志火 ―祖父が遺したもの―
鈴森朔
第1話:返事のない朝
「早くしなさい。遅刻するわよ。」
朝のリビングに、母の声が響く。僕は聞こえないふりをした。いつからだろう、返事をするのをやめたのは。気づけば、母とまともに言葉を交わさなくなっていた。返事をする気力なんて、とっくにどこかに落としてきた。
無言のまま、制服のシャツを羽織り、カバンを肩にかける。玄関に向かうと、父とすれ違った。
一瞬、目が合った。けれど、父は何も言わなかった。僕も、何も言わなかった。
ぎこちない空気だけが、そこに残った。まるで、父にとって僕は、透明な存在であるかのようだった。でもそれでいい。そのほうが、きっと気楽だ。
ギィ―― 玄関のドアが、重たい音を立てて開く。
冷たい朝の空気が、頬を刺した。
(・・今日も、何もない一日が始まるだけだ。)
足元に伸びる影を見つめながら、僕はゆっくりと家を出た。ドアが閉まる音が、背中の奥にじんと響いた。
教室のドアを開けると、ざわめきが耳に飛び込んできた。誰かが笑い、誰かがふざけ合っている。でもその波の中に、僕の居場所はなかった。
僕はそっと窓際の席に腰を下ろす。カバンから一冊の本を取り出す。タイトルも内容も、もう何度も読み返したものだ。物語の中にだけ、ほんの少しの安らぎがあった。
チャイムが鳴っても、僕に声をかける者はいない。それが、当たり前になっていた。
昼休みになっても、僕は席を立たなかった。無言で弁当を広げ、無言で食べる。
誰かと笑い合うことも、からかい合うこともない。冷えた白米の味だけが、やけに鮮明に舌に残った。
「藤倉、ちょっといいか?」
担任に呼び止められた。職員室に入り、進路希望の話をされる。
「お前、進路希望の紙、そろそろ出してくれよ。お母さんやお父さんとは話し合ったか? いつ頃出せそうだ?」
僕は答えられなかった。親とは話をしていないし、将来のことなど何も考えていない。毎日を、ただ荒波を立てずにやり過ごしているだけ。未来なんて、考えたこともなかったから。
職員室を出たとき、ポケットの中の携帯が震えた。画面を見ると、母の名前。普段なら出ることもためらうけれど、なぜかそのときは迷わず通話ボタンを押していた。
「……もしもし。」
「おじいちゃんが……。すぐに病院に来て。」
母の声は震えていた。それを聞いた瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。
足が勝手に動いていた。カバンを肩に引っ掛けたまま、無我夢中で駅へ向かう。周りの景色なんて目に入らなかった。何を考えるでもなく、ただ早く、ただ早くと願いながら、足を前へ運び続けた。
電車の中でも、病院へ向かうタクシーの中でも、心臓の音だけがやたらとうるさかった。
(間に合うだろうか)
そんなことばかり考えていた。病院に着いたとき、母と親戚たちが静かに立っていた。その空気に、すべてを悟った。白いシーツをかぶせられたベッド。そこに、おじいちゃんは静かに眠っていた。
「どうして、待っていてくれなかったんだよ。」
喉の奥から、震えるような声が漏れた。だけどおじいちゃんは、もう何も答えてくれなかった。
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