春の匂い
星乃想來
ドアの向こうの幻
目を覚ましたとき、部屋はまだ薄暗かった。
時計は午前五時を指している。寝起きの体を起こし、窓を開けると、ひんやりとした春の朝の空気が滑り込んできた。庭に咲く沈丁花の香りが鼻をくすぐり、どこか懐かしい気持ちになった。
キッチンで湯を沸かし、紅茶を淹れる。ひと口飲んでため息をつくと、足元にいた猫が鳴いた。
「……おはよう、リリィ」
返事はもちろんない。ただしっぽを立ててこちらに擦り寄ってくる。その温もりに、自然と微笑みがこぼれた。
今日はあの人が来る日だ。
そう思うだけで胸が高鳴った。
* * *
彼と出会ったのは、ほんの偶然だった。駅前の古本屋。彼は棚の隅から『月と六ペンス』を引き抜き、立ち読みをしていた。私は隣の棚で『遠野物語』を手に取った。たまたま目が合った。お互い、少しだけ微笑んだ。きっかけは、それだけだった。
「渋い本、読まれるんですね」
「そちらこそ」
その日から、私たちは何度も古本屋で顔を合わせ、やがて自然と喫茶店へ足を運ぶようになった。
彼の声は低くて、でもよく通る声だった。目元の小さなホクロが、私にはとても魅力的に見えた。読書の趣味も似ていたし、何より静かに寄り添ってくれる空気感が心地よかった。
恋に落ちるのに、時間は必要なかった。
* * *
昼前には彼が来た。ピンポンというチャイムの音に、胸が跳ねる。リリィが玄関へ駆けていく。
ドアを開けると、懐かしい顔がそこにあった。少しだけ、髪が伸びたように思える。シャツの袖をまくった腕、指の節々まで、私は全部を愛していた。
「久しぶりだね」
「……ほんと、久しぶり」
彼は庭を見て言った。
「沈丁花の香り、すごいな。春って感じがする」
そう。春はいつだって、私たちを連れ戻してくれる。
* * *
昼食は簡単なパスタを作った。ワインを開けて、久々にグラスを合わせる。
「ねぇ」と私は切り出す。
「もし……もしよ? もしまたあの頃に戻れるなら、何をやり直したい?」
彼は静かに目を伏せた。数秒の沈黙の後、彼はこう答えた。
「ごめん」
それだけだった。
私は頷いた。言葉なんて、もう必要なかった。
* * *
夕方になると、彼はそっと立ち上がった。
「そろそろ行くよ」
「そうだね」
私は玄関まで見送る。ドアの前で、彼は振り返った。
「……ありがとう」
私は微笑んで頷いた。リリィが、彼の足元にまとわりついた。
「また来るよ」
「うん。また来てね」
彼の背中が去っていく。私はしばらく、その姿を見つめていた。
* * *
夜。ベッドに横になり、ぼんやりと天井を見上げる。
今日という日は、特別だった。
けれど、夢のようでもあった。
彼と再び会える日は、もうない。
だって、彼はもう——
死んでいるのだから。
* * *
——三年前。
あの日、彼は交通事故で帰らぬ人となった。信号無視のトラックに撥ねられた。即死だった。
だからこそ、今日の来訪は、現実ではありえない。
それでも、毎年、春が来るたびに彼はここへ来る。私の記憶の中に。夢の中に。春の香りにのって。
紅茶の湯気、庭の沈丁花、リリィのしっぽ。
それらが揃うとき、彼はやってくる。
私は、それを拒まない。むしろ、毎年待ち焦がれている。
彼が生きていた頃と、なんら変わらない日常を、私は再演する。何度でも、何度でも。
そしてまた、春が過ぎると、彼はいなくなる。
まるで幻のように。
* * *
翌朝。
リリィが私の腕の中で丸くなって眠っている。私は静かに起き上がり、窓を開ける。
春の香りが、ふたたび部屋に満ちた。
「……おはよう」
独り言のように呟いた言葉が、空に溶けていった。
春の匂い 星乃想來 @SolaHoshino
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