第9話:別れの雪

 少し歩いた先、埃っぽい市場にたどり着いた。乾いた空気の中に、かすかに酸っぱい匂いが混じっている。いくつかの屋台に並ぶ野菜や干し肉は、どれも痩せて小さかった。


 誰もが無言で、伏し目がちに歩いている。ここに流れる空気は、僕の知っている「市場」とは、まるで違っていた。


「おーい、久志!」


 ぱっと久志が顔を上げる。市場の端で、背の高い青年が手を振っていた。日に焼けた肌、粗末な服、でもどこか真っ直ぐな、あたたかい空気をまとった人だった。


「蒼真、あれ、義兄(にい)さんみたいなもんだ。すげぇ頼りになるんだ!」


久志の笑顔を見て、少しだけ心が和らいだ。 ――そんな、わずかな瞬間だった。


「貴様、徴用だ!!」


 怒鳴り声が、空気を切り裂いた。突然、兵隊服の男たちが数人、青年に詰め寄った。青年が驚いた顔で何かを訴えようとするが、兵隊たちは聞く耳を持たない。


「待ってください!うちには病気の母が……!」


 青年は必死に叫ぶ。声が裏返るほどに、懇願する。でも、兵隊たちは無言で腕をねじり、縄で縛った。まるで、荷物でも扱うように。


 市場の人たちは、誰一人、助けようとしなかった。顔を伏せ、見て見ぬふりをする。足元の埃だけをじっと見つめながら、誰も、声を上げなかった。


久志の顔が、見る間に青ざめていく。握りしめた拳が、小刻みに震えていた。

僕は――何もできなかった。

胸の奥が、冷たい手でぐっと鷲掴みにされる。喉の奥が詰まって、息ができない。


怖い。

怖い。

怖い。


 さっきまで笑っていた人が、抵抗も許されずに連れていかれる。泣き叫んでも、叫び声すら風に飲まれて消えていく。こんなことが、当たり前に起きる世界。


(ここは……僕が知っている世界じゃない。)


 頭では理解しようとしても、心が追いつかない。怖くて、逃げ出したくて、それでも足が動かなかった。


「……また、だ。」


隣で久志が、かすれた声でつぶやいた。

その「また」という言葉に、ぞっとした。つまり、これが“日常”なのだ。人が連れていかれることも、家族と引き離されることも、泣き叫ぶことも――すべて、ここでは当たり前に転がっている。


僕の知っていた日常なんて、もうどこにもない。

乾いた風が、僕たちの間を吹き抜けた。砂埃に目を細めながら、僕はただ、立ち尽くすしかなかった。


兵隊たちは青年を荒々しく引きずりながら、市場の真ん中へと連れてきた。

「逃げるなよ」と誰かが怒鳴った。その瞬間だった。乾いた音が、空気を裂いた。


――パン。


誰かが、小さな悲鳴を上げた。何が起きたのか、理解するのに数秒かかった。


青年が、その場に崩れ落ちていた。目を見開いたまま、何かを言おうとした唇が、空気を震わせただけだった。

土の上に、赤いものが広がっていく。鉄のような、鼻を刺す匂いが一気に漂った。


「……っ」


声にならない悲鳴が、喉にひっかかった。足が震えて、膝が今にも折れそうだった。


(嘘だ……)


(なんで……)


たった今まで、そこに“生きていた”人間が、ほんの一瞬で、ただの「物体」になった。呼吸も、体温も、すべて、音もなく断ち切られて。

兵隊たちは、血だまりに倒れた青年に、興味も示さなかった。ただ無言で、靴で背中を小突き、冷たく吐き捨てる。


「役に立たない奴はいらん。」


そう言って、笑った。周囲の人間たちは――誰一人、声を上げなかった。見て見ぬふりをして、ただ通り過ぎた。

 市場のざわめきだけが、何事もなかったように戻っていく。


(ここでは、人の命なんて――)

(こんなにも、軽いんだ。)


胸の奥が、ひび割れるように痛かった。怒りとか、悲しみとか、そんな生易しい感情じゃない。もっと冷たくて、重くて、何もかも押し潰してくる、そんな感覚。


呼吸が苦しい。喉が焼けるように熱いのに、声が出ない。


「……蒼真。」

隣で久志が、かすかに僕を呼んだ。彼の手が、かすかに震えていた。それでも、目は――まっすぐだった。


「ここじゃ、声を出すな。目立ったら、次は……俺たちだ。」


その言葉に、背筋がぞっと冷たくなる。生きるためには、見て見ぬふりをするしかない。怒ることも、泣くことも、許されない。

ただ黙って、顔を伏せて、通り過ぎるしかない。


――そんな世界。


僕は歯を食いしばった。叫び出したい気持ちを、ぎりぎりのところで押し殺しながら、久志のあとを必死で追った。


(ここは、地獄だ。)


心の奥底で、はっきりと、そう思った。

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