BE MY BABY

霜月校長

第1話

 美しい花には、毒がある。同じように、綺麗事の裏には、醜い本音が潜んでいる。


 「そういや、もうすぐ体育祭だっけ?」


 十月初旬。風の冷たさに秋を感じながら、隣を歩く友人が発した言葉に顔をしかめた。


 「嫌なこと思い出させんなよ……」

 「あれ?政貴まさきって運動苦手だっけ?」


 人好きのする顔が俺を覗き込む。笹原ささはら志郎しろう。俺とは小学校からの腐れ縁だ。


 「運動の得手不得手と、体育祭の好き嫌いは関係ないだろ」


 俺は拗ねたように呟く。そばに立つ街路樹が葉を散らした。幹の根本には動物の足跡のような形の紅葉が降り積もり、色鮮やかな小山を作っていた。

 秋は嫌いだ。体育祭をはじめ、面倒臭い学校行事がやたらと多い。


 「だったら俺に運動神経ゆずってくれよ。俺だって一生に一度くらい女の子からの黄色い声援浴びたいっての!」


 笹原が羨ましそうに言った。いや、別に俺もそんな声援浴びたことないぞ。


 「でもまあ、いつものごとく西条さん張り切るだろうなぁ」


 笹原が頭の後ろで手を組む。俺はその名前を聞いて軽く鳥肌が立った。

 西条さいじょう海鈴みすず。俺と笹原のクラスの学級委員長。才色兼備のお嬢様で、品行方正とか公明正大とかの四字熟語が似合うTHE・優等生。ちなみに、俺が一番嫌いなタイプの人間だ。


 「そうだな……しかも今日、ホームルームあるし。嫌な予感しかしない」


 黒板の前で意気揚々と体育祭について話す西条を想像する。学校に向かう足取りが一気に重たくなった。


 「あっ!そういや今日からコラボガチャ始まるんだった!」


 笹原が慌ててスマホを取り出した。相変わらずのマイペースぶりに俺は嘆息する。


 「はぁ。気が重い……」


 独り言を漏らし、前を向く。俺たちの通う美保高校の正門が、冷たい秋風を通すように口を開いていた。


    *


 「おーし、ホームルーム始めるぞー」

 

 担任の矢野先生がくたびれた調子で教壇に上がった。矢野先生は二十代半ばの男性教諭で、細い銀縁の眼鏡を掛けている。仕事に対する情熱がどこか欠けている印象で、今も好き放題に喋り続ける生徒を前に溜息を吐くばかりだ。俺はそんな彼に同情しつつ、だからと言ってクラスに声を掛けようなんて気は起こさない。


 「はい皆さん!お喋りは止めてください!」


 突然、澄んだ声が響き渡った。生徒たちが一斉に顔を上げる。教卓には、矢野先生に代わって一人の女子が立っていた。腰まである黒髪。鼻筋の通った綺麗な顔には、自信が満ち溢れていた。俺はそんな彼女を見て、拒否反応のように「うえ」と目を細めた。


 「今日の議題はなんと……皆さんお待ちかね!来週末に行われる体育祭についてです!」


 委員長、西条海鈴がパッと顔を輝かせた。教室の空気が微かに浮き足立つ。


 「やっぱりか……」


 深く落胆する。悪い予感って、なんでこんなに当たるんだ。


「今年の二年生は、全部で五種目の競技に出場することになりました。それでは、今から競技内容の発表に移ります」


 西条がチョークを取った。すぐにカッカッと小気味良い音を響かせて、黒板に競技名を書き込んでいく。体育祭が嫌なのは変わりないが、競技によってはまだマシになるかもしれない。俺は一縷の希望を持って黒板を注視した。


 「う、嘘だろ……」


 書き込まれた文字を見て、失意の底に突き落とされた。借り物競争、玉入れ、騎馬戦、クラス全員大繩跳び、そして、選抜メンバーによる代表リレー。最初の二つはいいとして、後ろ三つがダルすぎる。俺の希望は呆気なく砕け散った。


 「みんな聞いて。知っての通り、美保高の体育祭では毎年、学年ごとに順位を決めるわ。つまり、私たち四組は、同じ二年生の他四クラスと優勝を争うわけ」


 いや、優勝なんて超絶どうでもいいのだが……

 文句が飛び交う教室で、なおも西条は続ける。


 「体育祭なんてかったるいと思っている人も、中にはいるかもしれない。けれどね、一期一会という言葉があるように、私たちが同じクラスになったのは奇跡だと思うの。だから私は、四組のみんなで絶対に優勝を掴みたい。来年は受験で忙しくて、体育祭どころじゃないかもしれない。だからみんな、今年こそが最後のチャンスよ。全員で勝利して、最高の思い出を作りましょう!」


 西条が「おー!」と拳を挙げた。が、席に座る生徒たちは誰も手どころか声すら上げない。まるで静かな劇場で一人芝居を見ているようだ。


 「ほ、ほらみんな。えいえいおー!」


 苦笑しつつ、西条がもう一度手を挙げた。すると教室の隅で足を組んで座っていた矢野先生が、「おー」と小さく手を挙げた。するとようやく、「おー……」とまばらに声が上がる。


