第10話:それでも、生きる
久志は市場の裏手にある、細い路地へと僕を引き込んだ。誰にも見られないように、壁に背を寄せながら進む。土の匂い、血の匂い、埃の匂い――全部が鼻にまとわりついて、吐き気が込み上げた。
「こっちだ。あんまり長居できねぇ。」
久志の声は低く、焦りがにじんでいた。それでも、彼の背中はまっすぐで、迷いがなかった。
僕は、震える足でその背中を追いながら、必死に考えていた。
(こんな場所で、生きていけるのか……?)
目の前で簡単に命を奪われる現実。誰も助けない。誰も泣かない。それが、当たり前の世界。
(帰りたい……)
初めて、心の底からそう思った。あの、何もないと思っていた家に。居場所なんてないと思っていた、あの世界に。
だけど、ここには帰る場所すらない。ただ、生き延びるしかない。
「……着いた。」
久志が立ち止まった。そこは、廃れた倉庫のような建物だった。壁は剥がれ、屋根も穴だらけだ。
「しばらく隠れてろ。」
久志は素早く周囲を見回すと、僕を中に押し込んだ。
倉庫の中は、埃っぽい空気で満たされていた。床にはぼろぼろの毛布や、空き缶、古びた木箱が無造作に転がっている。数人の子供たちが、こちらをじっと見ていた。
「また拾ってきたのか、久志兄ィ。」
「うるせぇな。こいつ、ちょっと事情があるんだよ。」
久志は笑って言ったが、その目は笑っていなかった。
僕は、縮こまるように隅っこに座り込んだ。さっきまでの光景が、頭から離れない。耳鳴りがして、心臓の鼓動だけが異様に大きく聞こえる。
(ここで……生きるしかないのか。)
どこか遠くで、また銃声が鳴った。
それは、雷よりもずっと小さく、でも体の芯まで響く音だった。
僕は目を閉じた。逃げ場なんて、どこにもなかった。
その夜も、久志と火を囲んで話しをしていた。
ぼろ布を重ねた上に腰を下ろすと、蒼真は自然と手をかざしていた。日が沈むと、風は一層冷たさを増し、頬や指先から体温を奪っていく。
久志は木切れで火をいじりながら、じっと炎を見つめていた。
「蒼真。」
不意に呼ばれて、蒼真は顔を上げた。
「お前さ……死にたいと思ったこと、あるか?」
その言葉に、思わず息が止まった。
「……ある。」
静かに、でも確かに頷いた。
久志は、ふっと小さく笑った。
「俺も、ある。」
焚火がぱちっと音を立ててはぜた。炎の影が、久志の横顔にちらちらと揺れている。
「……死んだ方が、楽なんじゃねぇかって、思ってた。」
久志の声は淡々としていた。でもその奥にある痛みは、火の熱よりも強く伝わってくる。
「でもな、それでも生きてるのは――誰かが、俺のこと忘れねぇようにって、思ったからかもしれねぇ。」
蒼真は、黙って聞いていた。
「それに……腹が減ってるときに、誰かが芋くれたりさ。 あったかい布くれたりすると、やっぱ生きててよかったなって思うんだよ。 ――そういうの、なんか悔しいけど、嬉しくてさ。」
久志は少し照れくさそうに笑った。
「だから、俺はまだ、生きてる。
生きてりゃ、たまに、そういうことがある。 それだけで、十分だ。」
蒼真は、火を見つめながら言葉を飲み込んだ。自分は――生きる意味を、勝手に見失っていたのかもしれない。
「……ありがとう。」
やっとの思いで、その一言が口から出た。
久志は、なにも言わずに、火をいじり続けた。
星ひとつ見えない夜空の下。それでも火は、確かにそこにあった。
薄明かりの中、焚火の残り火がまだわずかにくすぶっていた。ぱち、ぱち、と小さな音を立てながら、細い煙が空へと昇っていく。
蒼真は、硬い地面に身を丸めたまま、そっと目を開けた。体は冷え切っていたが、それでも、確かに生きていた。
(生きてる……)
ただそれだけのことが、胸の奥にじんわりと広がっていく。昨日までの自分なら、こんな朝を迎えたことさえ、どうでもよかったはずだ。だけど今は違う。あの光景――目の前で、無残に命が散ったあの瞬間を見たあとでは。
生きているということが、こんなにも脆く、そして重いものだと知った。
「……おはよう。」
低い声が聞こえた。振り返ると、久志が、傷だらけの服を羽織りながら近づいてきた。眠そうな顔をしているけど、その目は静かに、真っ直ぐだった。
「よく眠れたか?」
蒼真は、うまく答えられなかった。だけど、何も言わなくても、久志はふっと笑って、焚火の枝をくすぐるように足した。
「生きてるってだけで、十分だろ。」
ぽつりと、久志が言った。
その言葉が、蒼真の心に、静かに沈んでいった。
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