第3話 消える花嫁(1)
※注意:ラフカディオ・ハーン氏は松江、熊本などで生活しており、横浜で生活していた記録はありません。本作のハーン氏はあくまでも架空世界(まあ、ボンド氏がいる時点で当たり前なのですが)のハーン氏という前提でお楽しみください。
※ ※ ※
ボンド氏との同居生活は、私にとっては順調と言うしかなかった。
日毎に変わる生徒たちの顔ぶれに目をやりつつ、日本の英語教育に精を出し、尋常中学校や師範学校に招かれれば教壇に立つ日々は、忙しくも充実していた。教員としての給与は申し分なく、新聞記者時代よりも暮らし向きは格段に安定していた。それに加え、ボンド氏が同居することになり、驚くほど高額な家賃を支払ってくれるため、我々には住み込みの女中を雇う余裕さえあった。
家の奥まった書斎や陽光が差し込む縁側には、彼の奇妙な実験道具や書物が無造作に並び、生活空間のなかに科学の匂いと埃の匂いが混ざり合っていた。
私が購入していた家は士族の邸宅で、天井は高く、畳や廊下に残る古い木の香りが、日常に静かな落ち着きを与えていた。部屋には十分な余裕があり、窓から差し込む午後の光は、埃と混ざって金色に輝く。時折、ボンド氏の部屋から突如として響く爆発音や、鼻をつく薬品の異臭には目をつぶることにしたが、それ以外は平穏な日常であった。
ボンド氏の生活は奇妙で、予測がつかないものだった。昼過ぎまで寝入っているかと思えば、早朝にひそかに外出することもある。食事は一緒にする日もあれば、部屋の前に置いてほしいと頼むこともあった。夜更けにはバイオリンをかき鳴らし、奇怪な装いで外出し、数日帰宅しないことすら珍しくなかった。私が心配しても、彼はどこ吹く風である。
「先生、ボンドさんへの手紙です」
女中のセツが、少し緊張した面持ちで封書を差し出す。細やかな心配りを持ち、清潔で端正な身なりのセツは、真っ直ぐな性格で、誰もが好感を抱く人物だった。しかし、ボンド氏の奇行には内心怯えており、彼に直接手渡す勇気はない。そのため、私が橋渡し役となるのが常であった。
「また、M氏か」
封書にある蠟の封印を見つめながら、私は呟く。Mとは定期的にボンド氏へ届く郵便の差出人であり、その正体を尋ねてもボンド氏は「英国そのものさ」と冗談めいた答えを返すだけだった。
「わかった。彼に渡しておこう」
「お願いします。それと……」
セツが言いづらそうにしている。その微かなためらいを察し、私はくすりと笑った。
「掃除をさせてほしいのだろう。言っておくよ」
そう告げると、私は封筒を手にボンド氏の部屋へ向かう。夏が終わり秋になりつつあるせいか、廊下の木の床はひんやりと冷たく、踏みしめるたびに微かに軋んだ。
「ボンド、ボクだ」
「ああ、ハーンくんか。入り給え」
ドアをノックすると、間髪入れずボンド氏の声が返ってくる。扉を開けると、室内には刺激臭が漂い、窓から差し込む午後の光に浮かぶ粉塵が、静かに揺れていた。彼は部屋の中央で奇妙な液体を慎重に混ぜ合わせていた。金属とガラスの器具が机上に並び、微かなガラスの反射が光を弾いている。
「火薬の実験はやめてくれよ」
「違うよ。もっと面白いものを作ろうというのだ。セルロースと硝酸を混ぜてみようと思ってね」
ボンド氏は容器を傾け、液体の動きをじっと観察しながら慎重に混合させようとしていた。室内に漂う匂いと光の中で、彼だけが別世界にいるかのようだった。私は問いかける。
「それは何ができるんだい」
「ニトログリセリンだ」
「追い出されたくなければ、今すぐやめてくれ」
私がそういうとボンドは容器を傾ける手を止めた。
「大丈夫だ。作るのはごく少量。それを使って試してみたいことがあるのだ」
「いいから、やめてくれ」
ニトログリセリンは、強心剤としてよりも強力な爆薬として有名である。それを安定させたのが有名なアルフレッド・ノーベルであり、現在では土木工事に欠かせないダイナマイトの原料の1つになっている。
私の真剣さに気づいたボンド氏は、ふたを閉め、実験器具をそのままにして長椅子に横たわった。背もたれに寄りかかり、目を半ば閉じて天井を見つめる姿は、少年が退屈を抱えるような無邪気さと、大人の自堕落さが入り混じっていた。
「退屈なんだよ。最近は領事館からの依頼もないし、ここで君が翻訳した日本の書物を読むばかりだ」
「面白いとは思わないか」
「動物が人間に化けるなんて非化学的な話がかね?」
ボンドの感想に私は口をへの字に曲げる。
彼は科学には広範な知識を持つ反面、民俗学や文学には極めて疎い。私がセツに聞いた日本の妖怪譚を話しても一切興味を示さなかった。
「むじな、だったか。顔のない化け物に動物が化けるってどういう理屈なのかね」
「そういうのは理屈とかじゃないんだよ。もっと、こう……」
私が日本文化の奥深さを語ろうとすると、ボンド氏は首を横に振った。そして私が持っていた封筒に気づくと、さっとそれを奪い取る。
「これはこれは……」
「あ、すまない。それを届けに来たんだよ」
