第5話:異郷の空、少年の瞳
久志は、迷いなく狭い路地を駆け抜けた。僕も必死でついていく。道はごつごつとした石畳で、砂埃が靴にまとわりついた。
やがて、古びた煉瓦造りの倉庫の裏手に辿り着く。久志は慣れた手つきで、がらりと扉を開け、中へ招き入れた。
「ここなら大丈夫だ。たぶん、誰も来ねぇよ。」
中は薄暗く、埃っぽい匂いがしたけれど、外よりはずっと落ち着けた。僕は壁に背を預けて、ようやく大きく息を吐く。
「……なあ、ここって、どこなんだ?」
気づけば、ずっと聞きたかったことが、自然と口をついて出ていた。久志は、不思議そうに眉をひそめた。
「なに言ってんだよ。ここは、奉天(ほうてん)だろ。」
奉天。どこかで聞いたことがある。でも、すぐにはピンと来なかった。
「満州国の、奉天市だよ。知らねぇのか?」
満州国。その言葉に、心臓がドクンと跳ねた。
(満州……? まさか、そんな……)
信じられない。でも、あの空気。あの景色。スマホも、何もないこの世界。全部が、ありえないことを裏付けている。
僕は、ようやく自分がとんでもない場所にいることを、理解し始めていた。
奉天。満州国。そんな言葉が、頭の中でぐるぐる回る。ニュースでしか見たことのない、遠い昔の国。
(どうして僕は、ここにいるんだ?)
目の前の久志は、そんな僕の混乱にも気づかず、ほこりまみれの床にどさっと座り込んだ。
「腹減ったなー。……なあ、あんた、どこに泊まってんだ?」
泊まる場所なんて、あるわけがない。僕は曖昧に首を振った。
「そっか。じゃ、今夜は俺んとこ来いよ。」
当たり前みたいに言われて、胸の奥がじんと熱くなる。
(……どうして、こんなにあっさり受け入れてくれるんだろう。)
「いいのか?」
絞り出すように聞くと、久志はきょとんとした顔をしたあと、にっと笑った。
「困ってるやつをほっとけるわけねぇだろ。」
その笑顔に、少しだけ肩の力が抜けた。でも、心のどこかはまだざわついている。
(帰れるのか? 僕は、元の世界に戻れるのか?)
答えは、どこにもなかった。ただ、目の前には、まっすぐな瞳の少年がいるだけだった。
久志に手を引かれるまま、僕は舗装もされていない道を歩いた。風に乗って、乾いた土と、石炭の焦げた匂いが流れてくる。
道端には、ボロボロの服を着た子供たちが、空き缶を叩いて遊んでいた。馬に引かれた荷車が、がたがたと音を立てて通り過ぎる。看板には、見慣れない漢字と、かすれた日本語が並んでいた。
(やっぱり……ここは、満州なんだ。)
現実感なんてないのに、鼻を突く匂いや、吹きつける冷たい風が、いやでもこの場所のリアルを突きつけてくる。
「着いた!」
久志が指さしたのは、古びた長屋だった。木造で、壁はところどころ剥がれている。隙間風どころか、壁ごと吹き飛びそうな頼りなさだ。
「ここ、俺んち!」
久志は得意げに胸を張った。
(……ここに、住んでるのか。)
驚きと戸惑いを隠せないまま、僕は靴を脱いで上がった。床はきしむし、壁はひびだらけだけど、不思議と、温かい空気があった。
「俺しかいねえから、ゆっくりしてけよ。」
久志は、台所の隅からぼろぼろの毛布を引っ張り出して、僕に渡した。
「寒いだろ。これ、使え。」
震える手で毛布を受け取りながら、胸の奥がじんわり熱くなる。
(僕は、ここで……生きていかなきゃいけないんだろうか。)
不安と、ほんの少しの安堵が、胸の中でせめぎ合っていた。
「……なぁ、蒼真」
ランプの灯りが、揺れる久志の横顔を照らす。
「お前、家族は?」
その言葉に、心臓がひとつ、小さく跳ねた。
家族――
あの凍りついたような家。言葉を交わすこともなくすれ違う父。その背中に黙って従うだけの母。
そして、もういない祖父。喉の奥が詰まって、すぐには言葉が出てこなかった。
「……いるよ。けど」
ぽつりと答えた。
「一緒にいても、あんまり意味ない。」
意味ない、なんて言葉を自分の口から出すのは、思ったよりずっと苦しかった。久志は何も言わずに、じっと僕を見つめている。
「顔合わせるだけで、イライラする。……多分、向こうも、僕なんかいらないんだと思う。」
苦笑いをしようとしたけど、うまく笑えなかった。
「……そっか」
久志は、しばらく考え込むようにうつむいた。
やがて、ぽつりとつぶやく。
「俺も、似たようなもんだよ。」
「え……」
「俺の親、もういねえんだ。」
久志は、軽く言った。でも、その声にはかすかな寂しさが滲んでいた。
「満州に来たとき、親とはぐれて、そのまま……それっきり。最初はな、死にそうだった。でも、なんとか生きてる。」
そう言って、久志は苦笑いをした。その笑いが、やけに大人びて見えた。
「だからさ。生きるってだけで、結構、すげえことなんだぜ。」
生きるだけで、すごい。
その言葉が、胸に静かに染みこんでいった。
「……うん」
僕は、小さくうなずいた。しばらく、ふたりの間に静かな夜の空気が流れた。風が窓をかすかに鳴らす音だけが、部屋に満ちていた。
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