第8話 悪夢と不穏

 血が流れる。

 息が苦しい。

 甘い声音に安心しながら、意識が薄れる。

 死ぬ。

 このままでは命尽きてしまう。

 そうぼんやり考える。


******


「うわあ!」

 拓海は恐怖から勢い良く立ち上がり、大量の汗をかいて息を切らせていた。

「どうかしましたか?」

 黒板の前に立つ男性教授が驚いたように目を丸くして声をかけてくる。

 周りの数人の同じゼミの学生たちも拓海の方を見る。

 短い呼吸を繰り返しながら、拓海は懸命に声を絞り出す。

「……い、いえ。……大丈夫です。すみません」

 拓海は静かに着席した。

「具合悪いなら医務室行く?私付き添うよ」

 対面で座っていた女子学生がこっそり訪ねてくれる。

「い、いや。大丈夫。ありがとう」

 近頃卒業論文を夜遅くまで書いているからなのか、寝付きが悪くなったからなのかはわからないが、悪夢をよく見るようになった。

 自分が死ぬ直前の夢。

 最近何か特別なことをした覚えも、何かにとり憑かれるような場所へ行った覚えもない。

 原因が分からないせいで夜が怖い。

 夜眠れていないせいで昼間うたた寝をしてしまう回数が増えた。

 彼自身どうすればいいのかが分からない。

 寝ようにも悪夢を見るのが怖い。

 悪夢が怖いから好きなことをして気を紛らわす。

 それでも眠気は襲ってくっる。机で作業しているせいで眠りが浅い。

「……はぁ」

 拓海は浅いため息をついた。



 ゼミが終わると、拓海はふらふらした足取りで大学の敷地を出た。

 冬の夜風が頬を撫でる。

 何もないところでこけそうになると、ガッと腕を掴まれ寸でのところで持ち堪えた。

 何かと背後を振り返ると、そこには眉をひそめた夕灯がいた。

「あぁ、夕灯さん。どうしたの」

「どうしたのじゃないよ!どうしてそんなにフラフラなの」

 拓海は眠気のせいだとだけ説明した。

「そうなの……ねえ、この後用事がなければうちに来ない?」

「……え?」

「ほら、結構大学から近いから。少し仮眠してから帰ろうよ」

「で、でも……家に人がいたり。あと、講義は?医学部、まだあるんじゃないの?」

「今日はもうどの学部も講義ないよ?大丈夫?周り暗くなる時間だって、気づいてる?」

 拓海のゼミは四限で終わったはずだが、どうも記憶があいまいで思い出せない。

「それにうちのことなら大丈夫!今家に誰もいないから!」

 それはそれでさらに行きにくい。

 それに拓海は寝たいわけではない。むしろ寝たくない。

 それでも思考が働かず、頭を縦に一度下した。

「じゃあ、行こう!」

 夕灯に腕をひかれ、拓海は千鳥足で付いて行く。

 数十分歩き、夕灯の家にたどり着いた。

 話をしながら歩いたおかげか、拓海の眠気は随分落ち着いてきた。

「着いたよ」

