第8話:境界の足音
次の日。僕たちは、町はずれの畑で雑草取りを手伝っていた。
「おい、急げよ。陽が落ちる前に終わらせるぞ!」
久志が声をかける。僕も黙ってうなずき、夢中で手を動かした。指先が泥だらけになっても、構っていられない。今日はなんとか、夜の分の食べ物をもらえそうだった。
そのときだった。
遠くの道に、軍服を着た男たちの姿が見えた。
(兵隊……!?)
土埃を蹴立てて、何人も歩いてくる。銃を持っている。顔つきも険しい。町を巡回している部隊だろうか。
「やばい……」
小声でつぶやくと、久志がすばやく僕の腕をつかんだ。
「走れ!」
怒鳴るような声に、身体が反射的に動いた。二人で畑の裏手へ走る。乾いた地面を蹴るたび、心臓がドクドクと暴れる。
「おい、そこのガキ!」
背後から怒声が飛んだ。足音が近づいてくる。
(捕まったら、どうなる?)
胸が潰れそうなほどの恐怖が押し寄せる。だけど、久志は振り返らなかった。僕の手をぐいっと引っ張って、草むらの中へ飛び込む。頭を低くして、必死に茂みをかき分ける。
枝が顔に当たっても、痛みなんて感じなかった。
どれくらい走っただろう。ようやく、人気のない小さな水路のそばで足を止めた。ぜえぜえと肩で息をする僕に、久志が笑った。
「ったく、もうちょっとで捕まるとこだったな。」
「……怖かった。」
思わず本音が漏れた。
久志は少しだけ目を細めたあと、ぽん、と僕の頭を軽く叩いた。
「怖くていいんだよ。怖いって思ううちは、ちゃんと生きようとしてる証拠だ。」
乾いた風が、久志の言葉をさらっていった。
それでも、胸の奥に、しっかりと刻まれた気がした。
数日後。町の空気が、少しずつ変わり始めたのを僕は感じていた。
道を歩く人々の表情が、どこか硬い。子どもたちの笑い声も、心なしか小さくなった。
「最近、兵隊が増えたな。」
畑帰りの道すがら、久志がぼそりと言った。
僕も頷く。町のあちこちに、軍服姿の兵士たちが目につくようになった。時折、銃声が遠くで響くこともある。
まるで――何かが、じわじわと近づいているみたいだった。
「もうすぐ、ここもやばくなるかもしれねぇな。」
久志の言葉に、胸がきゅっと縮む。
「やばくなるって、どういう意味?」
恐る恐る聞くと、久志は空を見上げた。低く、重たい雲が垂れ込めている。
「戦争だよ。」
短い、その一言だった。
「満州も、だんだんきな臭くなってきた。このままじゃ、どっかに逃げなきゃならなくなるかもしれない。」
逃げる――
そんなこと、考えたこともなかった。僕は、どこにいるのかも、何が起きているのかも、わからないままだったのに。
「だからな、蒼真。これからは、気をつけろよ。変な奴に近づくな。うまい話に乗るな。生き延びたいなら、な。」
久志の目は、いつになく真剣だった。それを見た瞬間、胸の奥に、小さな火が灯った気がした。
(僕も……生き延びなきゃいけないんだ。)
異世界みたいな、この満州で。
知らない時代で。
知らない人たちの中で――
生きなきゃいけないんだ。
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