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  • 第4話への応援コメント

     非常に読み手に配慮して筆が取られている作品だと感じました。読み進めるに当たって、各文章、段落など、行間が空けられる箇所にいわゆる「不自然さ」や「くどさ」がなく、とてもお上手なんだなと。
     例えば僕なんかは「そもそも場面転換以外で行間を空けない」か、「ライト文芸ではセリフ数+1で空け、井戸端だけ纏める」みたいな慣習を持つのですが、そういうルールをつくったフリをして、実は冒険するのが怖くて、自縄自縛気味になる。ルールに基づいていないことが不安の種になる……

     まるでさながら【因習に取り憑かれている】みたいですよね。

     脚本は全体を通してかなり暗い作品です。テーマ性はいいと思うのですが、この路線なら「とっかかり」に飢えました。個人的には、自分がキャラよりもう少し恵まれた人生を歩んでいたために、各キャラクターへの感情移入に根気を費やしました。こんな人生を歩んでしまってすみません。
     
     自分が悟や芳雄だったら……はもう一声くらいですが、自分がヴィラン、周囲の親や村長だったら、この行動をとるだろうか……?とか思いながら読んでいました。
     村長は役職名にすぎないですが、仮にもネームドキャラですし。
     ただ、それを細かくくっつけていくと、二万字という字数制限では足りなくなっちゃうか、最初からボリュームが少なすぎる作品に着地するのが小説の難しさだなと改めて思いました。

     加えて言えば、風景描写にこだわりが見られるので、田舎の山村の表現は視覚的にも想像しやすく、人の営みではないですが、厭世的な雰囲気から背反的に磨かれた風景が見えてきます。苔むした石段、涼やかな夜風、芳雄に預けられた悟の体温。好きです。
     うーん……どうすればこの村を救えるんでしょうね。

    作者からの返信

    ありがとうございます。
    精進いたします。

  • 第4話への応援コメント

     孤独を抱えた者同士の絆を描いた物語でした。文章は非常に丁寧で、情景が鮮やかに想像でき、そのおかげで物語への没入感が格別でした。村の因習により兄を亡くし、声までも失った少年・悟は、同じく孤独を感じていた青年・芳雄と出会う。物語全体に漂う暗い雰囲気や、理不尽な目に遭う悟の姿は、読む者の心を沈ませます。しかし、その分、悟と芳雄が少しずつ心を通わせていく場面は心を温め、クライマックスでの悟の健気さに胸が熱くなりました。
     特にエピローグの小屋の情景が印象深く、静かで、そして確かな救いが感じられました。この小説は、間違いなく「祝福としての文学」として、孤独と絆の深いテーマを心に刻む一作でした。

    作者からの返信

    ありがとうございます。
    「祝福としての文学」、とても悩みながら書いたのですが、このように言っていただけて安堵しています。
     エピローグは入れるかどうか正直迷ったのですが、個人的にも気に入っているシーンでしたし、祝福を確かに感じさせるものとなっていたなら良かったです。
     意欲的な企画をありがとうございました。参加できて良かったです。


  • 編集済

    第4話への応援コメント

     ご参加ありがとうございます!