 目が覚めてきた頃合いに、夕灯の自宅の前まで来ていた。いつ見ても立派な一軒家だ。両親との三人暮らしでは少し広いように思える。

「俺、やっぱり帰るよ」

 眠気がなくなった拓海は、やはり急に来るのは悪いだろう、と目の前にいる夕灯へ声をかけた。

「え!?入って大丈夫だよ!ここまで来たんだから少しお話して帰ろうよ!」

 夕灯は拓海の腕を引っ張り、無理やり家の中へ入れようとする。

 なぜそこまでかたくなに拓海のことを返したくないのか。彼には分らなかったが、そこまで言うのであれば、と夕灯に腕を引かれるまま家へ入った。

 挨拶をして居間の方まで入ると、テレビの前にあるソファーに座らされ、待っていて、と言われた。

 拓海は素直にソファーへ座り、辺りを少し見渡して待っていた。

「何か気になるものでもあった?」

 オレンジジュースとシフォンケーキを持ってきた夕灯に尋ねられる。

「いや、外でも思ったけど、結構広い家だな、って」

「そうかもね」

 夕灯は苦笑いをしながら答える。

 目の前にジュースとケーキを置かれ、どうぞ、と促される。

「四人にしては少し広いよね。部屋も一部屋余っててね。もう完全に物置になっちゃってるよ」

 そうクスクス笑う。

「そっか。いただきます」

「召し上がれ」

 拓海はシフォンケーキを口に含む。

 甘く広がるほのかな香りと味わいに、拓海は思わず瞼を閉じる。

「おいしいね、このシフォンケーキ」

「本当?それ昨日作ったばかりなの!良かったー、お口に合って」

「え?手作り?すごいね、お店のものかと思ったよ」

 夕灯は嬉しかったのか、笑顔を浮かべて拓海の空いている手を取った。

「ありがとう!お菓子作りはね、ママから教えてもらったの。とーってもおいしくて、私はお菓子屋さんのものよりママの作ったお菓子が一番好き!」

 夕灯の話し方は、まるで無邪気な子供のようで愛らしかった。

 拓海はずっと笑顔で彼女の話を聞いていた。

 シフォンケーキを食べてオレンジジュースを飲む。

「――でね!……で…………のに……………………んが言ったの。…………だから……」

 声が途切れる。

 瞼が重い。

 急に眠気に襲われる。

 先ほどまで完全に目が覚めていたのに。

 今眠ってはいけない。また悪夢を見る。そう思うのに、辺りがちかちかして意識が途切れる。

「だい……?…………結構………………おやすみ。………………」

 視界の端に、彼女の笑顔が見えた気がした。




 暗闇。

 暗闇。

 いつまでも暗闇。

 怖い。

 真っ暗は怖い。

 ――姉さん

 ――なあに?

 ――どこにいるの?

 ――私はあなたの近くにいるよ

 ――どこに

 ――ここよ

 ――場所は

 ――下よ

 ――……あなたは、本当に姉さん?

 ――そうよ、拓海。私の大切な弟

(俺は、死んだのだろうか)