 「すみませ~ん。リレーは誰が走るんですかぁ?」


 ギャルっぽい見た目の女子が訊ねた。リレーという単語に、俺の心臓がキュッと縮む。


 「そうね。リレーのメンバーは、各クラス男女五人ずつで選出します。立候補したい人がいれば、ぜひ、手を挙げてくれますか?」


 西条が挙手のポーズを取る。当然誰も手を挙げない。


 「だ、誰もいませんね……じゃあオーソドックスに、体力テストの短距離のタイムを参考に決めます」


 心臓の鼓動が早まった。体力テストがあったのは半年も前だ。だから正確なタイムは覚えてない。だが、思ったより落ちてないな、と思った記憶はある。


 「女子は私と、早瀬さんと……」


 西条が黒板に名前を書き込んでいく。一人で体育祭に情熱を燃やすだけあって、西条本人もリレーに出るようだ。女子五人の名前を書き終え、続いて男子へ。頼むから違っていてくれと祈りながら、俺は目を瞑った。


 「えーと……男子の一人目は、久保くんね」


 そう言って西条が、黒板に達筆で、久保政貴、と書き込んだ。


 一瞬、呼吸が止まる。遅れて理解が追いつくと、あまりのツイてなさに神を呪った。


 「え?久保くんって、足はやかったの?」


 前に座る女子が、意外そうな顔で振り向いてきた。


 「あー……中学の時、陸上部だったから」


 俺はポリポリと頭を掻いた。最悪だ。リレーだけは二度とやりたくなかったのに。これでは地獄の運動会ならぬ地獄の体育祭じゃないか……。


 「はい。じゃあ以上十名の人に、このクラスの代表としてバトンを繋いでもらいます」


 西条がチョークを置いた。どうやら彼女としては、このメンバーで決定らしい。クラスのみんなも、わざわざ反論する方が面倒とばかりに受け入れている。

 だけど、俺からすればリレーに出るなんて有り得ない。その言葉を聞くだけで、中学の頃のトラウマが蘇ってくる。ダメだ。吐き気がしてきた……やっぱり、辞退させてもらおう。


 「すまん西条、俺はリレーには……」

 「ケッ。体育祭なんざくだらねぇ」


 俺が辞退の表明のため手を挙げた時。教室後方から、吐き捨てるような声がした。


 「くだらないって……上垣うえがきくん、それはどういう意味?」


 教壇の西条が眉をひそめた。


 「そのままの意味だろうが。こんなの、ただのお遊戯会だろ」


 教室中の視線が後ろに集まる。そこにいたのは、つまらなさそうに頬杖を突く一人の男子。側頭部を刈り上げたツーブロックに、切れ長の鋭い瞳。美保高校ボクシング部の星であり、校内では不良として有名な上垣うえがき龍牙りゅうがだ。ちなみに、代表リレー走者の中には彼の名前もある。


 「人が真剣にやろうとしていることをお遊戯会って、失礼だと思わない?」

 「人って誰だよ。どう見てもハッスルしてんのはお前一人じゃねーか」


 上垣が教室を見回した。咄嗟に目を逸らす者がほとんどだったが、頷く者も何人かいた。


 「それは……現時点では、そうかもしれない。だけど、練習していく内にやる気が沸いてくるはずよ。だって、どうせやるのなら勝った方が嬉しいでしょ?適当にこなすより、本気で取り組んだ方が良い思い出になるに決まってる」


 西条が負けじと反発した。しかし、上垣は嘲笑するように鼻を鳴らす。


 「はっ。思い出作りがしてぇなら、みんなで体育祭サボって遊び行った方がマシだろ」


 上垣の言葉に誰かが笑った。そこから波紋が広がるように、教室中がざわめき出した。


 「それ普通に名案じゃね?」

 「え、体育祭サボってプリとか、逆にウケない?」


 茶化した笑いが飛び交う。そんなクラスの様子を見て、西条は焦ったように口を開いた。


 「そ、そんなのおかしいわ!みんなで協力して何かを成し遂げるから、初めて意味のあるものになるんじゃない!」

 「西条の言う通りだぞー。それにお前ら、俺の前でサボるだなんて言うな」


 西条の甲高い叫び声に、矢野先生の抑揚のない声が加わった。それでも静まることのない教室に、俺はリレーを辞退するタイミングを逸したと溜息を漏らした。


 「とにかく、俺は体育祭なんざやらねぇ。リレーも出ねぇ」


 上垣が席を立った。そのままスタスタと歩いて出口に向かう。


 「ちょっと上垣くん!まだホームルームは終わってな…」

 「あーうるせぇ。うるせえのは綺麗事だけにしろよな」


 上垣は鬱陶しそうに耳を塞ぎ、ピシャリと音を立てて教室から出て行った。最後の言葉にショックを受けたのか、西条は伸ばしかけた腕をダランと落とした。矢野先生は溜息を吐いて、上垣を追うべく教室から去った。チャイムが鳴るまで、生徒たちは好き勝手に喋り続けた。

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