私が言い終わる前に、ボンド氏はソファに腰を下ろし封筒を開く。中の便せんをじっと眺め、大きく鼻息をついた。室内の光と影の中で、彼の瞳は考えに沈み、微かな緊張感が空気に波紋のように広がった。
「なるほど……教授の手も存外に長いようだ」
「教授?」
「いや、こちらの話だ」
そう言うとボンド氏は、便せんを炎の中にくべる。Mからの手紙は、彼の目に他人の手が触れることを許さなかった。ソファの上で空中を見つめ、思索に耽る彼の横顔を、私は静かに見つめ続けた。心の中で、いつもの奇妙さを少しだけ愛おしく思う。
コンコン。
「どうぞ! 鍵はかけていない!」
ボンド氏の声に応じ、ドアが開き、セツが恐る恐る顔を覗かせる。少し赤みを帯びた頬が、緊張と好奇心で微かに揺れていた。
「あの……先生にお客様です。椛島警部です」
「おお!ミスター・カバーがやってきたのか!ボクも一緒に行っていいかね?」
セツの言葉に、私より早くボンド氏が反応する。機敏に立ち上がり、ドアに歩み寄り、私の方に振り返る。
「ほら、ボサッとするな。君の客なんだろう?」
ボンド氏の言葉に、私は肩をすくめる。その仕草を見て、セツがくすりと微笑んだ。
※ ※ ※
「ハーンどん!ボンドどんも!」
広間に入ると、椛島警部が大きな体を揺すりながら両腕を広げ、満面の笑みで出迎えてくれた。その声は低く太く、天井の梁にまで響き渡る。ボンドは軽やかに身をひねってその抱擁をすり抜け、結局、私だけが彼のがっしりとした腕に捕らえられる羽目となった。肩にずしりとのしかかる体重と、香ばしい煙草の匂いが押し寄せ、私は思わず苦笑する。
「いや、元気そうで何よりじゃ。わしなんか、連日の捜査ですっかりやせこけてしまったわい。見間違えたじゃろ?」
椛島警部は額の汗をぬぐいながらそう言うが、腹回りの豊満さはむしろ増しているように見える。
「いやいや、このボンドがミスター・カバーの顔を忘れるはずがないでしょう。一目でわかりましたよ」
ボンドは椛島警部の膨れ上がった胴回りを一瞥し、仰々しいほどの大げさな口調で答える。その声音には皮肉と愛嬌が入り混じり、場の空気を一瞬にして柔らかくした。
「うれしかことを言ってくれる!さすがはボンドどんじゃ!」
笑みを浮かべた椛島警部の頬が朱に染まる。彼は椅子に腰を下ろすと、その大きな体を揺らしながら上機嫌に笑った。ボンドは流れるような所作で私と警部に席を勧める。家主としての役割を奪われた気がするが、彼の堂々とした振る舞いに、私はつい従ってしまう。
「さて、ミスター・カバー。あなたの用件を聞きましょう。徹夜続きで家にも帰ってないほどの事件だ。相当なものでしょう」
ボンドが身を乗り出して言うと、椛島警部の目が大きく見開かれた。
「全くその通りです……ど、どうしてそれを」
驚愕の声を漏らす警部に、ボンドは唇の端を吊り上げ、私にだけ意味ありげな笑みを向ける。食べ物の染みで汚れたシャツ、伸び放題の無精ひげ、そして赤く充血した眼――そのどれもが彼の徹夜と疲労を物語っていた。私でさえ見抜けることを、ボンドが見落とすはずもない。
「相変わらずの神通力じゃ。その力を借りたくて、ここに来たんじゃ」
椛島警部はそう言うや否や、床の上に膝をつき、深々と頭を下げた。
「頼む!外国人のアンタたちには関わりのないことじゃが、罪のない娘が消えたんじゃ!アンタたちを当代一流の紳士だと見込んでのお願いじゃ!手を貸してくれ、ハーンどん、ボンドどん!」
額をすりつける音がかすかに響き、部屋の空気が一変する。ボンドは首をかしげ、訝しむような表情を浮かべた。私は彼に説明してやる。
「これは土下座といって、日本ではきわめて屈辱的な行為だ。それをしてまで、私たちに頼んでいるんだよ」
私が英語で告げると、ボンドは小さく肩をすくめて答えた。
「それはどうでもいいのだが……」
「どうでもいいのか」
呆れを隠せない私の横で、ボンドは椛島警部の肩に優しく手を置いた。その声色は意外なほど柔らかかった。
「お立ちなさい、ミスター・カバー。あなたにそのようなことをしてほしいと、私は一度も思ったことがない。さあ、キミの悩みの種を聞かせてほしい」
「ボンドどん! あなたというお人は……なんたる……」
要するに「さっさと事件を話せ」という意味に過ぎないのだが、椛島警部の目は感極まって潤んでいた。重々しい沈黙を破るように、ボンドは穏やかな笑みを浮かべて腰を下ろす。
「ハーンくん、彼にブランデーを1杯。落ち着いたら話をしてくれたまえ。ことは一刻を争うのでしょう?」
彼の胸の奥でうずくように高まる好奇心を、私はすぐに感じ取った。デキャンタから琥珀色の液体を注ぎ、グラスを椛島警部の前に置く。芳醇な香りが漂う中、警部はそれを一息に煽った。
「実は……」
しばし唇を湿らせ、椛島警部はついに事件の口火を切った。その語り口は重く、そして奇怪な事件の幕開けを予感させるものだった。
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