 ――彼女を信じてはダメよ。あなたは、生きて――――




「姉さん!」

 そこにいる彼女を呼び、一気に飛び起きる。

「きゃあ!」

 短い悲鳴が近くで聞こえた。

 振り向くと、夕灯が目を丸くして驚いていた。

「あ……ごめん」

「ううん。少しびっくりしただけ。お姉さんの夢見てたの?」

 問われ、首をかしげる。

「見てた……気はする。けど、覚えてない」

「そっか。でもだいぶん落ち着いたね」

「そう、かも」

「うんうん。私の膝で静かに寝息立ててたもんね」

 拓海は理解するのに少し時間を要した。

「……え?あ!ごめん!俺そんなことして!」

「大丈夫だよ?私が膝枕してあげたかっただけなの」

「そ、っか……じゃあ、良いのか?」

「うん。いいよ」

 拓海は夕灯から視線をそらせて照れ隠しに頬をかく。

 本当に夢で姉を見たのか。見たのならそれはもうこの世にいない、ということになるのか。

 そう考えるが、拓海はその思考を消した。

 絶対に姉はまだこの世で生きている。そう思わなければ心が痛む。

「どうする?もう暗いけど、そろそろ帰る?」

 夕灯に言われて、拓海は腕時計を見る。

 時刻は七時。外を見ると月が先ほどまでより上っており、街頭の明かりが辺りで輝いていた。

「え?嘘!?ごめん!俺結構寝てたみたいで!」

 拓海はソファーから勢い良く立ち上がり、特に何をするわけでもなく辺りを見渡す。

「大丈夫だよ。私しかいないから」

 そう言われても、いつから寝ていたのかは忘れたが、確実に一時間以上は眠っている。

 人の家に来て何時間も眠るなど失礼なことだと、拓海は頭を下げる。

「いいってばー」

「もう帰るよ。ごめん、ケーキ途中までしか食べてなくて」

「気に入ったのなら持って帰る?」

 夕灯は拓海の答えを待たずに、台所の方からタッパーを持ってきて、シフォンケーキを入れた。

「あ、ありがとう」

 拓海はタッパーをもらう前にジュースを飲み干す。

 タッパーを受け取り、二人で玄関へ向かう。

「本当にごめん」

「大丈夫だって。眠いの知ってて私が誘ったんだから」

 靴を履き終えた拓海は玄関扉を開ける。

「でもありがとう。だいぶんすっきりしたよ」

「良かった」

 夕灯も靴を履き、玄関先まで見送る。

「えっと……明日は大学来るんだっけ?」

「いや、明日は何も入れてないから家で少し休むよ」

「そっか、じゃあ明後日だね。気をつけて帰ってね」

「うん。また明後日」

 お互いに手を振ってその場から離れた。

 拓海は気になることはあったが、とりあえず早く帰ることに専念する。

「拓海?」

 後ろから声をかけられて振り返る。

「……航?」

 街灯に照らされていた人物は見知った航だった。

「何してるんだ。こんなところで」

 近づいてくる航にそう問いかける。

「こっちのスーパーで特売やってたから買ってきた帰り。そっちはどうしたんだよ。お前今日は早めに大学終わっただろ」

「ああ、ちょっと…………夕灯さんに誘われて」

 航の表情が曇ったように見えた。

「そうか」

 しかしそれもすぐに消え、航は顔をそむけた。

「住宅街ってことは、家に行ったのか?」

 不気味なほど柔らかい笑顔に、拓海は返答が遅れた。

「……ああ。けど、眠すぎて寝ちゃったよ」

「そうか……」

 しばらく無言で歩いた。

 公園の横を通り過ぎ、航が足を止めた。

「なあ」

 声をかけられて、拓海も足を止める。

「お前さ、やっぱり園田さんと別れる気はないか?」

 そういう航の視線は通り過ぎた公園を見ていた。

 表情が見えない。

「別れる気は、無い」

「そうか」

 しばらくの沈黙の後、航が口を開いた。

「なあ、俺が……俺が今ここで、すぐにでも園田さんじゃなくて俺をとってくれ、って言ったら、彼女である園田さんと、親友である俺と、お前はどっちを選ぶんだ?」

「…………質問が分からない」

 意図が全く分からなかった。

 航がなぜそのような質問をするのか。

 彼は一度もそんなことを聞いてきたことが無い。

 拓海が誰と遊んでいようと、誰と一緒にいようと、航は詮索などほとんどしてこなかった。

「だよな…………。ッ……怖いんだ」

 航はいまだに公園の方を向き、一向に拓海の方を見ようとはしない。

「拓海がいなくなるのが」

「なんで――」

「怖いんだよ。怖いけど、お前と園田さんを無理やり引きはがして嫌われるのも嫌だ」

「だ、大丈夫だ。そんな簡単に嫌いになったりはしない」

「じゃあ!」

 ここで初めて航は拓海の顔を見た。

「今ここで俺が園田さんと別れてくれって言ったら分かれてくれるか!?あの人の周り怪しすぎるんだよ!昔このあたりで不穏な事件があった!二度もだ!その事件にあいつが絡んでる!あの医師だってそうだ!」

「なにを――」

 不安で崩した表情が拓海を見つめる。

「俺はずっと調べてた!お前があいつを気にしているって言った時から!絶対に何かあるって!あの事件だって知ってたからな!でも俺は警察との繋がりがあるわけでも優秀な探偵でもない。それでも俺はあの事件を調べて、確証はないがここまでこぎつけたんだ!」

