第十九話『香師、帰還す』
その女が、城に戻ってきたのは、あまりにも唐突だった。
霧隠──
かつて毒香の術で人の命を脅かし、調香師の座から追放された異端者。
今、仮面を纏い、ひとつの名目を携えて再び現れた。
「“香盗(こうとう)”を追っております」
城中で相次ぐ香の不正使用──禁香、調香帳の盗難、存在しないはずの香の発現。
それらの罪を調査する“特命調香師”として、彼女は招き入れられた。
だが、その姿を目にした者のほとんどは、息を呑んだ。
仮面の奥に覗く双眸は冷たく、だがその気配は、かつての香倉の主そのもの。
「……亡霊が、歩いている……」
そう呟いた女中の一人が、ふと香に包まれた瞬間、しゃがみ込み、震え始めた。
「私が……燃やしました……帳面を……あの時……命じられて……」
霧隠が静かに香筒を閉じる。
「香は、言葉よりも正確です」
それは、香によって“記憶を誘発させる術”。
香に隠された記録は、匂いとなって“罪”を目覚めさせる。
帰蝶は、その様子を遠くから見ていた。
(これが、霧隠……)
そして、静かに声をかけた。
「ようこそ、御殿へ。
死者のように戻ってきた方に、ひとつ訊ねたい」
霧隠は仮面のまま微動だにしなかった。
「あなたが“死なせた”人々は、本当に死んでいるのか?」
その瞬間、香の流れが変わった。
霧隠が持つ香炉の蓋が、かすかに揺れる。
そして、口を開いた。
「香は命ではありません。
ですが、“命の在り方”を変えることはできます」
「忘却という死。
記録という命。
あなたは、どちらを選びますか?」
その問いに、帰蝶は答えなかった。
◆
香の波が広がる。
お咲がその場に居合わせていた。
彼女の目がうつろになり、香を吸った瞬間、足元がふらついた。
「……帰蝶様……御台様が……また……」
叫び声とともに、お咲が膝をつく。
香に含まれた“記憶刺激成分”が、彼女の中の“忘れたくても忘れられない何か”を揺さぶったのだ。
「やめて、お咲!」
帰蝶は自らの香包を取り出し、すぐに香を焚く。
それは、清香薄荷と春桂花を主体とした、“精神の鎮静”と“記憶の安定”を図る香。
お咲の呼吸が落ち着いてゆく。
彼女の頬に涙が伝い、崩れるように帰蝶の胸に顔を埋めた。
「……あの方の顔を……また、思い出してしまった……」
霧隠は、何も言わなかった。
ただ、静かに帰蝶を見ていた。
香で人を殺す。
香で人を呼び戻す。
それは同じ“香”でありながら、まったく異なる意思によるものだった。
帰蝶はお咲を支えながら、霧隠に向かって言った。
「私は、香で“殺す”ことはしません。
香で“覚ます”ことを、選びます」
霧隠の仮面の奥で、わずかに何かが動いたような気がした。
その夜。
霧隠は独り、月明かりの下で小さな香を焚いた。
それは、誰も知らぬ香。
ただ、彼女が若き日の信長に捧げた香と、同じ香。
──「あの頃の命は、確かに香っていた」
その香が、今また別の命を目覚めさせようとしている。
それを彼女は、嗅ぎ取っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます