序章 フェニキア、紀元前61年

 二年前、ハリカルナッソス(現トルコのボドルム)近辺を拠点にしていたギリシャ系海賊の頭目のピティアスは、ポンペイウスの軍団に蹴散らされ、家族・親族・手下共もほとんどローマ兵に殺された。


 命からがら、ピティアスは生き残った手下八名と小舟に乗って南へ逃走した。しかし、アナトリア半島の南岸もキプロス島も現在のシリア地中海沿岸もどこまで行ってもローマ支配下に変わりはない。何度もローマ軍に追いかけられて、最後に、命からがらベイルートの北の小さな漁港にたどり着いた。


 その小さな漁港は、フェニキアの奴隷商人、ムラーの一族が支配していた地域であった。ムラーの一族は漁港からその一帯の丘陵地帯までを領地としていた。領地の漁民から一報を受けた当時14歳のムラーは、手下にピティアス一味を捕らえさせた。


 ムラーは「俺はフェニキア人だ。ローマに義理立てする必要はない。おまえの首にかかったはした金の賞金をもらっても俺に得はないさね。ピティアスよ、俺の下で働くというなら、手下ともども、俺の配下に加えてやってもいいのだぞ」とピティアスに言い、ピティアスは承諾した。


 漁港から北に五キロほど行ったところの小さな半島は、そこそこの入り江があった。半島の根本は断崖で囲まれていて、海からしか半島に近づけない。入り江の奥には2アクタス(現在のエーカー、約4,000平米✕2)ほどの平地がある。ムラーの一族の土地だ。そこをもらってピティアスたちの拠点を築いた。ムラーが資金援助をした。


 ピティアスたちが海賊業をやるのはいたしかたない。黒海東岸のコーカサス地方のアディゲ人(エミーの部族)の金髪碧眼、ベッピンを拉致してムラーに献上するのもいいだろう。だが、ムラーは奴隷売買にはあまり興味はない。ムラーの考えでは、奴隷収集はほどほどに交易に力をいれれば、ローマに目をつけられず、隠れ住むこともなくなるというものだった。


 それから二年、散り散りになっていたピティアスの手下も彼が生きている噂を聞いて集まってきた。新たに雇った手下も八十人を超えるようになった。


 ある日、ピティアスがひょっこりムラーの海岸の家を訪れた。ムラーは母屋のバルコニーで朝食を取っていた。「おお、ピティアス、久しぶりだな。朝食はどうだ?一緒に食べよう。どこに航海に行っていたんだ?」と聞いた。


「ヘイ、黒海沿岸まで交易に出てました」

「ほお、土産がありそうだな?」

「土産はあるんですがね、あまり気分の良い話じゃないのもありやして・・・」

「ふ~ん、気分の悪い話?」

「ヘェ、ビールの原料のカフカス産ホップを仕入れて、アナトリア(小アジア、今のトルコ)まで帰ってきたんですがね。そこで、ここの港の商人のデキムスの船が海賊に襲われた後に出会っちまいやしてね」

「デキムス?ああ、そういやあ、俺は彼に交易品の売掛金担保で金を貸していたな。アウレウス金貨四百枚(約2千万円)だったかな?」

「旦那は金貨四百枚も貸していて呑気だなあ。それでね、現場にいくとデキムスの船は沈没しかけていて、交易品は奪われた後でした。デキムスの持ち船は1隻だけ。これでスッテンテンでさ。生き残った船員の話では、デキムスは首をちょん切られて死んだって話ですわ。この話は、まだ街の噂にはなってません。デキムスにも金を貸していたヤツがおりやしょう。たぶん、話を聞いたらすぐ貸し剥がしをするヤツも出てくる。旦那も貸してるんじゃないかと思って急いで来た次第です。旦那、デキムスの屋敷に今から行って、差し押さえをしましょうや」


「デキムスは15年前に嫁を亡くして、後添えに俺の親父の愛妾のルシアを目合わせたんだ。ルシアはもう30になるかな?すぐ娘のオクタビアができた。俺にとっては、乳母とその娘みたいなもんだ。不憫だな。よし、早速行こう」


 馬を二頭用意させた。港まで降りて海岸線を北に行く。デキムスの屋敷は、港の郊外の1アクタス(現在のエーカー、約4,000平米)ほどの果樹園付きの家だった。こりゃあ、売っても金貨八百枚(約4,000万円)がいいところだなあ、とムラーは思った。