 不安を見せていた顔は、だんだんと怒りの顔に変わり、拓海に近づいてくる。

「お、落ち着けよ……」

「……ッ!」

 拓海に制止され、航はようやく詰め寄るのをやめた。

 深呼吸を繰り返し、頭を抱える。

「……悪かった」

「い、いや、大丈夫。びっくりしたけど」

 航がとぼとぼと歩き出したので、拓海もそれに静かについていく。

 五分ほど歩き、拓海は聞きたかったことを意を決して口にする。

「なあ、さっき言ってた事件ってなんだ」

 航は足を止め、拓海の方へ振り返る。

「……知りたいのか」

「ああ」

 航は少し考える素振りを見せ、自身のスマートフォンをカバンから取り出した。

 航はタブから事件の記事を開く。

「これ。〇×町夫婦遺体消失事件」

 拓海は見せられたスマートフォンの画面をのぞき込む。

「……聞いたことない」

「だろうな。遺体回収した後の事件だからな。でもこっちはあるだろ」

 航は別タブを開く。

「〇×町夫婦惨殺事件」

「……いや、知らない」

「まあ、小学生……いや幼稚園の時の話だしな」

 航はスマートフォンの電源を消して鞄へしまう。

「でもそれがなんだよ。そんなに昔なら夕灯さんは関係ないだろ」

「まあ、そうだよな……。なあ」

「なに?」

「俺はいつでもお前の親友でいるし、いつでも助けてやるからな」

「え、ああ」

「見返りはいらない。お前が生きているならそれでいい。今度こそ――」

 拓海は訝しみ、小首をかしげる。

「そ、そういえばさ」

 何か恐怖を抱いた拓海は声を明るくして話題を変える。

「今年のクリスマスはどうする?去年は美夏さんと三人だったけど。今年は俺はいない方がいいか?」

「いや、あいつもお前がいる方が楽しいだろ。たぶん、あいつ俺より拓海の方が好きだろうからな」

「脚が?」

「そうかもな」

 航は乾いた笑いを漏らす。

 少しでも笑顔になったのならよかった。と、拓海は胸をなでおろす。

「え……っと。なあ」

「なに?園田さんも呼んでいいぞ」

「え、良いのか」

「ああ。別に良いぞ。どうせ一緒がいいだろ」

「……あ、ありがとう」

 一緒がいいと言われ、なんとなく恥ずかしくなったが、航が良い、というのであればもちろん夕灯を誘う。

 四人でいるのが楽しいから。

 航は違うのかもしれない。

 それでも四人で遊びたい。

 航が嫌だというならそれでもいい。その時は二人で遊べばいいだけなのだから。


******


 最近様子がおかしい気がする。

 眠気はほとんどなくなったが、何か違和感がある。

 何かは分からない。分からないので課題へ戻ることにした。

「拓海せんぱーい!こんにちは!」

 元気な声に振り振り返れば、そこには美夏が笑顔で立っていた。

 大学図書館なので数人が大声の美夏へ視線を向ける。

「こんばんは、美夏さんも課題?」

 拓海は隣の椅子を引く。

「はい!」

 大声に静かにするようにジェスチャーすると、美夏は口元を手で塞ぎ辺りをきょろきょろと見渡す。

「……ありがとうございます」

 美夏は姿勢を下げて静かに席に着いた。

「必修に数学あるの酷くないですか?」

「去年の話?俺はできるから別に」

 拓海たちの大学は一年二年の時に必修として英語と数学が組み込まれている。

 単位が取れなければ、翌年に持ち越される。

「数学嫌いなんだっけ?教えようか?」

「応用が苦手なんです。今度また時間ある時に教えてください」

 美夏はそう言って、自身の持っていた心理学の本とノートを開く。

「今は何しているの?」

「心理学の課題です。あとはまとめるだけなんでもう終わります」

「そっか」

 そのあとは何を話すでもなく、二人はそれぞれの課題と卒論を作り上げた。

 図書館を出るまで特に話はしなかったが、美夏は何か気になるのか、時折拓海のことをちらちら見ていた。

 拓海もそれは気になっていた。気になりながら特に何も指摘しなかった。

 お互い少し距離をとりながら図書館から出ると、美夏は拓海の方へ振り返り、意を決した顔を見せた。

