第7話:二つの孤独

 夜になると、小屋に戻り、拾った薪で火を起こして、薄いお粥や干し芋を食べた。

 空腹は満たされない。寒さも、怖さも消えない。だけど、火を囲んで話す時間だけは、ほんの少し、心が温かくなった。


「なあ、蒼真。おまえの家族は、どんな人たちなんだ?」


ある夜、火を見つめながら、久志がぽつりと聞いてきた。

僕は、少しだけ迷ってから、言葉を選んだ。


「……母さんは、厳しい人だった。父さんとは、もう長い間話してない。……家は、あんまり居心地よくなかった。」


火がぱちんと弾けた音が、やけに大きく響く。久志は、何も言わずに聞いていた。


僕は、続けた。


「でも……小さい頃、よく遊んでくれたのは、おじいちゃんだった。一緒に神社に行ったり、川で魚を捕まえたり……。優しかった。いつも、僕の話をちゃんと聞いてくれた。」


言葉にして初めて、胸の奥にぽっかり空いていた穴が、じわりと疼いた。

久志はしばらく黙っていたが、やがてぽつりとつぶやいた。


「……いいな。」


「え?」


「俺には、そんな人、いなかったから。」


そ の声は、風に混じって消え入りそうだった。焚き火の明かりに照らされた久志の横顔は、どこか寂しげで、遠いものを見ているようだった。


「……俺が子どもの頃、ちょうど満州に日本人がたくさん移ってきて、町が変わりはじめてた時期だった。世の中が騒がしくて、大人たちは毎日、生きることで精一杯だった。いや……生き残る、って言ったほうが近いかもしれない」


久志は、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。冬の朝のように、静かな声で。


「林(りん)舜(しゅん)民(みん)という名の少年がいた。歳は……おまえと同じくらいだったか。親は漢人で、祖父が清朝の役人だったらしい。だけど時代が変わって、身分も言葉も全部が敵意を呼ぶようになった。満人からも、日本人からも、追い出されるようにして、奉天の外れに隠れて暮らしていたよ。」


 僕は黙って、久志の横顔を見ていた。話すたびに、ほんの少しずつ、彼の目が過去に染まっていくようだった。


「偶然だった。冬の夜、路地で倒れていた舜(しゅん)民(みん)を拾って、家に運んだ。それが始まりだった。」


「助けたの?」


「そうだな。……いや、助けたなんて言える立場じゃない。俺は、何もできなかったから。」


少しの沈黙のあと、久志は続けた。


「あの子を匿っていたのが見つかって、俺は軍の尋問を受けた。『なぜ日本人が漢人を助けるのか』って、怒鳴られたよ。……軍の中には、正義を盾にして人を切り捨てる奴がいた。生きるためには、誰かを見捨てなきゃならない。そんな時代だ。」


「舜(しゅん)民(みん)は……?」


久志は、長く息を吐いた。


「いなくなった。俺が軍に呼ばれたその日から。……きっと、自分がいると俺が危険になるって思ったんだろうな。何も言わずに、消えたよ。あの日の朝、いつも握ってた小さな数珠だけが、こたつの隅に転がってた。」


 そこまで言って、久志は口を閉じた。長い間、誰にも語らなかった言葉だったのだろう。奥歯を噛みしめるような顔をして、目を伏せた。

 沈黙が、二人の間に降りる。焚き火の火が、ぱち、ぱち、と乾いた音を立てた。


僕は、言葉を探した。でも、何を言えばいいのか分からなかった。

「つらかったんだね」と言うのは、あまりにも軽くて。

「仕方なかったよ」と言うのは、きっと違う。


だから、僕はただ、小さく声を出した。


「……久志、ありがとう」


「え?」


「話してくれて……ありがとう。俺、聞けてよかった。」


 久志は驚いたようにこちらを見て、それから目を伏せて、かすかに笑った。けれどその笑顔は、どこか痛みを伴っていた。


「……ずっと、誰にも話さなかった。話しても、分かってもらえる気がしなくてな。でも……おまえには、話してもいい気がしたんだ。」


 僕の胸の奥で、何かがふるえていた。

 舜民という少年のことを、僕は知らない。でも、今の久志をつくった記憶のひとつが、そこにあることだけは分かる。

 誰にも言えずに抱えてきた痛み。それでも誰かを信じた記憶。


「……舜民くん、怖かっただろうな。寒かっただろうな。でも、久志と出会えて、嬉しかったと思う。」


ぽつりと言った僕の言葉に、久志は火を見つめたまま、静かに頷いた。


「そうだったら、いいな……。」

その横顔は、どこか少しだけ、やわらかくなった気がした。


 焚き火の光が、揺れる影を僕らの顔に映していた。小さな火のまわりで、ふたつの孤独が、少しだけ寄り添った。


 夜風がまた、静かに吹き抜けた。火が、ぱちりと音を立てた。


 僕には、返す言葉が見つからなかった。ただ、舜民と久志のあいだに、確かに通っていたものがあったのだと思った。国も、名前も、時代さえも超えて。


 それはきっと、火のように小さく、けれど消えることのない想いだった。

 二人の間を、夜風がそっと通り抜けていった。

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