 執事が玄関に出てきたので奥方のルシアに目通りをお願いした。応接間は、中級クラスの商人の家に相応しいこじんまりしたものだったが、ルシアの管理が行き届いているのか、清潔で居心地がいい。ルシアが部屋に入ってきた。もう30才だが、さすがに親父の愛妾だっただけはある、美貌は衰えていないとムラーは思った。


「まあまあ、ムラー様、坊ちゃま、お久しぶりでございます」とルシアがムラーにお辞儀をした。

「ルシア、今日はな、良くない知らせを持ってきた」とムラーはピティアスにデキムスの船で起こったことを説明させた。ルシアはガックリして、失神しかけた。ムラーは腕をとって体をささえ、椅子に腰掛けさせた。


「ルシア、気を確かに持って、どうするか、考えるんだ。じきに、金貸しが貸し剥がしにやってくるぞ!」とムラーは言った。ルシアが気丈にも立ち上がって、帳簿を持ってきますと言って部屋を出ていった。


 ルシアが帳簿をムラーに渡した。ふ~ん、俺は金貨四百枚だ。モハメッドから金貨六百枚。ポストゥムスから同じく金貨二百枚。クィントゥスが金貨百枚。合計金貨千三百枚、約6,500万円。


 果樹園付きの屋敷は、金貨八百枚(約4,000万円)がいいところだろう。家財や家付きの奴隷を売ってもたかが知れている。せいぜい金貨百枚。金貨四百枚(約2,000万円)不足だ。破産宣言をすると、ローマの行政府が公開の入札をかけて買い叩かれるだろう。ルシアとオクタビアはローマ市民権を剥奪されて、奴隷に売られる。ルシアは年がいっているので、はした女、オクタビアは女奴隷として、奴隷市場で売られることになるだろう。


 ムラーがその予想をルシアに説明した。ルシアは背を反らせて顎を上げた。「いたしかたないですね、ムラー様。あなたの見積もりが正しそうです。資産を売っても足りないようです」と言って、執事を呼んだ。「オクタビアをここに連れてきて」と命じた。


 オクタビアが応接間に来た。彼女はムラーの1才下の15才だった。幼なじみみたいなものだ。彼は数年彼女に会ってなかったが、ルシアに似て長身の美人に育っていた。ルシアから話を聞いた彼女は、母親と同じく気丈にも泣いたりしなかった。「わ、わかりました。仕方ありませんわね、お母様。私たち、奴隷身分になるしかなさそうです」とガックリと首をたれた。


「まあ、ルシア、オクタビア、ものは相談だが、俺がその借金の肩代わりをしよう。モハメッド、ポストゥムス、クィントゥスには俺が話をつけて、金貨九百枚と利子を支払おう」

「ムラー様、それではムラー様が大損します」とオクタビア。

「いいや。そうでもない。ピティアス、お前のハレムに夫人は何人いる?」

「ヘ?一人ですが・・・第2は昨年亡くなりやして・・・」

「そうか。ルシアは30才の年増だが、どうだ?ルシアを第2夫人にするのは?」


「・・・いえ、ムラー様、身分が違いますぜ。ルシア様はムラー様のお父上の思われ者だったでしょう?海賊の奥方なんて・・・」

「破産する一家だ。身分なんざ関係ない。放っておけばローマ市民権がなくなって奴隷身分になるんだ」

「ご本人様にもお聞きしないと・・・」

「私はまったく構いません。私で良ければピティアス様の夫人でなくとも、奴隷でも構いません。でも、娘は・・・」とルシア。

「オクタビアは、そうだなあ、小さい頃から俺と一緒だった。俺のハレムに入れてもおかしくないぜ?本人次第だけどな」

「ムラー様、わ、私でよろしいんですか?私・・・あの・・・お母様と同じ、ムラー様の奴隷でも構いません」とオクタビア。

「じゃあ、話はそれで決まりだ」


 ムラーは、モハメッド、ポストゥムス、クィントゥスに交渉して、彼らの貸方、金貨九百枚と利子5%を払って話をつけた。こうして、オクタビアはローマ市民権を剥奪されることもなく、ムラーのハレムに入って、彼の長男を産んだ。

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