「拓海先輩……!」

「な、なに?」

「あ……え、っと……」

 美夏は頭を抱えてうなる。

「ど、どうしよう。聞く?……うー、でも航先輩に止められてるし……あー!でも気になる!」

 小声でぶつぶつ何かを呟いていたと思えば、急に叫びだす。そんな彼女に困惑しつつも、拓海は声をかける。

「大丈夫?」

 美夏は深呼吸して拓海へ急接近する。

「え、あの、何?どうしたの?」

 拓海は後ずさりながら、いつになく真剣な美夏の表情に押される。

「あの!」

「あ、はい」

「最近航先輩から変なお話聞きませんでした?」

「あーっと、なんか幼少の時の事件?を聞いたけど」

「それです!あとは?何かないですか?」

「えー、他は別に……。あ、でも、あいつなんか変だった。夕灯さんと航だったらどっちをとるのか、って」

 拓海がそう伝えると、美夏は口をぽかんと開けて動きを止めた。

「言ったんだ……」

「え?」

「あ、ううん。何でもないです。航先輩、拓海先輩のこと大好きなんです」

「そんな気はしてる」

「たぶん、拓海先輩が思っている以上に好きなんです。今まで会った奴の中で一番気が合う、本心が言い合える、って言ってました」

 むず痒くなる言葉に、少々照れる。

 そこまで思っていてもらっているとは思っていなかった。

「たぶん私のことより好きです」

「えー、そんなことないと思うけど」

「言いきれます。私より拓海先輩のことの方が好きです」

 美夏は少し怒り交じりに確信をもって告げる。

「どうして、そこまで――」

「じゃないと、身内であってもあそこまではできません。進路も夢もすべて捨てて、親友一人の命のためにあそこまで奔走できません」

「な、なに?まって、二人ともどうしたの。最近おかしいよ」

「言っていなかっただけで、あたしたちはずっと思っていました」

 嘘ではないと思わせる口調と表情。拓海はそのあとの言葉が見つからない。

 困っている拓海を見て、美夏の方が言葉を続ける。

「あたしも初めはおかしいと思っていたんです。でも一緒に色々調べていくうちに、あ、そうなのかな、って思って。……でもあたしは夕灯先輩も好きだし、拓海先輩も好きだし、まだ四人で遊んでいたいし、なるべく外には言わないようにしていたし、航先輩にも止められていたし……」

 拓海には彼女が何を言っているのかわからなかった。

 様々な思考が彼の中で渦巻く。動きが止まる。息も止まるように思考が素早く回る。

 彼女たちが何を秘密にし、航が自分を犠牲にしても守りたいモノは拓海の何なのか。

 航から見る夕灯とはいったいどのような人物なのか。

 怖いとは言うが、それがどのような恐怖なのか。聞いても拓海には実感が沸かないだろう。それは好きだからとかではなく、拓海と航では彼女からの受け取り方が全くもって違うからだ。

 外から見れば皆に同じ対応をしているのだが、それでも彼女の印象は真っ二つに割れる。

 それがなぜなのかはわからない。おそらく誰にも分らない。

「拓海先輩」

 美夏に呼ばれて拓海は止めていた体を動かした。

「夕灯先輩のこと好きでいてあげてください」

「え、うん」

「絶対なんて言いません。でも、誰か愛していないといけないと思うんです。航先輩は私とは正反対のことを言うと思います」

「うん。それは」

 何度も言われたからわかっている。

「危険だなって思ったときはいつでも逃げてください。あたしの中ではまだ確証がないんです。航先輩もそうです。だから何も手が出せない。何もないとあたしは願っています」

「う、うん。よくわからないけどありがとう」

 美夏は一度深呼吸をして、次いで水筒の水を一気飲みし、また深呼吸をして拓海に近づく。

「お話は変わりますが!」

「はい」

「今度のクリスマスパーティーはどこでやります?」

「ま……って。話が変わりすぎてついていけない」

「ごめんなさい。こっちが本題だったんですけど、航先輩最近普段よりピリピリしていて、どうしても何かあったのかな、これ話しておこうかな、っていうのでグルグルして課題手に付かなくて……」

