才覚とそれに見合う傲岸さを持っていて、かなり疎まれていたという。
いつまで経っても、番頭どころか、手代にすらなれず、このまま腐っていくのかと思われた矢先に流殞が現れた。
家柄や出身など関係なく、能力を重視する流殞のやり方で、五島が頭角を現すのは必然だったと言える。
その商才を早くから見抜いた流殞も五島を右腕とし、駆け上がってきたのだ。流殞が抑制装置としての暴力を求め、月岡衆の元を単身訪れようとしたときも同行したほどである。
元々五島は流殞がまだ篠原優人だった頃、一目見て、人畜無害に映る少年が大業をなせるはずもないと最初から見切っていて、実際そうなったわけだが、人々が非難する中、彼だけはいたく同情していた。
才能もないのにもてはやされ、落とされることと才能があるのに芽が出ないこと、境遇は違えど、どちらも同じようにその当時の五島には思えてならなかったからだ。
やがて名を改めた流殞が再度現れたとき、容貌こそ変わったが、五島にはそれが流殞だとすぐに気づいた。
一度どん底まで落ちた男が泥に塗れ、泥水をすすりながら這い上がろうとしている。その証拠に流殞はほぼ潰れかけていた飛脚問屋を立て直し、近代的組織に変えていった。そこに五島は強烈な衝撃を受けたのである。
この男に自分のすべてを捧げなければならない。なぜそう思ったのか、どの感情に由来するものなのか、それは五島本人すらわからない。
賭博嫌いの五島が流殞という旧世界の破壊者と新世界の創造者に自らのチップをすべて賭けたただ一回きりの瞬間だった。
こうして五島は流殞の臣下となったわけだが、有能な人間にありがちな悪癖があった。自己顕示欲の高さだ。
彼はその能力に比して、大口を叩くなどということはなかったが、ことあるごとに自分の存在感を流殞やほかの取締役に見せつけたいという欲求が少なからずあった。今回もその一例に過ぎない。換言すれば、茶番である。
流殞が頭を下げたことで、今までの五島なら一応期待値を超えたはずが、漸次肥大化していく欲望はまだ満たされなかったらしい。さらに口を開いて追及しようとする直前、綱島が横やりを入れた。
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