第二十話『香の名を持たぬ者』
香倉の最奥にて、霧隠と帰蝶は向かい合っていた。
火を使わず、光も差さぬ密室。
ただ香だけが、ふたりの間を満たしている。
「……あなたは、香で何を残すつもりですか?」
霧隠の声が仮面越しに響く。
帰蝶は答えず、静かに香炉の蓋を開けた。
そこから立ちのぼるのは、香名すら持たぬ、色も名も記されぬ“無名香”。
「香は、言葉ではありません。
名を与えられぬ者にも、届くものであってほしい」
霧隠もまた、沈丁花を基調とした香を焚く。
それは、かつて前の御台様が好んだとされる香──だが、その配合はわずかに歪んでいた。
「……それは“偽物”ですね」
帰蝶が告げる。
香は正直だ。記憶にある香りと、実際の香には微細な違いがある。
それを再現しようとする時、必ず“想い”が香に混ざる。
霧隠の香──それは御台様の香ではなく、“霧隠が想う御台様”の香だった。
香の濃度が高まり、意識が揺れる。
無名香が満ちる中、お咲がふらりと膝をついた。
「……あの方の声が……聞こえる……」
彼女の頬を、涙が伝う。
香により引き出された記憶。
忘れられ、記録からも消された御台様の“声なき想い”が、香に宿り、空気に染み出していく。
『私を覚えていて。名がなくても、あなたの胸にいたことを』
香が“記録”ではなく、“再生”となる瞬間だった。
霧隠が立ち尽くす。
彼女の焚いた香は、もはや意味を失っていた。
「……お前は、誰の香を調えた?」
かすれた声で、霧隠が問う。
帰蝶は、焚かれている無名香を指して言った。
「名を持たぬ者、名を奪われた者、忘れられた者……
彼らすべての“魂”の香です」
沈黙ののち、霧隠はゆっくりと仮面を外した。
老いた肌に刻まれた皺、かつて毒香で世を震わせた女の面影がそこにあった。
「……あなたは、名を遺す香師だ」
そう言い残すと、霧隠は背を向けた。
その香はもう、誰の心にも残ることはない。
だが、帰蝶の焚いた“無名香”の余韻は、なお御殿の空に漂い続けていた。
『濃姫の密薬帳 ――毒と微笑は、女の武器です』 常陸之介寛浩◆本能寺から始める信長との天 @shakukankou
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