 本当にごめんなさい。と美夏は深々と頭を下げる。

「大丈夫。困惑はしたけど俺のこと気にしてくれているのは伝わったから」

「本当ですか?あたしも航先輩も拓海先輩のこと大好きですよ!」

「美夏さんの場合は脚じゃなくて?」

 少しの間。美夏は笑顔で答える。

「……そんなことないですよー!」

「じゃあ即答してほしいんだけど」

 美夏は軽く笑い話を流す。

「で、パーティーの会場だっけ?」

「そうです!今年も航先輩の家で大丈夫でしょうか?」

 二人は歩き出し、近くのバス停まで向かう。

「大丈夫だよ。あいつの家が一番広くて近いからな」

「ですよねー。一人暮らしなのに三部屋もいるのかな、っていつも思ってます」

「でも学割と大家の手伝いで結構金浮いてるらしいし。結構世渡り上手だよな」

「使えるものは使う!っていうタイプですもんね。……で、話を戻しますが、パーティー!夕灯先輩も来ますよね?」

「うん?まだ誘ってはないけど、一応来てもらう予定」

「やった!四人でのパーティー初めてですね!私頑張ってお肉焼きますよー!」

「でもそれ自分で全部かじりつくよね?」

「もっちろんです!あ、皆さんのはきちんと切って分けますからね」

 大丈夫ですよ!と笑顔を見せる。

 緊張が一気に解けて口が軽くなったのか、美夏の口は止まらなくなった。

 マシンガンのように発せられる言葉は、時折聞き逃しようになる。

 どこまで、と決めて帰っていたわけではないが、いつの間にか駅まで二人で来ていた。

「それでは!あたしは先輩とは逆方向なので!」

「うん。ありがとう。楽しかったよ」

「航先輩には内緒ですよー?」

「分かってるよ」

 軽く笑いながら返す。

「それでは……あ!」

 目の前の美夏は拓海の後ろを指さして声を上げる。

 拓海はその指の方へ振り返る。

「え、夕灯さん?」

「夕灯せんぱーい!」

 困惑する拓海を尻目に、美夏は夕灯の方へ駆けていく。

「こんにちは!この駅よく使うんですか?」

「こんにちは。使わないよ。駅の隣のスーパー、このあたりだと比較的安いからよく使うんだ」

「そうなんですね!」

 美夏はゆらゆら揺れて嬉しそうに返事を返す。

「二人はどうしたの?」

 夕灯はいまだに困惑している拓海に向かい問いかける。

「え……あ、帰り。大学の帰りだよ。今度のクリスマスパーティーの事話してたら会話が弾んで、一緒にここまで来たんだ」

「やましいことは何もありません!」

 美夏は元気よくそう告げるが、夕灯は怪しむように切り出す。

「えー、でも美夏ちゃんは拓海君の脚好きなんでしょう?どうかなんてわからないよ?」

「私が好きなのは拓海先輩の脚ですから!」

 美夏がそういうと、拓海は頭を切り替えその場に合わせようと会話に入る。

「へー、じゃあ、俺自身のことはどうでもいいんだな」

 がっかりしたそぶりを見せつついじわるっぽく言う。

「え!そんなことないですよ!拓海先輩いい人ですよ。お勉強教えるのお上手ですし、こんなあたしのこと嫌わないでくれますし。あたしは拓海先輩と航先輩と夕灯先輩と、この四人でもっともーっと一緒に遊んでいたいんです!」

「美夏ちゃん……」

「なので!これからも事故事件病気無く、無事におばあちゃんおじいちゃんに一緒になっていきましょう!」

 美夏は少し距離を取り、振り返る。

「では!また今度!」

 それだけを言って、美夏は駅の方まで駆けて行った。

 二人取り残されると、気まずい空気が流れた。

 拓海は初めの言葉をどうしようかと思考を巡らせる。

「ねえ、拓海君」

 夕灯に呼ばれてはっと我を返した。

「な、なに?」

 航と美夏に色々言われ、色々なところで出会う夕灯に少し違和感を覚えた。それでも彼女が好きだから、まだ信じて不安を振り払う。

「クリスマスパーティーするの?」

「あ、うん。航たちと。夕灯さんも来ていいって言ってたから、どうかな?今年は四人で。二十五日なんだけど、予定が合えば」

「行く!」

 夕灯は即答する。嬉しそうに拓海と距離を詰める。

「皆で一緒にいる方が楽しいもんね。拓海君と二人で、って考えてたけど、美夏ちゃんが言ってた通り、私もまだ四人一緒にいたいもん」

 その言葉に、拓海は内心ほっとした。

 軽やかな笑顔と、一緒にいたいという言葉。何より拓海の知っている夕灯自身を見られたような気がして安心する。

「良かった。じゃあ、詳細は今度メッセージで知らせるから」

「うん、ありがとう」

 少し駄弁って夕灯は家へ、拓海は駅へとお互いに分かれた。

 何も心配するようなことはなかった。

 航と美夏に何を言われようと、拓海自身が彼女のことが好きならば、拓海自身がまだ彼女を信じられるのであれば、まだ一緒にいられる。

「まだ、好きでいられる」

 そう零して電車へ乗り込んだ。

 クリスマスパーティーまであと二週間。

 何もなければいい。

 平穏に日常を過ごすことができれば今は良い。

「来年は卒業」

 卒論も書き切らなければならない。

「姉さん」

 姉の叶わなかった大学卒業というイベントを無事に完遂しなければならない。

 僅かなざわつきを覚えながら、拓海は家へ帰った。

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