     読んでみて、すごく意欲的な因習村ものだと思いました。
     この作品は構造に一捻りがある、と睨んでいます。
     というのも。ダグリ落としの真実が村の権力者による口封じである、というのが一番象徴的だと思うのですが、この村には神秘がないんです。
    「それは、祭ではなかった。祓いでもなかった。誰も神を呼んでなどいなかった」
     このフレーズに極言されています。
     わたしの通過してきたコンテンツに限った話ではありますが、因習村ものの多くが神や怪異が本当にいるホラーだったり、魔術的リアリズムめいた世界観があったりします。村の権力者が保身のために……という展開はけっこう定番だと思うのですが、それでも大抵神秘サイドからしっぺ返しがあるのが前提でしょう。『風の方へゆけ』のように、一切の神秘が村から殺されている話は初めて見ました。まるでシャーマンのようにグダリを告げる老婆でさえ「見ないふり、聞こえないふり、知らないふり」が得意な村人の一人なのです(読みによっては、彼女もまた口封じのためにグダリを人為的に選ぶ側の一人であると疑うこともできるでしょう)。
     ではこの作品には神秘がないのか。いいえ、わたしはあると考えました。
     それが、サトルとヨシオの二人です。
     彼らが出会ったシーンに如実なのですが、まるでテレパシーでも使ってるかのような速さで互いを理解し受け入れていくのですよね。まなざしから人柄や心情を悟る描写がここだけ頻出することからも、二人の間に強い引力があるように感じられます。
     夢見がちな言い方になってしまうのですが、二人は運命なのではないでしょうか。似た傷を抱えている、というだけでは説明しきれない共鳴が二人の間にあるような気がします。たった二夜のやりとりで二魂一体のごとく絆が深まったことも、まるで魔法のように思えます。
     正一が生まれるまではサトルを大事に育てていながら、サトルに対して一切の情を育むことができなかった石原家とは大違いです。タグには「疑似家族」とありますが、サトルとヨシオは親子のような、同じ痛みを乗り越えた相棒のような、強い絆を結んでみせるのですから。
     そもそも家族という概念も、この作品においては幻想に属するのではないでしょうか。偽りの信仰のもと、堕落した功利主義を掲げる村サイドの人物はみな、家族や人間としての情というものを見せようとしません(石原家しかり、ミノルを見捨てた彼の父しかり)。しかし、村に反抗しようとしたミノルは、養子に出たサトルに兄弟としての情を注ぎつづけました。つまり、彼は家族という神秘や理想を踏み躙らずに大切にし続けたんですね。
     わたしはここに、村と村に抑圧された人々、腐敗した現実主義と祝福・神秘の二項対立を見ます。
     因習村というものは「因習」村ですから。本来なら非科学的な迷信を抱える村を悍ましいものとして描くものでしょう。外界からやってきた主人公が「こんなの間違ってる!」と村の因習を打ち毀すパターンの作品などは、啓蒙的な趣をもつでしょう。ですが、この作品においては構造が逆転しているのです。
     サトルとヨシオは因習村を啓蒙するべきことばを持ちません。サトルは幼さゆえに拙い文章を書くだけでなく、禁忌を破ってからは喋れなくなっています。ヨシオの書く文字は「学のない」字です。サトルが小学二年生までの文字なら書けそうなのに対して、ヨシオは「少」という小学二年生で習う漢字すら書けないんですよね(幸せな時代が十歳までだったとあるので、苦しい人生のうちに忘れていってしまったのでしょう。満足な教育を受けられなかったことを恨む彼が、ただでさえ最後まで受けられなかった学校の内容を忘れて行っているのは、粗暴に言うなら「しんどみが深い」です)。
     一方、村の権力者たちは教育的な描かれ方をしているんですよね。村長は家に「芳雄には読めない書」を飾っているような階級にいます。きっと学校だって最後まで通えたでしょう。「嫁の世話だってしてやる」というセリフもまた、やはり与える立場であるという自意識を感じさせるものです。ダグリ落としを行う際も、ヨシオに対して終始上から教え諭すような態度を取ろうとします。
     ミノルの「古いまま固着した村を変えようと」する試みが失敗したのも、寓意的には頷けることです。村の因習に打ち勝つために必要なのは、大人たちに現実を見せることではなかった。本当に必要なことは、賢しらに功利を語る大人たちを怯ませ気圧すような祝福の奇跡だったのです。
     そしてそれは成された。声を奪われたはずのサトルによる決死の叫びによって。
     以上はあくまでわたしの読みですが、ともかく、この『風の方へゆけ』が緻密な「構造」のうえに成り立っているのは確かなことです。たぶん読めば読むほど旨味が出てくるんじゃないでしょうか。他のひとの解釈とか読んでみたい、と思わせてくれる力があります。神は細部に宿る、ということばが相応しいような作品だと思いました。
     神は細部に宿る、ということについてもう一つ。この作品には他にもすっごいところがあると思いました。「風」のシンボルが作中徹底的に制御されているんですよね。情景描写がすっごい巧みに扱われている。
     空き家や村の外の描写における「風」や「空気」は吉兆であるか凶兆であるかに関わらず、必ずと言っていいほど澱まずに動いています。風は吹き、笑い、音を立てる。一方村の中では空気は澱み、これと言った風の描写がない。ダグリ落としやクグラといったキー概念に至っては、風の吹く戸外とは対照的な閉ざされた洞窟のなかに集約されています。「風通しがいい/悪い」なんて言い回しもありますが、細かい描写の一つ一つにそれが散りばめられている。
     で、何回も読むうちにやっと気付いたのですが、ヨシオの煙草の煙が外へと流れだす描写が初めて出てくるのが、ラストシーンなんですよね。それまでの空き家のシーンでは煙草の匂いや明かりについては言及されるんですが、煙がどう動いているについては言及されなかった。最後になってやっとヨシオは「窓の外へ煙草の煙を吐いていた」んですよね。
     これに気付いたとき、すげーっ! と腰を浮かしました。やっとヨシオの止まった時間がまた動き始めたんですよ。村との因縁にケリを付け、サトルと駆け出したことによって! それまでは単に「ここで煙草の煙が外へと流れていくの、爽やかな開放感があって素敵だなー」ていどに思っていたのですが。それだけじゃなかった。象徴的な意味が幾何学模様のように敷き詰められていた。
     職人技と言ってもいいでしょう。汲めども汲めども尽きぬ泉のように作り込まれた作品だと思います。すごかった。

     あと、これはほとんど妄想のようなものなのですが、この作品が三人称で書かれているのがすごくいいと思います。三人称という方法は、登場人物ならざる第三の立場を小説の中に入り込ませるという性質を持っています。それは神の視点だったり作中の出来事を後世から見つめる作者だったりするのですが。『風の方へゆけ』においては、サトルとヨシオを祝福するぼんやりとした語り手がいるように感じられて、そこが好きでした。
     第1話と第4話は視点が遠景にズームアウトしていく形で〆られていくのですけれど、わたしはそこに村という空間に縛られない第三の視点があるように感じられて、すごく素敵だと思ったんです。
     多分サトルやヨシオの一人称で進めていると、途中までかなり閉塞感のある鬱々とした作品になっていたんじゃないかと思います。流石に環境が過酷なので。ですが、三人称で語ることによりこの作品には一種の「風通しのよさ」がもたらされました。それが二人をそっと支える祝福の一つのように感じられてよかったです。

     個人的に好きな部分を加えて語るなら、全編を通して映像がめちゃくちゃかっこいい作品だったことがあります。
    「日が沈みきり、障子の隙間から射していた光が、やがて消えた。薄闇の中に小さな煙草の火だけが、赤々と燃えていた」とか「雨戸の隙間から恐ろしく鋭い視線がのぞいた。だが、それは悟の顔を捉えた途端に和らぎ、芳雄がひょっこり顔を出した」とかめちゃくちゃ良くないですか!? 小説だからこそできる映像の作り方をフルに活用している。描写の一つ一つによすぎる……!と感嘆させられるばかりでした。
     今回挙げた二つはどっちも「見えないこと」を活用して、普通のカメラではありえない映像を作り出しているんですよね。開幕早々こんな文章が出てくるものですから、どっひぇ~~~!となりながら読みました。強い。

     凄い力作でした。素敵な作品をありがとうございます。

    作者からの返信

    ありがとうございます。
    ここまで深く読み込んでいただき、細かく言及していただく機会も無かったので、大変嬉しいです。
    因習村というモチーフは好きなのですが、サトルとヨシオの祝福をテーマの中心にするため、他を地に足のついたものにしたく、このような形になりました。二人の絆に説得力を持たせることができていたなら良かったです。
    私から言うことはもはや無いくらい的確に講評いただいて恐縮なのですが、一つ明かすとすれば、「風の方へゆけ」というタイトルは完全に後付で、chatGPTに頼んで候補を出してもらった中から選んだものだったりします。言及された構造が先にあり、結果的にしっくりと落ち着いて良かったと思います。

    難しいお題で苦しんだところもありますが、これを書けて良かったと、改めて感じました。意欲的な企画をありがとうございました。